前回の
蜑(あま)の男狭磯(おさし)(上)
を書いた時は、もしかしたら収まってくれるかな、なんて希望を持ちながら
書いてたんですが、ちょっと時期尚早だったようで、心苦しい次第です。
震災、津波の救済も後手後手で、見てても歯がゆいですが、こればかりは
お偉い誰かさんにお任せしなければ仕方ありません。
でも、書き始めたんで(下)のほう書いてしまいます。
前回、上編では兵庫の明石と鳴門の里浦に男狭磯(おさし)の墓がある等々書いて
参りましたが、もう一つ書いておきたいのが、この男狭磯(おさし)伝承が日本書紀
だけでなく、他の地方の口伝として残されていることです。
一つ見つけて興味深かったのが
この「リチャード・ゴードン・スミス」(Richard Gordon Smith 1858-1918)
イギリスの富豪だそうですが、彼が明治31年(1896年)日本へ私費で旅行に
来た時に書いた手記。
「ゴードン・スミスの日本仰天日記」として小学館から発行されました。
いやBookMarketで見つけたんですけどね。
その中で、彼が伊勢の答志島(とうしじま)へ行ったとき収拾してきた口伝があります。
引用してみましょう。
インギョウ天皇の時代の一四年目のこと、非常に神聖な神社であるカミ神社のある
神官が、ミカドにこんなことを言った。「スモト湾のアカシ島付近に、誰も引き上
げることができないほどそれはそれは大きなアワビ貝があるのです。アワビを見に
水中深く潜った者がそれを軽々と放り投げたのも目撃されています」。
これを聞いたミカドは、トシ島で最高の潜水夫たちを遣わした。当時、潜水夫は女
ではなく男であった。そのなかでもオサギという男が、もっとも勇敢で優秀な潜水
夫だった。彼は島の強者たちに自分に同行するように命じて、例の貝を水面まで引
き上げよというミカドの望みをかなえようとした。数人の男が挑戦してみたが、誰
一人その貝を岩からはがすことができなかった。
以下略
以下はご存知の通りの話が続きます。「オサギ」が「ミカド」の命のため海底に潜り
アワビ貝を採ってきたが、そのまま死んでしまうというものです。
まずは文中に「スモト湾」の「アカシ島」と書かれています。
「アカシ島」とはなってますが、どうも洲本側、淡路島の東岸方面なら、やはり赤石
でいいような気もしますが、「スモト湾」と赤石では方角が合わないのも確かです。
伊勢の答志島は上の地図の場所です。普通に考えれば、伊勢湾から明石にしても赤石
にしてもわざわざやってくるはずがないでしょう。
で、考えられる事は、まあ単純な推測ですが、長邑に住んでいた海部族が伊勢まで
移動(進出)していった事で伝承、口伝もいっしょに伝わったということでしょう。
ところで、この「リチャード・ゴードン・スミス」
こんなやつです。髭は写真に書き込んでます
(変な格好して、写真に落書きして、なんか自分を見てるよう)
そして、彼が残した当時(100年ちょっと前)の伊勢、答志島の海士の人々。
男性は見事な体、女性は・・・仕事に徹した体ですね。
本には、「暖かい日には彼らは3分間潜る事ができる」とあります。
海中に3分間!すっごいですね。
62歳の老女が58秒間潜ってるのを見たともあります。
テレビで紹介された事もあるので、動画も張っておきます。
これだけでは伊勢の答志島に允恭天皇の話がいつ、何故伝わったのか、どうしてこんな
形になってるのかは分りませんが、何らかの繋がりがあったのは間違いないでしょう。
とにかくも、面白い話です。
もう少し書きたい事もあるんですが、今回はこの辺で。
被災地の皆様方の一刻も早い復旧と、原発事故の収束を祈って。