2011年9月3日土曜日

阿波の古代の基礎知識(2)不定期

台風の最中でございます。外出もできないんで籠っております。
阿波の古代の基礎知識として2回目を上梓させていただきたいんですが
どうも、準備している途中でのらねこ大先生の大傑作
天日鷲命 は、中臣の神 1
天日鷲命 は、中臣の神 2
と内容が大分被っていることがわかりまして、「書いても仕方ないな」なんて
思いながらですので(笑)。
例によって昭和17年頃の資料よりです。青字はワタクシめのコメント等ですので
例によってスルーしていただいて結構です、へへへ。
今回は忌部についてなんですが、これもエキスパートの方々がいっぱいいらっしゃるので書きにくい、書きにくい(涙)
一応準備してたんで書くだけ書きますけど(←イヤなんかい(笑))
ま、しょーもないブログなんでお暇つぶし程度にご笑納ください。


忌部とは精進潔斎して神に仕える部曲をいう意味で、讃岐忌部は工匠のことをつかさどり、紀伊の忌部は御殿を造り、出雲忌部は玉作で、筑紫、伊勢の忌部は鍛工である。
阿波の忌部は麻を作るので、神に供する幣帛をつくるのである。


注)幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称である。広義には神饌をも含む。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも言う。
「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であった布帛が神への捧げ物の中心となっていたことを示すものである。


上古の麻には、あさ、ぬさ、まをそ、苧、ふさ、の如き種々な名称が附せられていた。
忌部は斎部とも書く。元来忌部と書きしを、延暦年間忌部宿禰濱成という人が始めて忌部を改めて斎部となすとも、清和天皇の時、神祇權大祐忌部宿禰高善が斎部と改めるとも言っている。されば元は忌部で斎部と書くのは新しいのである。


忌部は中臣とともに高天原以来神事を掌って来た家柄で、中臣は祝詞を奏し、忌部は神に供える祭物を作るので両家は唯その職掌の異なるのみで、元は対等の地位であった。
後、中臣家は次第に発展して朝臣の栄位に上りしも、斎部(忌部)家は宿禰の姓に達しなかったのである。

ホントはここらがキモになるべきところなんでしょうが、まあワタクシめなどが書いてもしゃーないんですがね。

神武天皇の朝に、勅命を奉じて、天富命が阿波に来られ、肥饒の地を求めて穀麻の種を植えられた。想うに其の到着せられたところは今の板野郡の板東町の辺りであろう。此の辺は吉野川の流れによりて、早くより洲處(すか)ができ、比較的に広い地であった。
現在大麻比古神社の鎮座地の字も広塚(広洲處:ひろすか)である。
ここで穀麻を植え、大麻山の渓間より流れ出る清き水をもって、これを晒したので、高き大麻山頂に祖先の霊を祭祀しここを根拠として付近に発展したのである。

大麻比古神社

されど、予想に反して土地も狭く、全ての事業も思うようにはかばかしく行かないので、天富命は一大英断に出て、決然起って一部の忌部族を率い、遠き東の方、房総半島へと海路により進出したのである。当時の航路に使用せし船は刳舟(くりぶね)として、
(注)刳舟(くりぶね)一般的に一本の丸太を刳りぬいて造られる、いわゆる丸木舟のこと。
樟や杉を主材として造り上げた鰹節型のもので、両端の尖った比重の軽い、ひっくり返っても沈没の憂いの無い今でも(昭和17年頃)東海沿岸の漁師たちが勇敢に黒潮の中に突進して山なす怒濤と戦っている木葉のような釣舟であったのであろう。

天富命はこの刳舟(くりぶね)により黒潮の流れを利用して東へと航行したのである。
当時既に大いに船舶を交通上に利用せられていたことは経津主(ふつぬし)武甕槌(たけみかづち)の二神が、海路より出雲へ赴かれた事実によっても推想せられる。

経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取ったとなっておりますね。ここらは古事記研究会さんの独壇場でしょう(笑)

天富命は斯くて房州の富崎村の布良に着き、ここに上陸したのである。
今、布良の布良崎神社(めらさきじんじゃ)には天富命を祀り、神戸村の大神宮には忌部の祖神太玉命を祀ってある。即ち官幣大社安房神社である。ここを根拠として、房総常野の諸州へと広漠たる地域へ次第に発展したのである。
 
