2019年10月12日土曜日

岐神再び(6)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)
岐神再び(5)

前回の追記でございます。

入田村史に猿田彦大神の本社と書かれる「麻能等比古神社」ですが
「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」とありますように「矢野村」とは現在の国府町西矢野でありまして、そこの「松熊」といえば、ここになります。


ただし、現在の御祭神は「手力男命」と「天宇受女命」となっており「猿田彦大神」ではございません。

松熊二神の神とは櫛盤間戸(くしまど)神•豊盤間戸(とよいわまど)の神にて天石門別の神なり。
櫛盤間戸の神、豊盤間戸の神の弓矢を持ち給う御像もこれによる。
名西郡矢野村の弓の丸より二十間ほど戊亥の方に辰巳向きの社、松林のうちにあり。
今にては松熊大明神という。
杉の小山の記より


画像は 出雲宿禰俊信著 杉の小山の記

ここらを見ても天孫降臨の際、三種の神器を守った「思金神」「手力男命」「天石門別神」とその時に道案内を行なった「猿田彦大神」と混同しているようにも思えますので、そこらは注意してください(何を)。

さてと、話を鹿島・香取の方に戻しまして
茨城県鹿嶋市大字神向寺115 鹿島神宮のほど近い場所に鎮座するのが
「阿波神社」

 御祭神は「猿田彦命」
 「鹿島」の「阿波神社」の御祭神が「猿田彦命」。
もう説明はいいかなってモノでしょう。

あと、茨城県稲敷市阿波に鎮座するのが「大杉神社」で「あんばさま」と呼ばれます。
 主祭神
倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
配祀
大己貴命、少彦名命
これも説明は要りますまい、「阿波」に鎮座する「大物主」ですね。
と、もう一度前に出した香取系図を見ていただくと
「経津主尊」の次代に「苗益命」の名が見られますが、この「苗益命」wikipediaなどで調べてみますと「天苗加命」の項目で出てきます。

天苗加命(あめのなえますのみこと)は日本の神で、香取神宮の神職首座(大宮司、大禰宜)を代々つとめる香取氏の祖神である。(天)苗益命朝彦命、朝彦ノ命とも称し、物部小事や天太玉命あるいは天日鷲命かその子の大麻比古命(麻比古命)の別名との説も。

香取氏の系図によれば経津主神の子(兄という説もある)とされる 。 神社の祭神としては香取神宮の摂社の一つ、又見神社(または、若御児神社ともいう)に祭られている。
また、安房神社の極めて近くに香取神社(梶取神社)が大正5年までは存在していたが、その祭神は経津主神ではなく、天富命に従ってこの地に来たと言われる宇豆毘古(槁根津日子)だったという。

弘化二年(1845)『下総国旧事考』:朝彦ノ命の別名「苗加(ナヘマス)ノ命」

香取神宮の主祭神
・香取神宮:普都の大神、経津主神、斎主(イハヒヌシ)の神
・『日本書紀』の一書の二:「経津主神」または「斎主」「斎の大人」。岐神をクニの導きとして各地をめぐり歩き平定し、従わない者を斬り殺し、帰順するものには褒美をあたえ、この時に帰順したのが大物主神と事代主神とある。
・『日本書紀』『続日本後紀』『文徳実録』等の正史や『延喜式』の春日祭祝詞:「伊波比主命」
・『常陸風土記』信太郡の項:「天より降り来たれる神。名は普都大神と号す。」
・『常陸風土記』香島郡の項:「其処にいませる天の大神の社。坂戸の社。沼尾の社。三処を合せて惣べて香島の大神と称う。」
・『先代旧事本紀』:「今下総国香取に坐す大神是なり。」
・大同二年(807)斎部広成『古語拾遺』や『旧事本紀』:「経津主」
・吉田大洋『謎の出雲帝国』『竜神よ、我に来たれ!』:クナトノ大神
・経津主は天太玉命の孫又は曾孫とする説もある。(香取神宮第一の摂社とされる側高神社の祭神は、一説に忌部氏系の天日鷲命とも。)

香取神宮の本殿からほど近いところに不開殿(あけずどの)という摂社があったが、不開殿とは鹿島神宮の正殿のことをいい、毎年三月には、祭神が不開殿に神幸されたというが、斎主が御在世のころ、その住居処のかたわらに神籬を設けて、常時フツノミタマの神に奉仕しておられた

