まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
の続きです。
気分としては、延々と泥濘(ぬかるみ)が続いております(笑)
さて、もう一度「鬼籠野(おろの)村郷土誌」に戻ってみます。
「備考 祭礼と兵乱」部より
一宮大粟神社の祭官は上古より殊に其神裔たる粟國造の下分上山村の國造本館にありて世々奉仕する特別の官にして之を宮主と唱へ相傳ふること神祖より三十四世國造家宗成に至りて時の豪族小笠原長宗に横奪せられ長宗一宮氏を冒して祭官に任せられ相傳ふること三世にして成行と云ふ成行の父成宗一宮城を築き移る是れより城主と祭官とを二分して其子に傳ふ長を成良とす代々城主を相傳して一之宮城に居り次を成直とす祭官を相續して神領村國造別館にありて祭職を務む之を一宮殿の祖とす一宮殿代々祭職を傳ふる又数世にして木屋平氏に滅せらる惜い哉一之宮殿の亡びて後祭官絶へて僅かに別當神宮寺と御供炊人なる阿部氏等の奉仕するのみとはなりて千古の盛典格式をして空しく其儀を失はしめ随て式内の大社をして空しく他の小社と相齋しからしむるに至る噫請ふ誠に口碑傳説の信すべき證在を列舉して其理を詳述せん
上一宮大粟神社の分靈を祭祀する名東郡上八万村大字一宮村一宮神社に傳はる阿波女社宮主祖系と題せる書あり上古より祭官たりし國造家三十四代世の人名を記し其末に「以祭事傳神禄附属祭官宮内大輔長宗」と書せり蓋し小笠原氏未だ一宮氏を冒さざる前に於て祭官職を得て祭官の傳來を記述せしものとす此書果して原本なるや將た一宮殿に藏する所のものを傳冩せしものなるやを知らずと雖も以て本社祭官の傳來を察知するに足る其書によれば祖神を阿波女神となしその始祖を若室神と為す若室神より天盤戸主神健豊神健忍方神多久理彦神八倉主神宇賀主神畠多神等数世の諸神相継き後を佐人と云ふ佐人より賀田彦、於志翁、屋那男、岩肩彦、豊長彦、里利夫、與理彦、田茂理、豊茂理、豊成、兼諸、経宗、忠成、忠宗、宗長、宗信、宗國、宗慶、宗堅、宗親、宗昌、宗時、宗行の二十余世を経て祖神より三十四世を國造家宗成と云ふ宗成に至り祭神を以て神録附属を祭官小笠原宮内大輔長宗に傳へしを知る即ち上古阿波女神の神裔代々國造家として祭官を奉せしこと暦然たり
以上の國造家が在往せしを國造本館と称し今尚上山村栗生野に其館跡存せり上古より世々國造家の在往せし所と云ふ而して神領村に國造家別館なるものとあり即ち阿波風土記に國造館となせるもの之れなり
マスクがかかってはおりますが、「阿波女社宮主祖系」はご覧になっていただきました。
続いて文を見ていくと「栗生野に其館跡存せり」との記載が認められます。
神山町の「栗生野」に「其館」つまりは粟國国造(くにのみやつこ)が政(まつりごと)をおこなっていた国造館の跡が存在していたとの意味です。
伝承であるとか、正式な国史に記載されていないとかは、別にして「御神号改正願」中にも
「栗生名(現在の「栗生野」)」近辺に粟國国造本館があったと記載されております。
くどいようですが、この文書は「埴生女屋神社」の社号改正願として県知事に提出された文書なのです。
現在の「栗生野」は、ちょっと地図が見難いですが、この辺り。
この様な場所であり、
「阿波女神社宮主祖系」に
若室神 葦稲葉神ナルベシ 今若宮是シ
天磐門主神
健豊神
健忍方神
多久理彦神
八倉主神
宇賀主神
畠多神 千波足尼ナルベシ
とある「多久理彦神」について「大粟比売考証」に記載があり
と、「栗宇野名」(これも現在の「栗生野」)に塚(墓)があり、「くりふのみはか」と呼ぶ事のの記載が確認できます。
もちろん、現在も「くりふのみはか」は残っております。
そして、ここを守る一族、つまり「大宜都比売命」から「多久理彦神」そして、現在までの繋がりを保つ一族が、今尚存在する事を次回以降説明いたしましょうか?
(おっと疑問系で終わるところが、あざといなぁ(笑))
続く
「にゃあ」は今回なしね(笑)