2010年2月13日土曜日

豊玉姫の機織り

むかしばなしを聞いてください。
----------------------------------------------------------------

豊玉姫は海神なりという。
高千穂より海路浪速へ行く途中なるとの沖で暴風雨に遭い橅養の地に流れついた。
道を北山山嶺に沿い西へ西へ。
「わらわ」が住み心地よき土地を求めんとしてこの地かの地をさまようこと幾歳月。
ようやくにして見付けし所現在の石井町高原の地なり。
ここに庵を建て、わが住居とす。夫君「火子穂々出見命」も来たりてしばし安住の地とせん。
庵の西側に機織屋を建て養蚕を行い糸を引き教え機織を織りて日々を送る。
附近の人々に養蚕を教え機織を織らしむ、そうして暮らしの助けとせん。
人は豊玉姫様と尊敬し奉り、珍しき物あらば献上す。
いつしか歳も過ぎ、大和の地へ出発の日が来りたり。
人々は別れを惜しみ海辺まで見送りたり。
夫君「火子穂々出見命」とともに船に乗り、浪速津より大和へ。
しかし賊多く大和への道険悪となりて引き返し淡路一宮へ戻りたり。
祖先が伊ざなぎ、伊ざなみ命の過ごしたる土地と、多くの人々大いに歓迎せられたり。
その後、豊玉姫一人再び阿波へ来たり、先の地へ永住を決意したり。
以来「火子穂々出見命」たびたび来駕し、夫婦ともに幾歳月を過ごし、養蚕を始め、粟・ひえ等の農業を興し、国利民福を図った。
病を得て八十二歳を一期としてこの地で亡くなられたという。
後に遺骸を他の地に移し奉ったので、今は社があるだけである。
はた織りの神様として知られている。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
----------------------------------------------------------------
驚きました。このブログを読んでくれるような人には、阿波に来るまでの経緯には異論があるとは思いますが、石井町高原に住み、82歳で亡くなられたとまで書かれています。
「『火子穂々出見命』たびたび来駕し、夫婦ともに幾歳月を過ごし」
おいおい豊玉姫の夫君「火子穂々出見命」ってこの本では一部字が違うけど火遠理命(ホオリノミコト)じゃないですか。つまり山幸彦。

ホオリ(火遠理命(ホオリノミコト))は、日本神話に登場する神。別名 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみ)、日子穂穂手見命(ひこほほでみ)、虚空津日高(そらつひこ)。山幸彦と海幸彦の説話に登場し、一般には山幸彦(山佐知毘古、やまさちひこ)の名で知られる。 神武天皇の祖父。 Wikipediaより

こ、これって。

さて、もう一つむかしばなしを。
----------------------------------------------------------------
二ツ森神社
高川原村は東西に長く、西は高原、浦庄に接している。
西の端が南島で、村外れ近くに神社がある。
この社は東向きでたいていの神社なれば南向きである。
一社であるが人呼んで「二ツ森」さんという。
北と南に森があって、社も二つあったがいつのころからか一社になった。
古老いわく、藩政時代からであるという。
一説には豊玉姫阿波入国のみぎり、この地に滞在したということを聞いた。
烏の森が近いので、なんだかうなづける点もある。
二ツ森さんの北側に川が流れ、いったん雨が降ると川は氾濫し住民が困る。
二ツ森さんの住民集まりて土袋を作り、関をしたりして防水につとめた。
川の北側に低いながら土手が築かれたが、南側には土手がなかった。
郷の守り神として古くからあった。
その中で以上のことを伝えるため一項を書いた。
森の中に楠の木があり、その木に大蛇が住み男に化けて村の女の所に来るので、村民が相談して殺そうとして、山分より薪材を買ってきて山積みにして楠を焼き大蛇を殺した。
大蛇の首は東禅寺に葬ったが、火災に遭い焼けてしまった。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
----------------------------------------------------------------
ここにも「豊玉姫阿波入国のみぎり、この地に滞在したということを聞いた。」と
ありますよね。うーん。「二ツ森」さん、もしくは「烏の森」のところですか。
では、「烏の森」って?と、思ってましたら.....。

三つ目のむかしばなしを。
----------------------------------------------------------------
烏の森の起こり  元木 國太郎
豊玉姫のはたおりは、この烏の森で行われていたという人と、その西に寺の跡(宝光寺)であったという人の二説あって筆者もいずれが真実であるのか判断に苦しんだが、いろいろ調べてみると宝光寺跡も烏の森も地域が一つで境内の中であったことがわかった。
神仏混合の時代、宝光寺が豊玉姫神社の別当であり、その同一境内であったので今さら区別する必要がなかったのである。
杉、桧、椋、榎、銀杏、樟生え繁り昼なお暗い神域でここに烏が集まり、巣を作り、ねぐらとして生活し、四六時中烏のなき声の聞けないときはなかったので、人呼んで「烏の森」というようになり、遠隔の地の人々も知らぬ人はいない。
これもはた織りや農作物の守り神として尊敬され、参詣に来られる人が多かったので自然に名前が伝わったのであろう。
明治四十三年頃、高原東小学校があった。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
----------------------------------------------------------------
もうここまでくると、豊玉姫が石井町高川原に住んでいたことは既成の事実となっています。
住居が「烏の森」か「宝光寺」の考察に至ってます。
愕然といたしました。
「今さら区別する必要がなかったのである。」などと、すらっと流してますが「えらいこっちゃ」じゃないでしょうか。
豊玉姫が石井町高川原で機を織って暮らし、八十二歳で亡くなったなどと書かれている史書を何かご存知の方があればぜひぜひ教えてください。
自分としてはとにかく驚いてます。
でっちあげとかにしては話が具体的すぎますよね。
むかしばなしって言うには余りにもってという内容じゃないですか?
それともみんな既に知っていたとか。

それでは、とにもかくにも「二ツ森神社」へは行って参りましたので写真など。



境内外に地神塔がありました。

で、地神塔のとなりに「日枝神社」です




二ツ森神社 旧村社
名西郡石井町高川原
主祭神 大己貴命
由緒  創立年代不詳。もと大万村に在ったのが洪水のため社殿流出現社地に遷る。
飛地境内社として日枝神社がある。  徳島県神社誌

下2枚の写真が飛地境内社の日枝神社です。飛地と言っても数十mですが。
また、「高川原村史」には境内石碑に関する記載が在りましたが、内容はほぼ上記2話
目の「二ツ森神社」に書かれてある内容と同じ物でしたので割愛します。

「烏の森」、「宝光寺」についてはまた改めて書きたいですね。


前の記事(2月11日)では、ちょっと分けの分らないことを書いてしまったので、そのことはとにかく忘れてしまいましょう。










0 件のコメント:

コメントを投稿