2011年3月27日日曜日

蜑(あま)の男狭磯(おさし)(下)

原発事故(あえて事故って書くけど)は一向に収束の気配を見せません。
前回の
蜑(あま)の男狭磯(おさし)(上)
を書いた時は、もしかしたら収まってくれるかな、なんて希望を持ちながら
書いてたんですが、ちょっと時期尚早だったようで、心苦しい次第です。
震災、津波の救済も後手後手で、見てても歯がゆいですが、こればかりは
お偉い誰かさんにお任せしなければ仕方ありません。
でも、書き始めたんで(下)のほう書いてしまいます。

前回、上編では兵庫の明石と鳴門の里浦に男狭磯(おさし)の墓がある等々書いて
参りましたが、もう一つ書いておきたいのが、この男狭磯(おさし)伝承が日本書紀
だけでなく、他の地方の口伝として残されていることです。

一つ見つけて興味深かったのが
この「リチャード・ゴードン・スミス」(Richard Gordon Smith 1858-1918)
イギリスの富豪だそうですが、彼が明治31年(1896年)日本へ私費で旅行に
来た時に書いた手記。
「ゴードン・スミスの日本仰天日記」として小学館から発行されました。
いやBookMarketで見つけたんですけどね。
その中で、彼が伊勢の答志島(とうしじま)へ行ったとき収拾してきた口伝があります。
引用してみましょう。

インギョウ天皇の時代の一四年目のこと、非常に神聖な神社であるカミ神社のある
神官が、ミカドにこんなことを言った。「スモト湾のアカシ島付近に、誰も引き上
げることができないほどそれはそれは大きなアワビ貝があるのです。アワビを見に
水中深く潜った者がそれを軽々と放り投げたのも目撃されています」。
これを聞いたミカドは、トシ島で最高の潜水夫たちを遣わした。当時、潜水夫は女
ではなく男であった。そのなかでもオサギという男が、もっとも勇敢で優秀な潜水
夫だった。彼は島の強者たちに自分に同行するように命じて、例の貝を水面まで引
き上げよというミカドの望みをかなえようとした。数人の男が挑戦してみたが、誰
一人その貝を岩からはがすことができなかった。

以下略

以下はご存知の通りの話が続きます。「オサギ」が「ミカド」の命のため海底に潜り
アワビ貝を採ってきたが、そのまま死んでしまうというものです。



まずは文中に「スモト湾」の「アカシ島」と書かれています。
「アカシ島」とはなってますが、どうも洲本側、淡路島の東岸方面なら、やはり赤石
でいいような気もしますが、「スモト湾」と赤石では方角が合わないのも確かです。

伊勢の答志島は上の地図の場所です。普通に考えれば、伊勢湾から明石にしても赤石
にしてもわざわざやってくるはずがないでしょう。
で、考えられる事は、まあ単純な推測ですが、長邑に住んでいた海部族が伊勢まで
移動(進出)していった事で伝承、口伝もいっしょに伝わったということでしょう。

ところで、この「リチャード・ゴードン・スミス」
こんなやつです。髭は写真に書き込んでます
(変な格好して、写真に落書きして、なんか自分を見てるよう)
そして、彼が残した当時(100年ちょっと前)の伊勢、答志島の海士の人々。
男性は見事な体、女性は・・・仕事に徹した体ですね。
本には、「暖かい日には彼らは3分間潜る事ができる」とあります。
海中に3分間!すっごいですね。
62歳の老女が58秒間潜ってるのを見たともあります。

テレビで紹介された事もあるので、動画も張っておきます。


これだけでは伊勢の答志島に允恭天皇の話がいつ、何故伝わったのか、どうしてこんな
形になってるのかは分りませんが、何らかの繋がりがあったのは間違いないでしょう。
とにかくも、面白い話です。

もう少し書きたい事もあるんですが、今回はこの辺で。

被災地の皆様方の一刻も早い復旧と、原発事故の収束を祈って。


2011年3月25日金曜日

蜑(あま)の男狭磯(おさし)(上)

改めまして、被災地の皆様方には心より御見舞い申し上げます。
ありきたりではございますが、一日でも早い復興を御祈り申し上げます。
原発の災害や人災としか言いようのない二次、三次被害が続いている中
非被災地である当地で、心苦しくも日常を身過ぎ世過ぎしております。
この様な役にも立たないブログを綴るのも日暮しの一部とて、ご容赦願います。

