2016年6月24日金曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(9)

やっと(9)まできましたか、今回で一山越せそうですかね。

まとめ:大宜都比売命の裔(8)

では(8)より続けます。
下図は粟飯原家に伝わる「粟飯原家家譜」であります。


 第五十代、桓武天皇から始まる系図が記されており...

 ご覧のように下総、千葉氏に連なる系図が連綿と記載されております。
あるいは「粟飯原家」に伝わる「千葉氏系図」も粟飯原家文書の中に見ることができ
「平氏千葉姓 粟飯原家系図」と記されております。
内容も「粟飯原家家譜」と同様、人皇五十代、桓武天皇より平氏、千葉氏への系図となっております。

さてここで簡単に一般的な千葉氏と粟飯原氏の由緒を引用しておきますと

千葉氏
千葉氏は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えました。
 平安時代末期、千葉氏の惣領であった「千葉介」は、下総国(千葉県北部から茨城県の一部)の在庁(国府に出仕する地方官僚)としての「介」を称した千葉庄を本拠とする地方豪族で、平家に敗れた源頼朝を同族の上総権介広常とともに、挙兵から一貫して協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から鹿児島にいたるまで、全国各地に領地を与えられました。
 千葉一族は「妙見」という神を信仰し、移り住んだ全国各地の領地に妙見神を祀りました。妙見は北極星(または北斗七星)を神格化したもので、もともとは「尊星王(そんじょうおう)」という大陸から伝えられた神様です。千葉一族の代表的な定紋である月星紋や曜星紋は妙見を表しているとされます。

粟飯原氏
千葉一族。「あいはら」「あいばら」とよむ。粟飯原氏には二流があって、ひとつは千葉氏の祖・平良文の兄である平良兼の次男・盛家と三男・良定がともに粟飯原郷を領して粟飯原を称した。もう一流は、良文の後裔平常長の四男・粟飯原常基が「粟飯原孫平」を称したともされる。のちにこの二流はひとつになった。

で、阿波粟飯原氏は前回も引用したように
 細川氏の阿波入部に軍監として随従して阿波国へ入った粟飯原氏がある。 細川陸奥守顕氏が建武4(1337)年、阿波・讃岐守護職となって以来、細川一族は阿波・讃岐・土佐・伊予の四国全域の守護職となっていった(伊予守護はのち河野氏)。粟飯原氏については、貞和3(1347)年から2年間、「幕府政所執事」という、幕府最中枢の長官になっている粟飯原下総守清胤があり、この一族が下っていったものか。

 阿波粟飯原氏の当主が明治期に作成した系譜では、古代氏族の粟国造であった粟凡直の子孫とする。ただし粟飯原氏に伝わる系譜及び家紋、伝わる什物などから、古代氏族末裔説はあくまで伝承であり、千葉氏流粟飯原氏流である事は間違いないだろう。この系譜についての論文でも古代氏族と粟飯原氏との接点については否定的である(『阿波国一宮社と「国造」伝承』)。

ただし、一般的な解説によっても
しかし、下総国内に「粟飯原」の地名を見ることができず、相模国高座郡粟飯原郷(相模原市)がその発祥地ともされているが、ここを発祥地とする粟飯原氏は、武蔵国の強力な武士団・武蔵七党の一派・横山党の横山孝兼の子孫と考えられ、「粟飯原」「藍原」を称している。ただ、千葉氏流の粟飯原氏とは関係はないだろう。

との見解もあり、千葉氏の氏族が多肢に渡って分派してきた経緯も含め、一部混乱していることは否めないのではないでしょうか。

ちなみに千葉氏家紋は
       ●月星   ●三日月に星  ●三日月    ●九曜
       ●陰九曜  ●丸の内に九曜 ●八曜に三日月 ●丸に三つ星
       ●七曜   ●五つ星    ●丸に六つ星  ●鉄砲角に七曜
       ●並び九曜 ●八曜に三日月

阿波の屋号山西「粟飯原家」家紋は「八曜に月星」のように「見えます」ね。
千葉氏が「妙見」信仰を持って家紋を月星紋に定めた故事に倣ったようにも見えますが、全く同じ紋は千葉氏には見られないのも奇異に映るところです。


ちなみに「女紋」はこのように桐紋となっておりました。

ならば、やはり「粟飯原家」は「千葉氏」の傍流じゃないかとの声が聞こえそうです。
ワタクシもそうじゃないかと思っておりました、これを見るまでは。
 明治十四年に提出された「復姓証左書」