念の為、出典である「下総国旧事考」を確認しますれば
「朝彦命」は「苗加命(苗益命)」と記載されております。
ただね、「安房国忌部家系」によれば、「大麻比古命」の御子が「由布津主命」となってますので世代が逆転するのですよね。
香取系図を見ると、「経津主命」の系譜として「若経津主命」「武経津主命」「忌経津主命」などが見られ、混同があったものか、あるいはwikiにもあったように「苗益命」が(何代目かの)「天日鷲命」であったかも考慮しなければならないかもしれません。

(念の為出しときますけど「天日鷲命」は早雲家系図に
おいては六代続いたことになっております)

どちらにしても、「経津主尊」の系譜が、阿波から「岐神」としてやってきた「猿田彦神」こと「事代主命」に案内され、当地を平定したことは間違い無いでしょう。

だいぶ煮詰まってきたでしょう(笑)。
あと1回くらいでどうにか終わらせたいと目論んでおるのですが、今回の終わりにあと一つだけ。
「鹿島神宮傳記」より
前に説明した「息栖(いきす)神社」の部分。


鹽津老翁は「鹽土老翁神」ですね。
それが「岐神」とは?
続く

2019年10月7日月曜日

岐神再び(5)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
岐神再び(3)
岐神再び(4)

ちょっと前回の訂正(汗)
中辺りに「忌經津主命」の記載が見えるでしょうか。
左のほうに「斎事代主」の記載が見えるでしょうか。
あるいは、「忌經津主命」の「忌」は「忌部」の意味なのか、「斎事代主」は阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する「延喜式式内社 事代主神社」の事代主のことなのか
の部分ですが
「斎事代主」じゃなくて、「斎事主」が正しいです。
あとで「事代主」とは関連があることは書かせてもらいますが、この時点では、まだ「斎事主」です(先走ってしまいました)。
ただ
経津主尊-苗益命-若経津主命-武経津主命-忌経津主命-伊豆豊益命-斎事主命-神武勝命
と続く系譜の中で、伊豆豊益命-斎事主命の部分、「斎」は「イズ」もしくは「イツ」と読み、「伊豆の事主」つまり、「斎主」でフツヌシのことだという説もあります。
訂正と追記いたしまして、お詫び申し上げます。

こんなの貼るトコ見ると、こいつ絶対反省してないな。

で、続きますのですが、そろそろ核心を書かないと、この方に叱られそうなので

にゃあ

では、神山の「おふなとさん」の特徴はといえば

・足神(足痛を治す神・足を丈夫にする神)
・草履をまつる。
・わらじをまつる。
・手足の神(手足通を治す神)。
・足腰痛を治す神。
・子供の守り神。
・岩上より子供が落ちても怪我させない。
・子供が衣類に不自由せん。
・子授け。
・子供が三歳になるまで祀り、以後まつらない。
・家族の守り神。
・家族の健康を祈る。
・主人の身体を守る。
・屋敷の守り神。
が御神体だから塩はまつらない。(修正:ぐーたら)
・塩はまつらない。
・塩ぬき赤飯祭る。
・岐神が祟った結果、祀るようになった。
・講中に災難がない様に又健康祈る。
・悪病を防ぐ。
・畑の守り神。
「徳島県下における岐神信仰に関する言説」より

とありますが、「御神体が蛭」となった時に考えられるのが「蛭子」ですよね。
他に「蛭」のつく神様なんてありません。
さらに「蛭子」と言えば「事代主」、「恵比寿」様のことですよね。
確かに阿波国には「事代主」を冠する式内社「事代主神社」が存在いたします。

阿波町「事代主神社」
また「岐神」は「猿田彦神」だとも書きました。


あぁぁぁぁ、これは何か違うような気が.....

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。

などと、wikipediaでも説明されておりますので、「猿田彦神」についても簡単に説明を載せておきます。



『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。

猿田毘古神を祭神とする神社
全国
 白鬚神社(総本宮:滋賀県高島市)
 猿田彦神社(全国各地)
 猿田彦神社(総本宮:三重県伊勢市)
東日本
 菅布禰神社(福島県郡山市)
 御園神社(東京都大田区西蒲田)
 籠祖神社(東京都千代田区神田神社境内社)
 男石神社(長野県上田市殿城)
 鼻節神社(宮城県七ヶ浜町)
 佐那武神社(石川県野々市市)
 本土神社(岐阜県多治見市)
三重県
 二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)
 椿大神社(総本宮:三重県鈴鹿市)
 都波岐神社・奈加等神社(三重県鈴鹿市)
 阿射加神社(三重県松阪市大阿坂)
 阿射加神社(三重県松阪市小阿坂)
中国・四国・九州
 長澤神社(岡山県井原市大江町)
 塩屋神社(広島県広島市)
 佐太神社(島根県松江市)
- 神社では「佐太御子大神」となっており、母は神魂命の子の枳佐加比売命、加賀の潜戸で生まれたと『出雲国風土記』にある。
 大麻比古神社 (徳島県鳴門市大麻町)
 荒立神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
wikipediaより(一部編集)