さて、「日本書紀」巻十三 允恭紀に見える、「男狭磯(おさし)」の記事でございます。
知ってるサイトの方々はもう既に書いてるし、有名な話なんで、いまさらワタクシ
などが書くのも気が引けるんですが、ご存じない方もいらっしゃるかもしれない
かもしれないかもかも、なので、書いてもいいかな?かな?かな?なんてね。

まずは原文より


十四年秋九月 癸丑朔甲子 天皇獦于淡路島
時麋鹿、猿、豬、莫莫紛紛盈于山谷 焱起蠅散 然終日以不獲一獸 於是獦止以更卜矣
島神祟之曰 「不得獸者是我之心也 赤石海底有真珠 其珠祠於我 則悉當得獸」爰更
集處處之白水郎 以令探赤石海底 海深不能至底
唯有一海人 曰-男狹磯 是阿波國長邑之海人也 
勝於諸海人 是腰繫繩入海底 差頃之
出曰 「於海底 有大鰒 其處光也」
諸人皆曰 「島神所請之珠 殆有是鰒腹乎」 亦入探之
爰男狹磯抱大鰒而泛出之 乃息絕以死浪上
既而下繩測海底,六十尋
則割鰒 實真珠有腹中 其大如桃子 乃祠島神而獦之 多獲獸也 
唯悲男狹磯入海死之 則作墓厚葬 其墓猶今存之

で、現代語訳じゃなくて、お話として徳島新聞の阿波の民話より、一部編集して引用してみます。



允恭天皇(いんぎょうてんのう)の十四年九月十二日、天皇は淡路島へ狩りに出かけられたそうな。
 淡路島には鹿や猿、猪がようけおった。ところが、天皇や家来どもが島中を走り回っても、一匹のケモノも捕れなんだ。こんなことは今までになかった。
 ほんで、島の神様におうかがいすると、


 「ケモノがとれんのはわしがそうさせとるからじゃ。赤石(あかいし)の海の底に見事な真珠がある。ほの真珠を捕ってきてわしにまつれば猟は思いのままじゃ」
 って、おおせられた。


 早速、全国から潜りの名人を集めて赤石の海の底へ潜らせた。ところが、海があんまりにも深いんで、だれ一人海の底まで届いたもんはおらなんだ。


 ほのとき、天皇は阿波の長邑(ながのむら)に男狭磯(おさし)ちゅう潜りの名人がおるんを聞いて呼び寄せた。

ほんで、天皇は男狭磯(おさし)を呼ばせた。やってきた男狭磯(おさし)に、腰に長い縄(なわ)をくくり付けて海底へ潜らせた。だいぶんして浮(う)き上(あ)がりながら、


 「海の底に大けなあわびがおりました。ほの辺りが光っとります」


 と、申し上げた。天皇は


 「ほれじゃ。島の神が欲しいちゅう玉はほのあわびの腹ん中にあるはずじゃ」


 ほんで、男狭磯(おさし)はまた海の底へ潜った。だいぶんしてから男狭磯(おさし)は、大けなあわびを抱えて浮き上がってきた。しかし、海ん中であんまりおったんで、息が絶えて波の上でのうなってしもうた。


 天皇が縄で海の深さを測らせると、なんと六十尋(ろくじゅうひろ)もあった。この深)さでは並の海士(あま)はよう潜れんだろうとささやきおうた。


 早速、あわびの腹を割くと桃の実ほどの大けな真珠が出てきた。天皇はほの真珠を島の神さんにお供えして狩りを始めた。おもっしょいほどの獲物があった。

島の神さんは、


 「こんな見事な真珠をまつってくれたんはうれしいが、ほのため海士(あま)が死んだそうな。丁重に葬ってやれ」


 と、言われた。天皇は早速家来に命じて墓を造らせた。ほれが里浦(さとうら)にあるアマヅカじゃ。


 さて、男狭磯(おさし)の住んどったとこが阿波国長邑(ながのむら)じゃ。大昔、旧の那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)を長国(ながのくに)(邑(むら))ちょった。ほこの海士(あま)じゃった。