「粟飯原氏」「元の姓である」粟凡直(あわのおおしのあたい)」姓に復す(もどす)ための証拠を提出した書面であります。
         復姓 証左書
     己等一族粟飯原氏ハ本姓粟凡直姓ニ
     シテ粟國造ノ裔ナリ遠ツ祖ハ粟國開
     主大宜都比売神ナリ









ちょっと一休み



上記、驚愕すべき出自、
「己等一族粟飯原氏ハ本姓粟凡直姓ニシテ粟國造ノ裔ナリ遠ツ祖ハ粟國開主大宜都比売神ナリ」
を明白に記したのち、国史における証左を綿々と記し
私云ク粟國造ハ大粟姫神の裔ナルヲ高皇産霊尊ノ孫ト云ヘルハ遠祖ニ係ケタル傳ナリ

 千葉ヲ用ルモ更ニ平氏ニ由アル事ナシ粟飯殿ト云ウ曩租(どうそ)ハ國造本紀ニ云千波足尼ノ名ヲ以テ世々千葉を称セリ故ニ平氏族中ノ千葉氏と混同シテ竟ニ平氏ト誤リ記セシモノニテ....
要は、遠祖「千波足尼(ちはのすくね)」の名を「平氏千葉」と混同して使われたと主張しているのです。

私等は本姓「粟凡直」であるので元の姓に戻して子孫に伝えたい........
一族の名を以っての嘆願であります。

続く


2016年6月17日金曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(8)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)
まとめ:大宜都比売命の裔(7)

(7)の記事へのアクセスがやたら少なくて腐っております(涙)

さて、ここからは個人情報に関わる事柄が多出いたします。
細心の注意を保って、出していいこと、出してはダメなこと使い分けるつもりですが、あるいは出してはならないことを書いてしまうやもしれません(いわゆるセンシティブ情報ってことね)。
その場合は是非とも一報お願いいたします(いや、ホントに)。

で、神山町栗生野、ここが阿波國國造本館跡ではないかと推測していると書きました。
ここにあるのが妙見宮


 奉納者を見れば「粟飯原」姓。
手水鉢をみても「粟飯原」の姓が刻んであります。

 ここにあるのが国指定重要文化財である粟飯原家住宅であります。
文化遺産オンラインには
粟飯原家は鮎喰川上流左岸の山裾に建つ農家で、屋敷地は広く、前面に石垣を築く。平面は六間取りで、建築年代は棟札により、宝永七年であることがわかる。この住宅はこの地方における六間取りの平面をもつ最古の家で質もよい。
と記され。
 神山町ホームページの「神山マップ」には
粟飯原家住宅(国指定)
慶応2年(1351年)下総国より阿波に派遣された上山谷6箇村の大庄屋、三日月、粟飯原家の分家である。6間取りで当時の一般農家が2間取りか3間取りが普通であったから粟飯原家は支配階級の民家として貴重なものである。
とあります。

>慶応2年(1351年)下総国より阿波に派遣された
とあるあたりは後ほど反証など出していきたいと思っておりますが、ともあれ。
ここ粟飯原家、天皇が即位した際に行われる「大嘗祭」に代々「粟」を奉納している、いわゆる「献穀(けんこく)」を行っている家系であり、その粟を育てた畑も見せていただきました。
下の写真が献穀の証となるわけです。
 下の写真が、昭和天皇の大嘗祭への献穀時の写真。
 下の写真が、今上天皇の大嘗祭への献穀時の写真。であります。
神山町ホームページにあったように
上山谷6箇村の大庄屋、(屋号)三日月、粟飯原家の分家であり、屋号は「山西」

下図、家紋は日月に八曜のように見えるのですが、これも後述、月星紋とも。
 大正4年の神領村誌には



栗生野名の粟飯原氏は国中著名の舊家なり....「傳曰神領村大粟山一宮大明神所祭の神大宜都比売命世因神勅上は始藝粟炊之為神供藝粟地日大粟山炊粟地日粟飯原」
とあり、
さらには本家「三日月」家の伝承として
粟飯原家系図に曰く大宜津比売命に粟飯を炊き神供と為せしより粟飯原の氏を冐せりと..
云々との記載が見られます。
その後の記述は荒唐無稽のように見えますが、粟飯原家文書にも同様の記述が見え、さらには上記、屋号山西家においては女系を継続してきた経緯があります。
 どちらにしても大宜都比売命まで遡る粟飯原家の出自が村誌に記載されていたのです。
粟飯原家の舊家たる所以は上記記述にも見え、
明治元年の頃にて諸国修行者又は神社仏閣拝礼者来り納経帳に印又は揮毫を請ふもの数多あり之等に対しては印を捺し又染筆を付與するの家例にして大宜都比売命妙見宮、天神宮粟飯原某と記す此事に由るも其の名門たるを知るに足るべし
つまり妙見宮と天神宮は大宜都比売命と粟飯原家が不可分である事、あるいは正当なる末裔である事を示す証だと言っているわけです。