布良崎神社

安房神社
御由緒

主神は天富命にして後に須佐之男尊、金山彦尊を合祀す 
祭神天富命、神武天皇の勅命を奉じて沃土を
東方に求むべく 四国の忌部を率いてこの房総の地に至り、
即ちこの布良の一角を駒ヶ崎と称す。
 駒ヶ崎の東方海岸に聳ゆる二峰あり、海岸に近きを男神山 
他を女神山と称す。 
男神山に祖神天太玉命を、
御后天比理乃咩命を女神山に祀る 
 命は此の本郷の地を出発地点として現在の安房神社に
祖神天太玉命を祀り漸次開拓の歩を進められ北上し
特に麻穀の播殖を奬励、亦建築並に漁業の技術をも
指導され衣食住の神として崇敬厚い社なり
(布良崎神社由緒より)


安房神社と布良崎神社 『古語拾遺より』

 天富命は先祖の天太玉命を祀る神社「安房国一の宮 安房神 社」を鎮座しました。
 創建は紀元前660年と伝えられています。 元々は上ノ谷・下ノ谷(館山市布良)に祀られておりましたが 、同717年に現在の安房神社の地(館山市大神宮 吾谷山) に遷座しました。
 同命を偲び、旧安房神社の跡地に布良崎(女良崎)神社を建 てて天富命が祀られました。 ※明治30年頃まで木の標柱があったと言われています。
また、天富命は安房神社の下社にも祀られました。
災異を避けて、明治22年に現在の地に創建しました。
また、安房神社境内には「忌部塚」と呼ばれ、弥生時代以前に さかのぼる遺跡洞窟もあり、安房忌部氏の先遣隊の塚ではない かと言われています。
安房忌部氏系図(下立松原神社系図)には、天富命の娘の飯長 媛命(イイナガヒメノミコト)と天日鷲命(アメノヒワシノミ コト)の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚 し、天富命と義父の関係になり、堅田主命(カタタヌシノミコ ト)を生み、同神社は天太玉命を安房忌部氏の祖としている。
天太玉命のお妃(天比理刀咩命)が洲宮神社(元名神社)で、 同じお妃を祀る洲崎神社は安房一宮となっているが、安房一宮 は安房神社である。 洲崎神社は江戸幕府の老中松平定信が洲崎の巡視したときに、 源頼朝と洲崎神社の関係に感銘を受けて「安房一宮 洲崎大明 神」と書いた額を送られていることから一宮としている。


「安房上総畠おほく田は少なし」と義経記にも見ゆる如く、阿波の吉野川沿岸の平野は関東平野の一部であるこの房総平野の広きに及ばないのである。安房に太玉命を祀れると見ると、忌部族の本部が安房に移ったのであろう。されば、最初阿波に渡った忌部族は板野郡と安房国と麻植郡と三つに分かれたが、本部隊は安房であろう。

さてさてこの「最初、忌部族が阿波に渡った」の辺りで引っかかる方もいらっしゃるかとは思いますが、今回はスルーしていただければと思います。
ただ、個人的には名方郡(麻植郡〜名西郡)と板野郡で地名や神社、御祭神のコピーが見受けられるように思われます。これが単純な分祀か、一族挙げての移動であるか、またどこかの時点で忌部と中臣の融合が起こったとの仮定も持っておりますが、当記事に於いては本旨でございませんので同様にスルー致します。
今後書くかもしれませんし、書かないかも(なんじゃそりゃ)。


安房神社には天富命所用の木碗、膳、燧道具等を蔵せられ、其の境域は三面山を負い、西に海を控え長汀曲浦風景の美に富んでいる。

中略

板野郡の板東町に鎮座せる大麻比古神社は祭神大麻比古命と称せられているが、或は津咋見神とも称せられている。或は大麻比古津咋見神で「大」は称へ辞、「彦」は男性の通称、津咋見は麻作霊異持で麻を作らせたまうに霊異おわします故であるとも言われている。
按ずるに大麻神の「大」は麻族の大本と言う義で、伴部に於ける大伴の如きと同じである。
大粟神社の大粟も粟族の大本の意味で即ち粟族の根拠地は名西郡の神領であったように、忌部族の阿波に来た最初の上陸地点即ち根拠地は板野郡の板東である。
此の根拠地に祖神を祀ったので、すなわち根本の麻の神という意味であろう。
大麻比古神社の神紋が六葉の所謂麻の葉紋であるのも此の故である。