 長邑(ながのむら)の潜りは有名で「延喜式(えんぎしき)」の中に那賀(なか)の潜女(かつぎめ)が「あわび四十五編(しじゅうごあみ)、すあわび十五坩(じゅうごつぼ)」を献上したとある。


 潜女(かつぎめ)は海女(あま)じゃ。男狭磯(おさし)は男じゃ。椿泊浦(つばきどまりうら)や海部郡(かいふごおり)では男も女も潜りをして暮らしをたてておった。


 今でも海部郡(かいふぐん)では海へ入ってあわびやさざえを捕るんを「かづく」ちよるが、これは古い言葉で、すでに允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代から那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)の潜りはよう知られとった。





以上です。解説は不要なので今日はここまで。

ってか?
なら徳島新聞だけ見てたらいいんで言わずもがなの解説を少しだけ。

原文中にある「白水郎」が「海士(あま)」のことですね。
一尋は両手を広げた広さの事なので、六十尋なら90メートルから100メートル
程度の深さでしょう。それを素潜りするんですから、ジャック・マイヨールも
裸足で逃げ出しかねない凄さです。
ちなみに、允恭記の解説で、人間が100メートルも潜れる訳がないなんて書いてある
サイトがありましたが、何をか言わんや。海士をなめきってますね。

さて、この男狭磯(おさし)の墓があるのは鳴門市里浦の「十二神社」でございます。
場所はここ。

より大きな地図で 十二神社 を表示

そして、この境内に「男狭磯(おさし)の墓」が。
これでございます。
また、この境内には「蜑(あま)男狭磯の井戸」というのがありまして。
男狭磯の屋敷跡と伝えられております。
逆光で申し訳ございません。
金網が張ってあるので生きてる井戸かどうかは分りませんでした。
明石市のホームページや兵庫の方々のサイトには、原文では「赤石」と
ちゃんと書いてあるのに、なぜか「明石」だと皆様おっしゃります。
阿波の小松島に「赤石」の地名があるのに、何故でしょうか。
また、明石の無量光寺本堂後に「男狭磯(おさし)の墓」があるそうでございます。
じゃあ、上の写真の墓はなんでしょうかね。
阿波の長邑から明石にまで海士を呼ぶのも、なんだかなあと、思ったりもしますし。
ま、阿波の長邑にも複数の説がありまして、上の民話のように那賀郡、海部郡と
いう説と、やはり鳴門の里浦であるとの説があります。
里浦も古く長邑と呼ばれてたそうなのです。
阿波誌に出てるそうなんですが、手元に画像がないんで
明治43年頃「田山花袋」の書いた「新撰名勝地誌」に記載がありましたので
出してみます。
右から5行目、前にも書いた「清少納言の墓」の所から読み進むと
「由来この地は舊称を長邑と称し」とありますよね。
余談ですが「田山花袋」よく調べてますねぇ。
これ、全国の名勝地を網羅してるんです。本人は「全国を回った訳じゃない」
などと言ってたそうですが。
どちらにしても、「赤石」に赴くのなら、「海路」大した距離じゃないんで
(今でも椿泊から徳島へ行くのなら船が速いぞ)
「明石」まで行くような旅行にはならないと思いますがね。

そして、ここ十二神社には、天保5年(1834)、林崎の豪商・近藤利左衛門が、男狭磯の功績を称え、伝説の井戸が忘れ去られないよう、石碑を建ててます。
それがこれ。
刻んである内容は日本書紀と似たり寄ったりなので省略。
面白いのがこの碑を納めてある建物に掲げてある男狭磯の姿。
おお、セクシーな「女性」の姿!
男狭磯って男じゃなかったの?

ってとこで、久々に書いたら長くなりすぎたので上下に分けて、今回はここまで。

ところで、電池やペットボトルの水、買い占めは止めろよな。
節電もしろよ。電気料金を上げるなんて言ってるトンデモない奴もいるけどな。

2011年3月20日日曜日

急げ!急げ!!急げ!!!急げ!!!!

原発は一息ついたかもしれないけど、被災地では何にも解決してないぞ。
今日の「バンキシャ」でもやってたけど、ガソリンと医薬品が焦眉の急!