さらには「まとめ:大宜都比売命の裔(2)」で書いた「阿波女社宮主祖系」にある

阿波女神社 宮主祖系

若室神     葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神    千波足尼ナルベシ



この「多久理彦神」の塚(墓所)がここにあると記されているのです。
それが「くりふのみはか」
地元では「みはかさん」と呼ばれる場所なのです。
「たくりひこ」の「た」を除き、「くりひこ」が訛って「くりふの御墓」となったとの説明です。
畑の中にぽつんと祀られており、今尚、粟飯原某の家によって守られております。
場所は申し訳ございませんが、畑の中を通っていく事もあって説明できません。
ただ、わかりやすい場所ではありますので、見かけられたら、離れての拝礼をお願いいたします。

さて、この粟飯原家、歴史に顕われるのが、細川氏の阿波入部に軍監として随従して阿波国へ入った粟飯原氏を挙げる事ができます。
いわゆる、阿波粟飯原氏ということです。

細川氏の阿波入部に軍監として随従して阿波国へ入った粟飯原氏がある。 細川陸奥守顕氏が建武4(1337)年、阿波・讃岐守護職となって以来、細川一族は阿波・讃岐・土佐・伊予の四国全域の守護職となっていった(伊予守護はのち河野氏)。粟飯原氏については、貞和3(1347)年から2年間、「幕府政所執事」という、幕府最中枢の長官になっている粟飯原下総守清胤があり、この一族が下っていったものか。
 阿波粟飯原氏の当主が明治期に作成した系譜では、古代氏族の粟国造であった粟凡直の子孫とする。ただし粟飯原氏に伝わる系譜及び家紋、伝わる什物などから、古代氏族末裔説はあくまで伝承であり、千葉氏流粟飯原氏流である事は間違いないだろう。この系譜についての論文でも古代氏族と粟飯原氏との接点については否定的である(『阿波国一宮社と「国造」伝承』)。
 しかし、幾流かある阿波粟飯原氏の系譜はいずれも錯綜していて、確かなことはわからない。系譜上では、細川持常に仕えたという千葉大炊助胤知がおり、彼が細川氏に従って阿波に移っていったのかもしれない。彼の孫・粟飯原治部胤興は細川政之に仕え、その子・粟飯原左京亮教胤は、主君・細川之持から「之」字を給わって「之胤」を称したという。細川氏没落の後は三好氏に仕えたとされる。

赤字で示したあたりで阿波粟飯原氏は、粟凡直を名乗っているが古代氏族の末裔というのは違っており、「千葉氏流粟飯原氏流」であることは間違いない。
というのが、定説となっております。
これまで、ワタクシが(1)から(7)まで書いてきた伝承、古文書、古跡、村誌の内容などは、すべて間違いであると言われてしまったのですね(笑)。

いいでしょう。
そこまで言うのなら(誰が?)、反論の一つもしたくなるではありませんか(誰に?)。

まあ、無精モンなので反論するのも面倒臭いんですけどぉ。
止めてもいいんですけど、やめましょうかね?
よしっ!!!やーめた(笑)
じゃなく、今回の記事の評判がよければ次を書く、というのはどうでしょうか?
(すっげえ、逃げ打ってますな、でも(7)のアクセスがメチャクチャ少なかったのよ〜、結構頑張ったのに〜)








続く(笑笑笑)

2016年6月8日水曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(7)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)

まとめ:大宜都比売命の裔(6)で、粟飯原家家系図を出し、「天津羽羽(あまつははの)命」も同じく「阿波咩命」「阿波波神」であり、八重事代主神の后神である、まで説明したので、あとは一気に「大宜都比売命」の末裔のお話までと思ったんですが、その前に「粟凡直(あわのおおしのあたい)」は書いとかなくちゃならないので、そっから再開します。


