関係ねーやって人もいるでしょうけど、そこはすんませんとしか言いよう
無いですけどね)だというのに毎年の「五月鬱」ですな。
ボクの場合双極型なんで躁の時は動けるんですけどね(笑)
(マジ、今年の鬱はひどいや。生きてるだけで、めっけもんてな感じですわ、ホントに呼び出しでもない限り動けんもんね)
で、動ける時に外で食事したりするんですが、オヤジなんで最近クドいものが
減って来て、こんなとこで
(石井町浦庄の「そば好」最近ちゃんとしたソバ食べられるとこが少ないんですね)
こんなのを食べたりしてます(一応大盛り)。
ではまた(こればっか)。
でも、ホント最近「それらしき」ところにあまり行ってなくて、写真も前のモノですが。
なおかつ、皆様方(どこの)おいでになってる場所でしょうから目新しくもないという
ことで、ほとんどご紹介のみとなりますが、ご勘弁を。
鳴門市大麻町池谷の「天河別神社」でございます。
場所はここ。池ノ谷隧道東側を「すぐ」南に。より大きな地図で 天河別神社 を表示
御祭神
ん〜、徳島県神社誌では天石戸別(あまのいわとわけ)命となっております。
これはちょっと後で。
言わずと知れた「天河別神社古墳群」に鎮座する神社でございますが
創立年代不詳
これも徳島県神社誌より
「阿波志」には「松童祠 池谷村に在り」と記されており、また「寛保改神社帳」には
「池谷村松童権現 別当池谷村宝撞寺」とある。大谷村八幡宮(現宇志比古神社)の末社
であった。明治三年天河別神社と改称した。
とあります。で、御祭神ですが「天河別命」と書いてあるものもあるし。
天河別命は天富命の父とか書いてあったりもして訳分んない。
(天富命の父なら阿波忌部系図を見ると天櫛耳命ってあるしねぇ)
また宇志比古神社の末社であったとの記載を考える・・・とめんどくさいので(おいおい)
でなく、ちょっと外れて行きそうなので(ホントは全然外れてないんだけどね)
ちょっと置いといて。
ちなみに奈良時代の「朝野群載」にも「天河別神」って載ってますけどね。
で、ご本殿がちょっとショボイ。
はさておき(置いてばっかりですな)ご本殿は県指定史跡・天河別(あまのかわわけ)神社古墳群の1号墳上にありまして
1、2号墳で竪穴式石室が見つかり、築造時期は当初4世紀前半であると言われて
おりましたが、天河別神社1号墳は、県内最古の古墳であり、国内最古級であると
言われて来た西山谷2号墳より、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると
推定されています。
また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室
よりも古い時代であることがわかってきました。これは近畿地方の竪穴式石室の起源が
現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考え
られています。
ここらは「広報なると」より。
ただし、今はやはり大麻町の萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)が3世紀前半の築造と
言われておりますので国内最古の地位は明け渡しております(笑)
にしても、ここ大麻町近辺には「萩原墳墓群」「天河別神社古墳群」「宝幢寺古墳群」
などの最古級の古墳群が点在している、すっごい地域ではあります。
なぜか2号墳の写真は分んなくなったのと、3号墳はなんでか看板がなかったので
割愛します(写真じゃふつ〜の丘と見分け着かないから)
5、6号は迷いそうになったのでヤメました(笑)
さて、これで終われば一段落、って思ってたんですが
ちょっと上で書いた「朝野群載」にね困った事が書いてあるの。
板東村と大谷村との山の奥に あまがつぶといふ高き山有り、古へ天河神社てふは是なり
後池谷村に移し祭りて松童権現といふなりとみつ、いともくすき事なる、まゝ人のあやし
といふべきことながら書記しける
松童権現の前には「あまがつぶ」という高き山にあったそうです。
で、また困った事に「あまがつぶ山」があるんですわ。
より大きな地図で 天河別神社 を表示
「天円山」と書いて「あまがつぶ」と読んでしまうんです。別名天ヶ津峰(あまがつみね)。
頂上には「天ヶ津神社」があります。
まだ登ってないのに書いてしまうのは、ちょっとなんですが。
その「天ヶ津神社」には伝承がありまして、神社鳥居の前の由緒書きに
祭神は天錐命(天鈿女命)である。天照大神の岩戸隠れの折、ホトを丸出しで踊り大神を引き出した女神である。やがて瓊瓊杵尊に従って天下るとき、出迎えた猿田彦命と連れだって天下った。猿田彦命は西の大麻山に祀られ、天錐命は猿田彦命と相対してこの山に鎮座されている。以来大麻山に棲む猿が峰伝いにこの山に遊びに来た。
とあるそうです、誰か登って見て来て下さい(←お前が行けよって?そうですなぁ)
じゃあ、御祭神は「天鈿女命」?天石門別の系譜に加えられるべきでしょう。
主祭神じゃないかもしれませんね、6号墳まであるし。
大麻比古神社にしても明治以前は主祭神は猿田彦命とされておりましたが・・・
ならば・・・
ここから先はまだ書けません・・・
鬱のせいだけでもなくてね。