透析を受ける患者を移送できなかったり。

「日刊サイゾー」より
東日本大震災「現場はもう限界だ!」メーリングリストで叫ぶ医師たちのSOS

「病院機能低下の要因は断水と物流です。水不足は透析、手術、臨床検査などをストップ
させ、物流麻痺は医薬品、医療材料、重油などの供給をストップさせました。電話がつな
がりにくく、病院間の連絡に支障をきたしています。断水地域でロタウイルス腸炎が増え
てきました。ガソリン不足によるアクセス不良で小児の受診タイミングが遅れ始めています。
余震とテレビにおける災害画像の反復が子どもの心へ影響を与え始めています」(茨城県
霞ヶ浦の土浦共同病院・小児科医師 3月18日9:19のメールより)


中略


おりしも厚労省は、病院同士で許可なく薬や医療機器のやりとりをしても
薬事法違反にならないという特例を、地震発生からようやく一週間が経過
したこの18日に定め・・・

なーにやってんだよぉ(涙)
薬品が足りなくなるなんて、完全に「想定内」だろ?
透析薬、降圧剤、糖尿病のためのインシュリン、抗生物質、ぜんそく薬、等々
今ここで考えてもこの程度は出てくるぞ。
あと、精神安定剤、抗鬱剤、特にマイナートランキライザーなんて大量に必要だろ?

この他にも「(医師の)不用意な発言によりパニックになったナースがいる」
(施設名不明)など、医療従事者らの精神状態は限界に近づいている。


って書いてあるぞ。
みんな精神的にも体力的にも限界なんだよ。

Yahoo!ニュースより
<東日本大震災>首相、被災地視察で調整

菅直人首相が21日に被災地を視察するため調整していることが明らかになった。枝野幸男官房長官が記者会見で語った。枝野氏は「全力で支援することを伝えるため、首相が被災地の状況を見る意義は大きい」としつつ、「率直に言って政府内にも両論がある。現地の皆さんに大きな負担をかけてマイナスになってもいけない。正直言って苦慮している」とも話し、実際に視察するか慎重に判断する考えを示した。


 また、枝野氏は首相が原発視察の意向も持っているとし、「自衛隊、消防、警察、東電の皆さんが危険を顧みずに頑張っている。首相自ら現場に近いところで敬意と感謝を表するのも大きな意味がある」と語った。【小山由宇】

なんて出てるけど、行かないでほしい。
東電の二の舞になるから。

これはカッコ良すぎるぞ!
そして民間にはこんなのもあるぞ!
たのみますよ!

2011年3月17日木曜日

急げ!急げ!!急げ!!!

非被災地では、日常生活を普通に営む事が支援かなと思ってたけど
そうも言ってられない状況。

Twitterなどで状況を拾うだに、待った無しの凄惨な状況が見えてきた。


辰巳琢郎オフィシャルブログより


「地獄ですよ、辰巳さん…」
安否を心配していた、石巻の友人から衛星電話がかかって来ました。


4年間、東北地方の町おこしを応援する番組を担当していたおかげで、各地に友人がいま
す。そして彼らの多くが被災しました。心配だけど、何も出来ない自分がもどかしく、
ただ過ぎて行く日々。ブログも暫く書けませんでした。でもそれじゃいけない。彼の
言葉で目が覚めました。


「この状況を、たくさんの人に伝えて下さい。死体がゴロゴロなんですから。避難所に
いるのに、食糧がなく、子供が餓死してるんですよ。お願いします、辰巳さん!」


屋内退避の病院 深刻な事態に

屋内退避の指示が出た今月15日以降、病院には、医薬品が運ばれてこなくなり、食事の
できないお年寄りが生命を維持するのに必要な栄養剤があと3日分となったほか、てんかん
の薬や高血圧の薬も底をつきました。さらに入院患者の食事を作っていた業者が営業を止め
るため、19日からは、食事を確保できなくなることが分かりました。


Twitterより

【大至急緊急拡散】いわき市は被災地でありながらも近隣市町村からの避難者を
何千人も受け入れていますが、救援物資が全く届いていません。ミルクもなく
赤ちゃんが餓死寸前状態です。ガソリンもないので避難も出来ません。どうか
いわき市を助けて下さい!!!


