2017年10月13日金曜日

麻植の系譜:願勝寺編(2)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
の続きです。


ここら書いてると仏教についていかに疎いかが実感されて辛いのなんのって、書くの止めよかなって思ったりね(笑)

えーと、
ご覧の通り元文書はカナ混じり文で書かれていて、ひじょーに読みづらいので勝手にひらがな変換して、ついでに改行までしちゃいました。
例によって、「些細な」入力間違いや改行が変だとかいう指摘は、心のうちにそっとしまっておいてください。(笑)

二代福淵僧都


俗姓は麻殖忌部布刀淵の三男にして幼名淵麿と云福明師の弟子となって師名の一字福の字を嗣て名を福淵と改め諸国修行して其名世にしられ後帰国して師跡を嗣き且つ福明寺の上に方壺山と云山号を冠らしむ

此時天笠(まま:天竺か?)国より法道仙人と云者釈尊の御母摩耶夫人菩提の為鋳玉ふ所の観音大士なりと閻浮檀金の一像を将来して仏母山卯利天上寺を建立す爾時比観音より光明を放ち南海一面の地を照す

法道仙人是有縁の地なりと先淡路国津名郡に摩耶山仏母寺を立て次に阿波国に渡り来て伊宇山を見て足仏母前出世の地なりと一宇を立て、伊布摩耶山仏母寺と号す依之下方淡路阿波の三寺を三摩耶山摩耶参りと云諸国参詣の人群をなす盛んなりしこと其也



福淵僧都聞之比法道仙人とは何者なるか夫れ本朝の仏法は推古天皇の三十三年乙西正月高麗国の恵灌法師大唐の三蔵法師より三輪宗を受て我朝へ来り元興寺に住して始て仏法一宗の明説を啓けり

飲明帝の御宇百済国より始めて仏法渡来すと雖只仏像のみにして未た宗旨を聞かす故此宗は日本最初の宗也此乙酉は大唐の神堯皇帝の武徳八年に当れり中論百論十二門論を主とす

此三論は諸法蕩滌の深理なれは竜樹玄旨を吐き羅什所述の真伝を唐朝より三韓に伝へて西蕃の諸国弘く尊信する所なれは我朝独り受さるの理あらんやと

推古天皇以来皇家の皈(帰の異体字)依し玉ふ所なれは道昭法師入唐して慈恩と共に玄奘三蔵を師とし此法相宗を受け皈(帰)朝の後元興寺の東南の隅に別に一室を営み頻りに此宗を説き法相大乗応理円実宗と唱ふと雖来た一宗の規則立す

其後追々智通智達の両法師入唐して慈恩大師の直教を受嗣てより弥其宗法盛んになるもよって三論宗よりも比宗旨を兼学するの例とはなれり


今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

此変によって其跡大混雑の事あって上京議論の沙汰は其尽となる鳴呼可惜遂に其事を果さす残念なりき事共なり


これを麻植氏系譜と見比べてみますれば

三十二
玉淵
布刀姫
布刀淵
      天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ忌部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
      伊勢王大綿下羽田八田来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
      阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
      朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
      摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
      天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
      先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
      母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
      天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス

布刀淵の名はちゃんと記載されております。
また法道仙人(上人)の記載についてもほぼ同じくして見ることができます。
で、「法道仙人」って誰だ?って話になると思いますので、簡単にご説明をいたしますれば、

ほうどうせんにん【法道仙人】
播磨国の法華山一乗寺(加西市)を中心として十一面観音信仰を伝えたという仙人。天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。〈飛鉢の法〉をよくし,空鉢仙人ともいわれる。御嶽山清水寺(加東郡社町)の平安末期の文書が文献史料として最古のものである。鎌倉末期から南北朝期になると播磨の有名山岳寺院20ヵ寺を開いたという伝承が成立し,江戸時代には,播磨はもちろん,但馬,丹波,摂津にいたる諸寺の縁起類に名前がみられる。
法道仙人
とのことでございますね。(引用だけかよって?(笑))
で、まあ。
ご覧の通り何があったかのかはよく分かりませんが(想像はつくけどね)

今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

などと怒りまくった上に、火事が原因でで亡くなってしまうという、ね。
法論の諍いは外部からはわからんですが、読めばみっともないような気がするのは、あくまで個人的な意見でございます。(笑)
ともあれ、法道仙人がでてきたところで、時代背景が感じられてきたのではないでしょうか。

もう一つ説明を付け加えれば

山号の「方壺山」、今は「寳(宝の旧字体)壺山」となっておりまして

方壺山 ほうこさん
中国,渤海にあったという伝説上の神山――蓬萊(ほうらい),瀛洲(えいしゆう),方丈(方壺)を指し,仙人たちが住み,不老不死の薬があるという。いずれも壺の形をしているので〈三壺山〉ともいわれる。先秦時代,渤海沿岸の燕や斉の方士(神仙の術を行う人)たちが唱え,秦の始皇帝や漢の武帝らの心をつかんだ。
ということで、なぜこの伝説の神山と言われる「方壺山」を山号にしたかというのはM木氏に聞いていただければ分かるのではないでしょうか。(M木氏って誰だ?)

で、今日十月十三日はこれからお祭り、あと2時間ほどで神輿を担ぎに行くというお勤めが迫っておりますので、この辺りにさせていただきます。

次回から徐々に隠された史実に迫っていくかもしれないし、迫らないかもしれないという壮大な計画であります。(こらこら)
続く
何を見てるんだヨォォ

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