まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
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まとめ:大宜都比売命の裔(10)
まとめ:大宜都比売命の裔(11)
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(13)
まとめ:大宜都比売命の裔(14)
さて、最終回です(涙)。
ではここで「鹿児島県神社庁」のサイトより
肝属郡肝付町鎮座の「西宮神社」のご紹介を。
創建年代不詳。旧記によれば、摂津国西宮大神の示現と云う。古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。
古棟札に、大宝二年十一月五日文武天皇の勅旨親直卿の御造立とある。
大宝2年は西暦でいう702年、摂津国西宮大神の示現とあるは、摂津「三嶋鴨神社」に相違なく、ここに「事代主神(ことしろぬしのかみ)」に並び「阿波咩命(あわのめのみこと)」も祀られていることより「大宜都比売命」は
阿波 → 摂津 → 安房 → 伊豆、関東
と移動したことが想定できるでしょう。
「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の経路は一筋縄ではいかなく
阿波(八重地(勝浦))→ 摂津 → 安房 → 関東
阿波(香美)→ 摂津 → 安房 → 伊豆
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)
主祭神の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる。『続日本後紀』の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波咩命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比咩命神社にあたるとされる。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比咩命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった。これらに対して伊古奈比咩命神社社誌では、記紀神話との比較はせず「伊古奈比咩命」という独立の神格を見ている。神名の由来は明らかでないが、『日本三代実録』に見える遠江国の伊古奈神(所在不明)との関連が指摘される。 wikipediaより
この「伊古奈比咩命神社」発行の「道守(ちもり)」によれば
「伊豆大社御神威略記」部分の記載には
事代主神と伊古奈比咩命の神名が記載され
さらには「伊豆」の語源として
もう少し、マシな文章は書けんのかね
延喜式式内社 阿波國勝浦郡 事代主神社
創祀年代不詳。
式内 事代主神社は、全国で阿波の二社のみであり、それ以外で事代主命の名が冠されるのは、奈良の鴨都波八重事代主命神社だけだ。
鴨都波八重事代主命神社の社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したそうである。
「空と風(式内社(事代主神社)生夷神社 勝浦郡勝浦町)」より引用
ちなみに
明治初年時点で、全域が阿波徳島藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている村は以下の通り。(43村3浦)
渋野村、本庄村、宮井村、飯谷村、沼江村、中角村、森村、鶴敷地村、星谷村、久国村、棚野村、中山村、横瀬村、与川内村、坂本村、黄檗村、福川村、藤川村、傍示村、瀬津村、福原村、野尻村、久保村、樫原村、田野々村、市宇村、八重地村、大谷村、方上村、西須賀村、大松村、論田浦、大原浦[2]、鶴岡新田、江田村、田浦村、新居見村、日開野村、中田村、中郷村、小松島浦、金磯新田村、田野村、芝生村、八多村、前原村
そして
阿波市市場町伊月字宮ノ本鎮座「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
ぐーたら気延日記「阿波市市場町 事代主神社」より
こちらが「齋(いつき)」つまりは「巌(いつ)」の事代主神社。
無論、式内社。
ここまで言わずとも、すべてに「阿波咩命」が並び祀られていることより、三嶋神の
由緒を想定することができると思うのです。
このようにして「阿波咩命」こと「大宜都比売命」は名を変えても、あるいは名を忘れられても、事代主命の本后として全国で祀られているのです。
ただし、何度も書いたように「事代主命」は一人ではありませんので「ある時期」の事代主命の本后としてだということに注意願います。
そして、その本家本元の末裔は
この山頂にも
ここやここにも
祀られ
生きている・・・
まとめ:大宜都比売命の裔(15)END
おまけ