拡散希望! 助けて下さい! 助けて下さい!福島県双葉群浪江町津島村の小中学校、
高校、公民館。支援物資が届いていません!外には人もあふれていて寝る場所も
ありません!助けて下さい!


【拡散希望】南相馬市立病院が取り残されています。県も自衛隊も動いてくれず、
救援物資は持ちに来いと言われ郡山市まで職員が車で行っていますが燃料が底を
ついています。助けてください。


【拡散希望】南相馬市長が諦めました。物資はもう絶対に南相馬市内へ入らない
そうです。原発の放射能騒ぎでこちらへ進入不可能だと国に定められたそうです。


入院患者を抱える病院に重油をください。暖房が出来ず、高齢の患者は薄い病衣
しかなくて震えています。1日の食糧も少ないので、体温を産生できず危険です。
どうか、明日18日にでも届けてください 


きりがないよ。涙が出てくるよ。
首相よぉ、仙谷よぉ、こんな状況知ってんの?
一分、一秒待てないぞ。

大決断しろ!高速道路を一般車両通行禁止にして、輸送車だけ通して物資を輸送しろよ!
一日で済むぞ!決断しろ!!
全国のヘリをチャーターして全力輸送しろよ!
馬鹿な報道やってるヘリも全部だぞ!!!
報道の中継車はなんで物資を運ばないんだ!何往復もしてるんだろ!

人災で多くの人々が死ぬぞ!!!

急げ!急げ!!急げ!!!

2011年3月13日日曜日

東北大地震3日目「みんな頑張れ!」

未曾有の大災害発生より3日目、被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。
政府からの情報や発表ですら大混乱の現状、被災を受けなかった当方からは・・・

いや、こんなんじゃダメだ。

「みんな頑張れ!」


日本全部の人間が応援してるぞ!世界の人々が心配してくれてるぞ!




#prayforjyapan (twitterのリアルタイム反映)



世界中から救援隊が来てくれるぞ。

 中国の温家宝首相は11日、菅直人首相に見舞いの電報を打ち、救援隊と医療隊の
 派遣などの支援を申し出た。

 韓国外交通商省も報道官が会見し、救助隊派遣などで協力する考えを表明した。

 ロシアのメドベージェフ大統領も支援策を早急にまとめるよう非常事態省に指示した。

 台湾の馬英九総統は「日本側の要請を受けたらすぐに救援隊を出動したい」と語った。

 AFP通信によると、国連人道問題調整事務所(OCHA)は、45カ国が国際救援隊
 68チームを派遣する用意ができていると明らかにした。

 2月に大規模地震が起きたニュージーランドのマカリー外相は「援助が必要だった時に
日本は私たちを支えてくれた。我々の心は日本国民とともにある」と哀悼の意を表した。

毎日jpより

さらには節電のための「ヤシマ作戦」も全くの非公式で昨日から始まってる。

「みんな頑張れ!」

被災地での生活を助けるwikiページ「OLIVE」を載せときます。

「みんな頑張れ!」

でも、ボクたちは日常の生活を営まなければならない、心から心配しているし
応援も募金もする。
そして、祈りながら日常に戻っていく。
災害のために何らかの影響があっても、同胞のこととして受け止めていく。
でも、やはりこちらの日常は続いていく。
祈りながら普通の生活を続けていく。

「みんな頑張れ!」

2011年3月11日金曜日

地震・津波の被害は大丈夫ですか?

えらいことになってます。
東北、関東からご覧の皆様方、被害はありませんでしたでしょうか?
お怪我などされておりませんでしょうか。
ご家族、親戚に影響はございませんでしょうか。
もし、被害を受けていたならば、心よりお悔やみ申し上げます。

徳島では地震はほとんど感じられませんでしたが、津波の影響が心配されました。
沿岸のバスは運行を停止していたようです。
徳島市内で一部の地域で避難勧告が出され学校等に非難された方もいるようです、

