何の脈絡もない記事ではございますが、個人的な備忘録として書いておきます。
徳島県美馬郡つるぎ町貞光「児宮(ちごのみや)神社」
創建、寿永二年(1183)
明応五年(1496) ・弘治二年 (1556) ・慶長六年(1601) ・究永廿一年(1644)の年紀が記された棟札が残る。
麻植定光により木綿麻山神社と号されたが、その後「天児宮」となり、今は「児宮(ちごのみや)神社」であるが、その経緯は不明である。
祭神は定かでないが「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」と社記に記されている。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
中臣連等の祖神。中臣とは、神と皇孫との間を執りもつ職能の一族。 中臣氏の子孫は藤原氏として栄えた貴族。また、大中臣氏として伊勢皇太神宮の祭主即ち大宮司を勤めた家柄でもある。
天岩屋戸神話において、天照大御神を岩屋から招き出すために太玉命とともに卜占を行い、 祝詞を奏上する役割を果たす。
『日本書紀』の一書には、中臣連の遠祖 興台産霊(こごとむすひ)の児とあり、 須佐之男命神追放の際に解除太諄辞(はらひのふとのりと)を掌る役を伝える。
玄松子の祭神記より
さて、この「児宮(ちごのみや)神社」ですが
忌部大神宮宮司麻植家の家賀城のあった家賀の里に鎮座しております。
正確には「兒宮」で「児」の旧字ですね。
この、「児宮神社」の社記がなんとも、驚愕の内容でして、斎藤貢氏の「阿波の忌部」に記載がございます。
転記します。
中臣之大祖天児宮社記
常社者式内之官社ニ面麻植之地名神大月次新賞式ト号ス麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮則
當社乎朝廷ニ厚ク尊敬シ賜ヒ而四國之大祭御時タン上シ官幣ニ預リ賜フ當社者木綿麻山児宮四固之大祭
トハ二月五穀祭六月十一月両度月次祭リ八月新嘗會也依而往古者年々官幣乎給布而社領モ相應ニ下シ置
佐礼志事ヲモンヅルニ神代之昔高天原ニ而天照大御神磐屋ニ隠毛里給フ御時御心勇之幣物之料ト而中臣之
大祖天児屋根命ニ寄成神業ニ麻格之二種平佐成シ賜ヒ而麻之波乎以青幣ト志格之波乎以弓白幣ト志瓊鏡
之二種ニ并テ根越之榊に掛テ奉志今諸社二奉掛留瓊鏡木綿乎懸而奉留其根元也皇孫瓊瓊杵尊筑紫二天降
里賜フ御時ヨリ天照大御神勅志給ヒ忌部大祖天太玉命中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ後高
天原之祝乎以内分之御政事乎司賜フ神事乎兼而行奈波志牟阿波國ニ降良世賜フ初テ播種世志麻植定光木
綿麻山ト号ス常國ニ住居而神代之従吉例ニ天子御即位大賞会之節毎止志[本本]之衣由加物平奉里諸ノ御神事
之節ニ幣畠乎作シ事乎往古鎮座吉良川端ヨリ五拾八丁辰巳方木綿麻山ニ御鎮座有天掛留奪キ神恩平人登
志弖アニカンタヒ由来詳成事朝廷之御本録ニ委敷記
慶長八卯年七月吉日寫之
東端山家賀村
笠井龍藏所持
嘉永六丑年十一月吉日写之
阿波國ニ降良世賜フ
誰が?無論「天児屋根命」ですね。
いや、ワタクシが書いたんじゃないですよ(笑)社記を写しただけなんですよ(笑)
信じられませんよね、「天児屋根命」が天降り来したのが、貞光町家賀の里であるなんてねえ。
それもまた忌部の本拠地ですよ。
さて、お手元に日本書記をお持ちの方は参照願いたい。
日本書紀 巻第二 神代下 第九段 一書 第二
高皇産靈尊因勅曰 吾則起樹天津神籬及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命 太玉命 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 乃使二神 陪從天忍穗耳尊以降之
高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、因りて勅(みことのり)して曰く、「吾、則ち天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついわさか)を起し樹(た)てて、當(まさ)に吾が孫の爲に齋(いわ)い奉らん。 汝(いまし)天兒屋命(あまつこやねのみこと)・太玉命(ふったまのみこと)は、宜(よろ)しく天津神籬(あまつひもろき)を持(たも)ちて、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。 乃ち二神(ふたはしらのかみ)をして天忍穗耳尊(あまのおしほみみのみこと)に陪從(そ)えて降(あまくだ)らす。
で、伊勢神宮の相殿神二座には天兒屋命と太玉命が並んで祀られているのです。
社記にも
皇孫瓊瓊杵尊 筑紫二天降里賜フ御時ヨリ 天照大御神勅志給ヒ 忌部大祖 天太玉命 中臣大祖天児屋根命ヲ左右之補佐神ト定賜フ
とあるではないですか。
忌部の祖の本拠地に祀られていても、何の不思議もないのです。
で、ホントはこっから掘り下げるところなんですが、今回はここらまで。
以上、備忘録として記しておきます。