大麻比古神社については下の由緒書きの通り
大麻比古大神、猿田彦大神となっております。
大麻比古大神については今回書くと、ややこしくなって収拾がつかなくなるので、別の機会にさせていただくとして(◯◯さんから文句ありそう(笑))。



また、佐那河内の「大宮八幡神社」にも
「天石門別豊玉比売神社」と「猿田彦神社」があったことが碑と残っております。

また「阿波国続風土記」にも「猿田彦大神社」として存在していたことが記載されております。



では、上記を踏まえて、これを見ていただきましょう。
「三輪叢書」より

ああ、やっと出てきたかという声が「ごく一部」から聞こえてまいりました(笑)。
大神氏の系譜を綴る「三輪高宮家系」です。

「都美波八重事代主命  又名猿田彦神、大物主神」

「積羽八重事代主命」は「猿田彦神」であり「大物主神」であると「大神神社」を司る大神氏が仰っておるのですね。
では、率川神社(いさがわじんじゃ)をご存知でしょうか。

率川神社(いさがわじんじゃ)は奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

率川神社末社の住吉神社と春日神社の合間に鎮座するのが「率川(いさがわ)阿波神社」でありますが。

率川阿波神社の御祭神は「奈良市最古のえびすさん」と記されておりますが
社伝によると宝亀二年藤原是公が夢のお告げにより阿波国より勧請した...
つまり宝亀二年まで「事代主神」は奈良にいなかったので、阿波から勧請した事代主命は「猿田彦神」ということでよろしいでしょうか。

そして、上でも記載いたしましたように「猿田彦大神」は
「大麻比古神社」に祀られ、佐那河内には「猿田彦大神社」が存在しており、さらに
入田村史によれば




「猿田彦神社」の「本社」が「麻能等比古神社」として存在していたおの記載を見ることができます。
「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」

「阿波国続風土記」によれば「麻能等比古神社」の御祭神は「舟戸神」とあり、この点でも一致しております。

つまり、阿波、それも神山周辺を「岐神」の本貫地として考えることで次のような想定(個人的には、いいと思いますがね)ができるのではないでしょうか。

1. 「岐神」は地元である神山周辺では「オフナトさん」と呼ばれる(呼ばれていた)。

2. 地元を離れた、あるいは道引の神として各地を巡幸していた時には「猿田彦神」と呼ばれた。

3. 役目を終え、もしくは新たな役目のため「事代主」という職名を与えられた。

1.について言えば道祖神の呼び方について徳島県以外で「フナト」と呼ぶ地域がほほ存在しないこと。


例えば、2について海陽町においては「猿田彦神」を祀る神社が異様に多いということ。
旧海南町が平成4年に発行した「海南町総合学術調査報告書 第二編」に「海南町の神社建築」という記事がありここに面白いことが書かれてあった。猿田彦命に着目していて主祭神として祀っている。神社の数を調べたところ旧海南町は29の神社のうち10を占め、率にして0.345と際立って大きいのだ。
海部川紀行 海部川流域の猿田彦 より引用させていただきました。

3については「事代主」が役職名であることは何度も書いてきた通りです。
下図のように日本書紀には「阿閇臣事代」についての記載があり、「任那」まで出仕していることが見えます。
つまり「事代主」はこの「事代」という役職の「主」トップであるのです。


さらに「阿府誌」に曰く
阿部氏
名西上浦町浦方ト云家有当家元祖成務
天皇朝高志國造阿閇臣祖屋主思命三世孫市
命定賜國造高志此地ノ郷名也当象其今徹
リ式内神社ノ部ニ詳ナリ但シ家始リ二千年
ニ及フ阿閇ハ阿部也今ハ阿部阿倍等同姓也

と「阿閇氏」の本拠地があったことを示唆し、
上一宮大粟神社の摂社、上角の八幡神社が「阿閇宮」と呼ばれていたことは、最近の上一宮大粟神社「阿部」宮司の研究にもある通りです。
上角八幡神社
(正面の写真がどっか行ってしまった)
続く
ラストスパートかな(汗)