2011年8月15日月曜日

入田町 麻能等比古神社

え〜、本当なら8月15日の宅宮神社の「神踊り」か龍神伝説シリーズ(1)を書こう
かなと思ってたんですが、急遽変更しちゃいます。
ちょっと前に県立図書館でコピーしてきた「入田村史」これがとんでもない。
読んでて腰が抜けるかと思いました(日頃「腰抜け!」と言われてるのは別ね)。
Wikipediaで入田町を見ると、


地名の由来 
『入田村史』によれば、景行天皇の代の121年、阿波国など5ヵ国に分置された蝦夷の俘囚が、この地を「ニウタ」と呼んだことが地名の始まりである。アイヌ語で「ニウタ」は周囲を山で囲まれた田園を意味する。


などと書いてありますので、「なんじゃこりゃ」と思ってた方もいようかと存じますが
改めて原典を確認致しました。
大正二年版です。
上の「アイヌ語」云々もそそられるところでございますが、今回は「麻能等比古神社」に
ついての記載をご紹介致しませう。
場所はここ


より大きな地図で 入田町 天神社 を表示

徳島市入田町天ノ原にある「天神社」に合祀されています。

入田町の天神社については、以前拙のブログでも「入田町 天神社」として書かせていた
だいております。
に詳しく書かれております。勝手に引用させていただいて恐縮ではございますが

「大嘗祭」の「阿波に秘められた古代史の謎」から引用させていただきます。
「阿波誌」は「麻能等(まのと)」は「水門(みなと)」也とし、水門の神である速秋津比古(はやあきつひこ)命とする。
私見としては「天ノ門(あまノと)」の彦(大人)の「あ」が落ちて「まのとひこ」となったと考える。
というのは、記紀では高天原のことを「天」とも「天ノ原」とも表しており、入田町天ノ原が地形上高天原の戸口(関所)にあたることや、すぐ上流の広野に高天原と葦原中つ国との境界を意味する「天返(あまがえし)」の地名があり、その間に古代の舟だまりの地に祀られた前掲の船盡比売神社が鎮座するからである。
つまり、神社名は、高天原の入口を守る神の意(天ノ門の大人 あまのとのうし)で、これにより奥には他者の舟は通さず、その掌職は岐(ふなと)を守る神でもあったので、水門の神(速秋津比古命・前掲の船盡比売は速秋津比売神)とされたものと思われる。

その辺りも踏まえて「入田村史」の「麻能等比古神社」の項を見てみますと


麻能等比古神社
は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや、下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。
神像は大古のものにして、其材料は木か、金か石か、土かは鑑定に苦む程なれども圖の如き神像にして、底面に麻能神社小工生(?)五郎作とあり(圖は略す)

猿田彦神社の本社(元社)は三重県伊勢市の猿田彦神社や鈴鹿市の椿大神社ではなく
ここ」だと言っているのです。
とんでもないですよね。でもワタクシ的には「ここならば繋がる」んです。

天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。 wikipedia

これは、まんま「オフナトはん」じゃないですか。

また、
「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。
天狗伝説は「すぐそこ」の西龍王山(建治寺がある場所)で有名ですよね。
そして

邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
とあります奥様の「天宇受売神」は?
これも近くの「天石門別八倉比売神社」末社の「松熊神社」に祀られております。
でも、伊勢に帰ったのでは?
下の地図を参照してね、「伊勢神社」があります。

より大きな地図で 入田町 天神社 を表示


一般的には「元伊勢」と呼ばれてるようですが
下の写真と前に書いた
オフナトはん(1)〜(5)」までを見てくださいね。(リンクは(1)ね)

どう見ても「おかまご」じゃないですか。
合祀される前の位置がはっきりしませんが、「麻能等比古神社」は間違いなく
猿田彦神社の本社」です。
そして西龍王山の麓、伊勢神社のある、ここへ帰ったのです。
あくまで私見ね、と逃げを打つワタクシでした(笑)

それにしても恐るべし「入田村史」。
「天石門別八倉比売神社」についての記載を見てください。
(国府町西矢野はもと入田町でした)

余切に謂ふ、是は、皇太神駐驛の處也。神號に、天石門別と冠す、乃ち天石門別が斎所八倉姫の義なるならんか。八倉は、八重席を謂ふ。諸(これ)を彦火々出見ノ命及び橘姫の事に徴して知るべきなり。
抑々神代に謂所高天原は、皇都の在る處にやあらん。
蓋し、阿波國は、吉野川両岸の境域と、勝浦郡の一部を言ふ。吉は安及び八湍と通す。後人は皇都大和に在り、大和に吉野川有るに因り遂に艶美比べ擬して以て轉化を致すのみ。大神嘗て、矢野神山及び、忌部山の各所にあり、故に天石門別及び、神明山大神の説を傅ふるなり。後に伊豫に遷り、日籠山いまし、豊前中津に臨む、皆天津日等の號を存す、亦怪しむに足るなし。

「大和に吉野川があるので後の人が勝手に皇都だと言っている」という意味です。
大正二年に村史でここまで言い切るか!