粟国造(阿波)
あわのくにのみやつこ【国造】

[粟国造(阿波)]
粟国造は粟(阿波)国(現・徳島県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の9世孫にあたる千波足尼(ちはのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。
国造氏族は粟凡直(あわのおおしのあたい)と言われ、新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれている。また徳島県徳島市一宮町にある阿波一宮神社の大宮司家である一宮氏は名方別(後の名方宿祢姓)、粟国造(後の粟宿祢姓)の後裔とみられている。徳島県名西郡石井町にある中王子神社には粟国造墓碑が貴重な史料として伝わり、粟凡直一族が古くより統治していたことを証明している。
鳴門市にある萩原墳丘・墓宝幢寺古墳、天河別神社3・4号墳、板野町の愛宕山古墳などの被葬者は粟凡直一族であると考えられている。  「日本辞典」より

前回の記事をご覧になって「新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれている。」というのは、何か違うんでないかな?、と思われた方もいらっしゃると思いますが、ここではペンディングにしておいてと。




阿波国造墓碑
阿波国造墓碑(あわのくにのみやつこぼひ/あわこくぞうぼひ)とは、徳島県名西郡石井町の中王子神社の神体とされてきた塼製の碑。徳島県指定有形文化財。
概要
明治期に近隣で出土して同神社に奉納されたと言われているが具体的経緯は不明である。全長28.8cmの直方体で、上下にほぞがあることから、製作時には台座と笠にあたる部分が付いていたとみられる。また、裏面には製作時の布目の痕が残されている。
正面と側面には文字が刻まれており、それぞれ「阿波国造 名方郡大領正○位下 粟凡直弟臣墓(○は闕字)」「養老七年歳次癸亥 年立」の文字がある、これによって、この碑が粟国造で名方郡の郡司(大領)であった粟凡弟臣(あわのおおしのおとおみ、直は姓)が養老7年(723年)またはその直前に没したために同年に造られた墓碑であることが判明した。ここで注目されるのは、律令制においては墓碑は三位以上の位階を持つ者に限定されている。
一方、闕字があるために不明であるものの粟凡弟臣は正七位下と推定されており、この要件には到底及ばない。このため、この時期にはなし崩し的に四位以下でも墓碑が作成されたとする見方や非公式な副葬品として作られたとする見方がある。wikipedia

また、延喜二年(902年)の「阿波国田上郷戸籍残簡」には粟凡直、姓が随所に見られます。
画像は、はみ出してます(笑)
下が翻刻版です。
右より「粟凡直」姓が並んでいるのが確認できます。

そして近世において
下の画像は神山町上分の「黒松神社」奉納の記録ですが

明治13年「粟凡直」の記載が見えます。
 記録によれば、黒松神社を参拝する修験者らは、こぞって「粟凡直」名のはいった記帳を欲しがったそうです。
さて、鳴門市瀬戸町堂浦の「阿波井神社」をご存知ですか?
この堂浦の「阿波井神社」、本社は対岸の島田島にあり祭神は
「天太玉命」と「大宣都比売命」となっております。
忌部氏の祖神である「天太玉命」と「大宣都比売命」が一緒に祀られているという、稀有な神社であります。
淡路にも南あわじ市(旧三原町)榎列上幡多に「阿波井神社」がありますが、これはここ阿波井神社の分社ということです。

この「天太玉命」と「大宣都比売命」は祀られているということはどういうことなのか。
 「阿波誌」を確認してみれば
 
阿波井祠
在堂浦天正中自古跡谷移舊作粟井或曰粟凡直之廟也....

云々とありますが、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」を祀ったのではなく「粟凡直」が「天太玉命」と「大宣都比売命」を祀ったのだということは容易に推測できます。

「粟凡直」の祖神は「大宣都比売命」。
なぜ「粟凡直」が祖神ではない「天太玉命」を祀ったのか、また祀る場所も「粟凡直」の本拠地である神山近辺でもなく、忌部氏の本拠地である山川、木屋平近辺でもない場所であるのか。





この辺りからは想定の域に入ってしまうので、反論もあろうかと思いますが、あるいは「大宣都比売命」は海を渡ったのではないか、ここから。
渡す手引きをしたのは忌部氏、あるいは忌部氏の祖先。

なぜ、そう考えるのか?
それは、海を渡った先にある神社、泉大津市に鎮座する「大津神社」その現在の境内社である「粟神社」、ここの存在があるからです。
(ここらは『前置その5「大宜都比売命は海を渡ったか?」』のコピーなんで、楽なこと楽なことwwwww)


