2019年9月16日月曜日

岐神再び(1)

以前に以下のシリーズを掲載したのが2011年7月、早いものでもう8年前になっちゃっております(涙)。

オフナトはん(1)
オフナトはん(2)
オフナトはん(3)
オフナトはん(4)
オフナトはん(5)END

今読み返してみると、いや〜お恥ずかしい内容でございます。
で、捲土重来を期して、もうちょっと内容を進めて見たいと思って見たわけなんですが、いつものようにどうなることやら...
まあ、数回お付き合いいただければ望外の喜びでございます。

が、今回はどういう展開になるか予想もつきません(いつものことだって言うなァ)。
あるいは顰蹙を買うような記事になってしまうかもしれません。
「こいつ、変になったのか?」なんて言われるかもしれません。
そのリスクを承知の上で書いていきます。
ただね、ボクは時々本当のことを小さな声で言うんですが「ああ、これは届いてないんだな」ってよく思うんです。



まずは、簡単におさらいだけしときましょう。
さらっと流していきたいんですが、これが結構な分量あるんです。


岐の神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

別名:久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀

概要
「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。

道祖神の原型の1つとされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。


「岐神(ふなと)神」、出典として現れるのがまず古事記です。
伊邪那伎大神が黄泉の国に伊邪那美命を尋ねていき、あまりの変わり様に逃げ帰りま
すが、逃げ延びた後、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓(みそぎ)したときに
投げ捨てた杖がから生まれたのが衝立船戸の神でございます。

原文では

是以伊邪那伎大神詔 吾者到於伊那志許米上志許米岐(いなしこめしこめき)
【此九字以音】穢國而在祁理【此二字以音】故吾者爲御身之禊而 
到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】
原而 禊祓也 故於投棄御杖所成神名 衝立船戸

是を以ちて伊邪那伎の大神、「吾は伊那志許米志許米岐【此九字以音】
穢(きたな)き國に到りて在り祁理(けり)【此二字以音】 
故、吾は御身(みみ)の禊(みそぎ)爲(せ)ん」と詔りて、竺紫の日向の橘の
小門(おど)の阿波岐(あはき)【此三字以音】原に到り坐して、禊祓(みそぎ)しき。
故、投げ棄(う)つる御杖に成れる神の名は衝立船戸(つきたつふなと)の神。

の部分になります。

日本書紀においては泉津平坂(よもつひらさか)で投げた杖が岐神となります。

愛也吾妹、言如此者。吾則当産日将千五百頭。因曰。自此莫過。即投其杖。
是謂岐神也。又投其帯。是謂長道磐神。又投其衣。是謂煩神。又投其褌。
是謂開齧神。又投其履。是謂道敷神。

のところです。

つまり

『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。

県内では「オフナトはん」「オフナタハン」「オフナッツァン」などと呼ばれ祀られ
ており、祭祀の形態としては「おかまご」とよばれる石の祠に丸石が祀られております。
一般的にはこのような形態が多いわけですが。


徳島県内には下図のような分布を示しており、祠の数で言えば一千社を超え、あるいは二千社に及ぶという膨大な数の祠が確認されております。

そして、特徴的であるのが神山町であり、なんと767祠が確認されております。

さて、ここから九州工業大学 近藤直也教授の論文「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」を参考とさせていただきます。
阿波国において神社に階位が与えられた記録として、日本三代実録 貞観一四年(八七二)十一月廿九日の行に

九日乙未。天南有レ声。如レ雷。授二丹波国従 四位下出雲神従四位上。従五位下阿当護神従 五位上。正六位上奄我神従五位下。
阿波国正 六位上伊比良咩神。船盡比咩神。並従五位下

をみることができます。
天の南方から雷のような聲(こえ)が響き、これを鎮めるため、丹波国の出雲神、阿當護神、奄我神に階位を、阿波国の 伊比良咩神に正六位上、船盡比咩神に従五位下の階位を与えたという記録になります。
いや「南天(より)雷の如し聲有り」って、むちゃくちゃ怖いじゃないですか。
そりゃ、震え上っちゃいますよね。

現在、徳島に「船盡」と名のつく神社は三社存在いたします。
神山町阿野、歯の辻の船盡神社
逆光で見にくくてすいません。BrightnessとContrastだけいじって見たんですが...
一応「船盡神社」となっているのがわかるでしょうか。

入田町大久の船盡比咩神社



場所は
歯の辻の「船盡神社」はGoogleMap上では「歯の辻神社」と記載されておりますが、上の写真のように実際は「船盡神社」で間違いありません。

そして一宮町の船盡比咩神社

ここは「徳島県神社誌」に記載はありません。

では、「日本三代実録」記載の「船盡比咩神社」はどの社なのでしょうか?
「徳島県神社誌」の歯の辻の「船尽神社(船盡神社)」の説明では、三代実録云々とあります。

「阿波志」においては
「一宮祠東百八十歩有」となっておりますので「一宮町」の「船盡比咩神社」を指していることは間違い無いですよね。
「阿波志」にも三代実録云々と書かれており、いやどっちなんだよぉぉぉぉってところですか。
入田町大久の船盡比咩神社は上の建立の経緯を刻んだ碑に、歯の辻の船盡神社の遥拝所として残したと有りますので除外します。
で、もう一つ「一宮野伝説と地名」によれば行者野の歯辻明神の由来が「大阿波女命」と「高越の神」との石の投げ合いからとのことなので(これはこれで、なんとも言えない伝承ですが(笑))
歯の辻に鎮座する「 船盡神社」と入田町大久の」船盡比咩神社」は、もしかしたら違うのでは無いか?と思うのです。
そりゃ、もしかしたら間に入っていたのが岐神「こと」船盡比咩だったかもしれないですけど、まあ上記の理由から、一応(笑)一宮の「船盡比咩神社」が本貫地であったと云うことで話を進めていきたいと思います。
(多分、ここらはあんまし問題にならないと思う....か...な...)

要は、京都に怪異が発生した時に、それを鎮める神威を持った神を宮中の神官は承知していて、それが 丹波国の出雲神、阿當護神、奄我神、阿波国の 伊比良咩神と船盡比咩神だったということなんです。
例えば、岡山県の延喜式内社「中和神社(江戸時代は「久那止神社」)」や旧社地の「久那止荒魂神社」に、この時は階位を与えなかったのはなぜか?ということですね。
更に言えば「伊比良咩神社」も延喜式内社じゃないんですよね。

ここらは、さっと行きたかったんですが、ちょっと長くなってきたんで一旦切ります。

さーっとね♡

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