「入田村史」驚愕の内容に付いては近日ご紹介!ComingSoon!!

8 件のコメント:

  1. きよっさん2011年8月16日 6:24

    ぐーたらさん。おはようございます。(`_´)ゞ

    すげーっす!今回の内容はすげーっす!
    敢えて宅宮神社の神踊りの内容を控えて迄の事はありますね。

    天の原近辺は建治寺しか念入りに観てない私ですが、今回の内容を読んで入田町も侮れないなと思いました!まだまだ昔の面影が残る入田町ですから得られるものもあるかと…。

    しかし、私も県立図書館で地方文献を読んでましたが、こんな凄い内容を見落としていたとは。さすがぐーたらさんは目の付けどころ違います。
    ともかく次回に期待!?

    PS:関係ないですが私はこのお休みは山城町の賢見神社に参拝してきてました。ぐーたらさんもリフレッシュできましたか?

    返信削除
  2. 目が覚めました(@_@;)!!
    「青春18きっぷの旅」の強行軍から昨夜帰り、徳島のあまりの暑さに疲れも取れず、朝のブログ更新&チャックょしていたのですが・・・(*^。^*)♪
    恐るべし「入田村史」\(^o^)/

    返信削除
  3. 「不幸にして盗難に遭ひ」
    神職の家が。このタイミングで・・。
    臭うぞ、モルダー捜査官!もとい、ぐーたら警部。
    いま、X-FILE課は人手不足で応援が出せない。
    引き続き、操作を続行せよ。

    でも、この村史書いたおっさん凄いですね。

    返信削除
  4. to きよっさん
    神山の阿野から国府の西矢野まで入田町(村)だったそうです。
    「いっぱい」残ってると思いますよ(笑)
    で、ここに出てきた「入田村史」は書架じゃなく「書庫」にある分です。
    図書館のおねえさん(?)に言って出してもらってください。
    太龍寺縁起もその他ヤバそうな諸々も書庫の中です(笑)
    お盆休みですか?うちはお盆休みってのはないんです。
    それにしても山城町の賢見神社ですか
    。旧き旧き仁賢天皇御宇の素晴らしい神社ですね、ぜひお詣りしたいです。
    でも、あそこは犬神落としなんかやってて、ちょっと怖いなあ(笑)

    返信削除
  5. to すえドン さん
    すいません、勝手に引用させていただき失礼致しました。
    でも、すえドンさんのブログが無ければ阿波の神社の写真なんてほとんど見られないですから。(特に秘境系(笑))
    「青春18きっぷの旅」は毎回楽しみにさせていただいてます。
    最近はなかなかJRなどで出かける機会も減りました。
    「入田村史」についてはもうちょっと書かせていただきます。

    返信削除
  6. to のらねこ さん
    下浦で「山口某」といえば(西)王子神社か八坂神社の古い宮司さんが山口。
    多分、下浦付近で巨刹といわれた「八坂神社」でしょう。
    まあ、自分が内務省の役人だったらMIBを即座に派遣して証拠の隠滅を図るでしょうがね(笑)
    でも、すいません。「X-FILE」見てないんです(うわぁ)。
    >其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。
    これが、「来てます!」ねえ。

    返信削除
  7. 八倉比賣神陵の位置も含め、伊勢神宮周辺地形と鮎喰川気延~眉山周辺が実にそっくりなんですよね。
    つまり鮎喰川が五十鈴川で、上れば神山そして上勝へと行きますんでやっぱあれなんだろうなと。
    まぁ例の如く勝手な想像なんですが(笑)
    実に興味深いですし、勉強になります。

    返信削除
    返信
    1. あれかな、とは思ってたんですが
      やっぱり、あれですか(笑)
      それにしても、ここらはなかなか濃いですよ(笑)

      削除