御祭神を公式ホームページより確認すると

御祭神
大津神社は、合祀以前の各社の御祭神、全十七柱をお祀りしています。
本社
  もと若宮八幡神社の御祭神
    息長帯姫命(神功皇后)
    品陀別命(応神天皇)
  もと宇多神社の御祭神
    素戔嗚尊(お天王)
  もと神明神社の御祭神
    天照大神
    船玉神
  もと菅原神社の御祭神
    菅原道真公


摂社
  粟神社(忌部氏の祖神)
    天太玉命
となっております。
この「粟神社」も由緒を確認いたします。

式内粟宮の由緒
『続日本紀巻三十四』に、
寶龜七年六月甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。
とあります。粟氏は忌部(斎部)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」など太平洋沿岸に勢力を誇っていました。この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。

天太玉命は、天照大神が天岩戸におこもりになったときに、岩戸の前で太占(ふとまに)と呼ばれる卜占をし、大きな勾玉を連ねた玉飾り、大きな鏡、楮(こうぞ)で織った白和幣(しらにぎて)と麻で織った青和幣(あおにぎて)を下げ垂らした真榊を捧げ持って大神の出現を願ったと伝わります。
爾来、占いの神、祭具の神として敬われてきました。

『延喜式巻第九』に、
和泉國六二座 和泉郡廿八座(並小) 粟神社
とあります。粟神社はその昔、地方一円の鎮守として栄え、また式内社として広く崇敬を集めていたといいます。しかし、明治の初め頃には境内地も縮小し て後にはわずかに一小祠があるだけとなり、明治新政府により明治41年4月に大津神社に合祀。社殿は境内の現地に移築されました。

「この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。」
との記載です。
途中に通過点があったのでしょうが、鳴門より泉大津まで渡っております。
が、この由緒は間違っております。
「粟直」の祖神は「大宣都比売命」なのです。
もし、ここに「粟直」の一族が来て「天太玉命」を祀ったのであるならば「阿波井神社」と同様に「大宣都比売命」も祀られていなくてはならないのです。
と、いうことは御祭神から「大宣都比売命」が抜けてしまった、あるいは「大宣都比売命」を「天照大神」として祀っているのかもしれません。
どちらにしても、個人的には「粟直」一族と「忌部」一族が「大宣都比売命」を連れて行った経由地だと考えられるのです。

どこに連れて行ったのかって?
最終目的地は、あそこなんですが、その前に、京都府城陽市市辺字粟谷にも式内社「粟神社」があり、「神社覈録(かくろく)」によれば祭神は「粟直祖神」なので、あるいはこの地を経由して行ったのかもしれません。

京都府城陽市市辺字粟谷 式内社「粟神社」

で、ワタクシが最終的に辿り着いたと「勝手に」考えておりますのが

どことは書きませんけど、「い」から始まる有名どころの神社です(笑)

その根拠の一つが
日本書紀 巻第二 神代下 第九段 一書 第二



高皇産靈尊因勅曰 吾則起樹天津神籬及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命 太玉命 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 乃使二神 陪從天忍穗耳尊以降之

高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、因りて勅(みことのり)して曰く、「吾、則ち天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついわさか)を起し樹(た)てて、當(まさ)に吾が孫の爲に齋(いわ)い奉らん。 汝(いまし)天兒屋命(あまつこやねのみこと)・太玉命(ふったまのみこと)は、宜(よろ)しく天津神籬(あまつひもろき)を持(たも)ちて、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。 乃ち二神(ふたはしらのかみ)をして天忍穗耳尊(あまのおしほみみのみこと)に陪從(そ)えて降(あまくだ)らす。

要は高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)は勅(みことのり)を発して天兒屋命と太玉命は、天津神籬(あまつひもろき)を持って、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。
つまり宮の守護となれと仰られたわけなのです。

国学院大学日本文化研究所 「神家神道発生考」においても

すくなくとも天兒屋命と太玉命を両宮の相殿神と「伊勢神道」所では為していたことは確かである。

との考証が示されているように、太玉命は「伊勢神宮」外宮の守護神として祀られていたことは認めてもいいように思えます。
国学院大学日本文化研究所 「神家神道発生考」部分

そして、これも何度か書かせていただいたように

少なくとも伊勢神宮の「調御倉(つきのみくら)」には宇賀能美多麻(うがのみたま)神が、亦の名を大宜都比売神(こちらがホントの神名かな)として祀られているのです。

う〜、一桁回数で収まるかなと思ってたんですが、7回目でまだこんなトコ(涙)
次回はフェイントはやめて先に進みます(かな)。
続く