どっちにしても、大麻(たいま)=お伊勢さまのお神札(ふだ)、
もしくは大麻(おおぬさ)(大幣(おおぬさ)、祓串(はらえぐし)のこと)の名を持つ神社がそうそうは無いでしょう。

今の大麻比古神社には猿田彦命をも祀ってあるが、猿田彦神は方除の神、旅行の神、家屋移転改築の神であるから、忌部族の最初の上陸地点と天孫降臨の先達者であった猿田彦命を結びつけて祀ったのであろう。近傍に天鈿女命を祀れる社あるのも猿田彦神との関係から祀られたのであろう。

「大麻町 舞姫神社」のことだよ〜

元来祭神は古くより混雑し、延喜式の頃には既に明らかでない。徳川義道の著にかかる「神祇實典」には「大麻比古者天太玉命也」と書いてある。いずれにせよ忌部族の祖神の霊を祀ってある社に相違ない。

以下略

とまあ、こんなところなんですが、一度はここらを書いていかないと次の記事に進めなさそうだったので書いてみたんですが、忌部については、こんなおちゃらけブログより「阿波歴史民族研究会」林先生の著作がよろしいかと思いますので、そちらをどうぞ。
(なんかボク今日はひねくれてない?台風のせいかな)



6 件のコメント:

  1. 伊古彦ちゃん2011年9月4日 0:48

    ぐーたら先生。いや~。おもしろかったです。
    って云うか、なるほど・・って思いましたよ。
    妙に納得できますね。

    私は、ぐーたら先生やのらねこ先生のように、
    聖地の由来を、精緻に調べることができない
    ので、とくに板東にある、私んちの墓地の
    整理も兼ねて、生き証人のご存命の間に、
    いろいろ聞き込み調査などもしつつ、さらに
    一歩踏み込んでみたいのですが・・・。

    こんなにおもしろいものを書いて下さるなら、
    また台風に来てもらいたいですね。(笑)

    最高傑作でした。

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  2. to 伊古彦ちゃん
    いやー、台風凄かったですねぇ。
    佐那河内でも行方不明者がでたり、灯台が折れたり、この近辺でも刈入れ前の稲がえらい事になってたり、ホントにとんでもなかったです。

    で、大麻比古神社のある板東付近は、イコピコさんが前からおっしゃってるように「日本の」古代史の「最」要諦でありましょう。
    神山の神領、剣山と並んで聖地中の聖地と思われます。
    お参りがてら、帰省もいいんじゃないですか。

    でも、台風はもういいですわ、書く時間はできますけど(笑)

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  3. 何も書いてない日にアクセスが多いと思ったら宣伝ありがとうございます。
    メインすぎてスルーしている大麻比古神社ですが、「大麻比古者天太玉命也」は、かなり怪しいと思う今日この頃です。

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  4. to のらねこ さん
    これ以上、大先生のアクセスを増やしても、なーんてね。
    実際、大麻比古神社については???ばっかりですね。
    按ずるに(笑)大麻比古神社は「来て、帰って」の場所じゃないかな、と思うんです。天孫降臨か外つ国からの渡来かわかりませんが、まずは板東付近に来て、神山経由で剣山へ、その後東征ルートで同じ道を帰って・・・との妄想が。
    では、次回は房総(暴走)いたしましょうか(笑)

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  5. ただただ静かに、深いところを勉強させて頂いております。
    やはり、前回の阿波旅行では無理してでも大麻比古詣ででしたね。
    嫁さんを恨むしかありません(オー怖!!)

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  6. to 猫の兄弟 さん
    大麻比古神社、もっと深くなります。
    なりすぎてワタクシめも付いて行けません。
    すっごいのが出そうなんですが
    書ききるだけのパワーが・・・

    奥様は恨まずに大切に致しましょう。
    (怖いのは一緒です(笑))

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