私の勤務先も津波の影響が心配される拠点が数カ所ありますので、津波到達時間
を相当経過するまで、結果観察のため待機しておりましたため、なかなか帰れま
せんでした。

また、知人が関東におりますが、身動きは取れないようですが無事との事なので
まずは安心しております。

地震、津波が一旦収まっても、まだ群発状態にあるようですので安心できません。
くれぐれもお気をつけ下さい。

政府の地震対策本部は16時には招集されていたようですので、まずまずの初動かな
とは思いますが、今後の対応をさらに迅速にお願いしたいものです。

2011年3月6日日曜日

允恭天皇神社

何の検証も考証も全くできてない状態ですが、とにかく報告いたします。

大麻津間若子宿禰(おあさづまわくごすくね)一般的には
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)と呼ばれる
明治期の阿波名勝案内にも記載のある(原典未確認)
允恭天皇を全国で唯一社のみお祀りしていたといわれる允恭天皇神社でございます。

場所は鳴門市大津町大代で「大代」は「大城」のことだそうです。

より大きな地図で 允恭天皇神社 を表示

「道は阿波より始まる」には勝福寺西側の小高い岡に鳥居のみ残されているとの
記述がありましたが、確かに鳥居はあります。
そして、石段を上ると
神殿と忠霊塔があるじゃないですか。えっ?
近づけば「天皇神社」「護穀神社」とあります。
場所はここに間違いないはず。念のため丘の周辺を相当時間をかけて歩き回って
みましたが、どう考えても「ここ」のはず。
で、失礼ながら神殿内を覗くと。
「天皇(大津賀)神社修繕」とあり、昭和五十六年十一月吉日だそうです。
うーん、変だなぁ。
で、さらに
縁起?がありましたが、御祭神は土御門院天皇とあります。
でも、地元の人には非常に失礼で申し訳ないのですが、この由緒書き、由緒になってない。
クリックし、拡大して読んでみてください。土御門院天皇の説明のみで、この神社の
由緒というべき事柄が全く書かれていない。あまつさえ、最後には阿波神社の由緒が
書かれているという。なんですかこれは?
だって、土御門院天皇ならば阿波神社横に土御門天皇火葬塚があり、祀られるならば
そちらだと思うんですが。
下は阿波神社。
土御門天皇火葬塚
位置関係は近いので、土御門天皇をお祀りしてもおかしくはないんですが
やっぱり変だと思います。
言いたくないけど言ってしまいます。
「社名、御祭神が変えられている」
「あえて」なのか由緒が分らなくなっているのか?
そこらはなんとも言えません。
が、ここは「允恭天皇神社」であると、ワタクシは確信しております。
(違ってたら誰か言ってね)

また、傍証として允恭天皇が崩御されたとき新羅より弔問の使者が来たとの記載を
どこかで見て(ちょっと怪しいけど)
先に「小宰相局の墓」で書きかけた「新羅神社」(しんらじんじゃ)と関係あり
そうなので調べようかなと思ってたんですが、まだ手を付けられてません。
写真は2枚とも「新羅神社」

なので、こんな状態で書くのも気が引けたのですけど、耳元で書け書けとささやく
お方がおりましたので今回書いてみました。
また、もう少し詳しい事が分れば、都度、書いていきますので今回はこの程度で
ご容赦を。



2011年3月2日水曜日

浦島太郎についての備忘録

今回は阿波の話でもなんでもありません。
各国の風土記を調べてて、ちょっと面白かったので備忘録のつもりで
書いておきます。

童謡 浦島太郎


むかしむかし浦島は
助けた亀に連れられて
龍宮城へ来て見れば
絵にもかけない美しさ

決定盤 懐かしの唱歌
乙姫様のごちそうに
鯛やひらめの舞踊り
ただ珍しく面白く
月日のたつのも夢のうち

遊びにあきて気がついて
おいとまごいも そこそこに
帰る途中の楽しみは
みやげにもらった玉手箱

帰って見れば こはいかに
元居た家も村も無く
みちに行きあう人々は
顔も知らない者ばかり

心細さに蓋取れば
あけて悔しき玉手箱
中からぱっと白けむり
たちまち太郎はおじいさん

童謡、浦島太郎からですが、知ってる人は知ってるでしょうが、「丹後国風土記」
逸文が原典となっていて、「釈日本紀」巻第十二に記されています。


丹後の国の風土記に曰はく、

与謝の郡、日置の里。この里に筒川の村あり。ここの人夫、日下部首等が先祖は、名を
筒川の嶼子と云いき。人となり姿容秀美しく、風流なること類なかりき。こはいはゆる
水江の浦の嶼子といふ者なり。こは旧の宰伊預部の馬養の連が記せるに相嶼くことなし。
故、略そ所田之旨を陳べむ。長谷の朝倉の宮に天の下知ろしめしし天皇御世、嶼子独り
小船に乗りて、海中に汎び出て、釣すること三日三夜を経て、一の魚だに得ず。乃ち
五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて舟の中に置きて、やがて寝ねつるに、忽ちに
婦人となりぬ。その容美麗しく、また比ふべきものなし。

と、始まっています。
ここでは、浦の嶼(島)子というものが、亀を捕まえたら、麗しい婦人となったとの
ことです。(いいなあ)
で、いつの事かと思いますれば「長谷の朝倉の宮に天の下知ろしめしし天皇御世」
とありますので、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)におわしました、第二十一代
雄略天皇の御宇でございますね。

日本書紀の雄略天皇記に

二十二年春正月己酉朔以白髪皇子為皇太子 

秋七月丹波国余社郡管川人水江浦嶋子乗舟而釣遂得大亀便化為女於是浦嶋子感以為婦相逐入海到蓬莱山歴覩仙衆語在別巻


(丹波国与謝郡の筒川の人、水江浦島子が、船に乗って釣りをしていた。そして大亀を
得た。それがたちまち女になった。浦島は感動して妻とした。二人は一緒に海中に入り、
蓬莱山に至って、仙境を見て回った。この話は別巻にある。)

とありますので、間違いないでしょう。

そして、浦の嶼子は「蓬莱山」(仙境)に連れて行かれ、そこで

門を開きて内に入りき。すなわち七たりの竪子来て、相語らひて、「是は亀比売の夫なり」といひき。

と、告げられ、女性の名が「亀比売」である事を知ります。
あとは知っての通り、「亀比売」と夫婦の契りを交わし、三年ほど仙境で過ごした後
玉匣(たまくしげ)を持たされて地上に帰ります。

帰ってみれば

ここに郷人に問ひしく、「水江の浦の嶼子が家の人は、今、いずくにあるか」と問ふに、
郷人こたへらく、「君はいずこの人なれば、旧遠の人を問ふぞ。吾が聞きつらしくは、
古老等の相伝へていへらく、先の世に水江の浦の嶼子といふものありき。独り蒼海に
遊びてまた還りこず。今にして三百余歳をへつといへり。

いつの間にか三百年も経っていたと言う訳です。
ここらまでは、知ってる人も多いでしょうけど、WEBとかで探してみても、書かれて
ないのが、この浦島伝説、鎌倉時代初期(1195年頃)の歴史物語「水鏡」にも出ています。
高校の日本史の授業で「四鏡が『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』」ってあったでしょ。
その「水鏡」に下の一文がありました。

水鏡
天長二年十一月四日丙申、帝、嵯峨の法皇の卅の御賀し給ひき。
 今年、浦嶋の子は帰れりしなり。
 持たりし玉の箱を開けたりしかば、紫の雲、西ざまへまかりて後、いとけなかりける
容姿たちまちに翁となりて、はかばかしくあゆみをだにもせぬほどになりにき。
 雄略天皇の御世に失せて、今年三百四十七年といひしに帰りたりしなり。



天長二年(825年)「今年、浦嶋の子は帰れりしなり」
いやあ、衝撃の一文ですね。
さらに「雄略天皇の御世に失せて、今年三百四十七年といひしに帰りたりしなり」
と続きます。
天長二年から347年前は確かに雄略天皇の御世で計算は合うのですが、丹後国風土記の
成立が和銅6年(713年)以降である事を考えると、丹後国風土記に浦島子が帰ってきた
ところまで記載されてるのは、おかしいような気もします。
ただ、どちらの文書を信用するかで変わってきますが、水鏡では今年三百四十七年なんて
いやに詳しい年数が書かれてて唸ってしまいます。

玉匣(たまくしげ)のこととか、「亀比売」の事であるとか、いろいろ考えてしまいます
が、詳しい考証は地元の人に任せて、ワタクシめは乙姫様の夢でも見て、休む事と
いたしましょうか。
うっ。乙姫様ってこんなの?