2017年10月22日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(5)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)

そろそろ盛り上げないと、苦情がきそうなんで頑張ってみます(笑)
なのですが、
★ご注意★
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ごめんなさい、固苦しい注意書きを書いてしまいましたが、関連の方々に心ない照会が入ったり、変な記事や動画が流布されるのはワタクシめのもっとも嫌うところなんで、ご理解願います。

ではでは。


十一代隨伝






板野郡田上の人なり即ち其姓も忌部氏なるによつて德光上人後住下定む此隨伝代中板
野郡大麻の宮に神宮寺を立つ
霊山寺と改む此随伝長寿して百歳に余れるの故に世の人長寿上人と云

当今後冷泉院の勅命として永承四年仏舎利二粒を忌部八倉の両者へ奉るの大祭主麻植
正光随伝をして舎利堂を建しめ其身も感得の事有るによつて、神務を其子正光に譲り
仏門に入刺髪して実名を其儘正光法師と改忌部十八坊の貫主となり法福寺に住す。
上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり

麻植忠光も亦壮年にして父の志を嗣神務を其子為光に譲り入道しら蓮光法師と号し上
京して仏道を修行し諸国に巡り後は紀州高野山に草庵を結ひ住せしか
久寿二年乙卯二月十五日寂するの故に世の人涅槃坊と云父正光法師是を聞此菩提とし
て忌部郷麻植の地に蓮光寺を建立して其名を伝ふ
此正光蓮光共に皆随伝の門弟なり

七十七代後白川院の朝保元の乱に新院の軍破れて讃州に遷され玉ひ藤原頼長家司藤内
左衛門範景入道して蓮心法師と号讃州に来り
白峯の御墓を拝し草庵を結御菩提を弔ふ処阿野大領高遠より障るの義あつて阿波へ移
り当寺に寄宿し三ケ峯の神社に新院の御霊を神と仰き祭るの所
是亦讃州に近きの故に禍の来たれる事を恐れ麻植の宮内に至り麻植為光を頼して此社
地に新院の御霊を白人宮と称し祭るの所鎮西八郎為朝も伊豆の大嶋より遁れ来り此白
人宮を拝し永代の祭りを為光に頼み置予州へ立越え三つが浜より九州に渡り後は琉球
国に至ると云

新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云
天皇讃州白峯にて崩御の後よつて天皇の志を汲んて大に慣り法体して天円法師の弟子
となり内心には天皇の恨有悪人共を蹴殺し玉へと、天竜八部を始め日本国中の霊神に
祈りけれども表は天皇菩提の為と披露しければ当今の帝愍(びん:あわれむ)之一宇
の堂を創立して内侍尼を置奉る

其後崇徳院の神霊内裏に現はれ御身に仇をなせし人々皆恐怖し遂に悪死しければ天皇
の罪なき事顕はれ宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを内侍尼聞賜ひ大
に喜ひ我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号すれ其元と四国より光物都の方
へ飛来りしより起りたる堂ちれはとて飛来山光り堂と京中の貴践名付ける故光り堂と
いふ世間に広く聞へけり
此願勝寺の名都近くしては忌憚の義も有とて内侍尼の母儀出世の地阿波国へ移し天円
師の弟子了海上人を開起として阿波上郡に一宇を立願勝寺と号すべしと内侍尼の頼に
より了海上人は即麻植正遠の二男なれは此国は本国なる故大に喜ひ一宇ら建立せんと
皈国し国中を勧化し此計義をなすと雖此事朝廷への恐れありと訪くる人も有故無拠福
明寺に来り随伝上人に談しけれは上人曰
此福明寺は其名俗なり旦つ弘法大師留錫の後は真言宗なれ其元とは三論法相兼学の寺
也今真言宗と決定せし上は兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へ
り且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍
其菩提を用ひ奉る
爾時仁安三年三月の比西行下云大德讚州三斗數し来り白峯の御墓を拝し是亦御菩提の
為松坂と云所にて草庵を営み朝夕天皇の冥福を祈りけるか内侍尼の由縁なりと阿波へ
来り此願勝寺に寄宿し数日法話の上庭前の松に題して一首の和歌を読す其歌云ふ

  いつまでも年ふる寺のさかへをは
        軒場の松の色に見すらん

内侍尼も亦讃州に来り霊夢によつて白峯の御陵を三ツ峯に移し範景入道の本意の如く
比処にても神と仰き宮殿らしつらひ願勝寺を以て別当に定む内侍尼は老年に及ひ皈洛
し玉ひ醍醐に一宇を建一言寺禅那院と号し同しく崇徳天皇の御菩提を弔ひける


有名な「阿波内侍」関連がつらつらと書かれた段となります。

建礼門院御自作阿波内侍張子の像

阿波内侍 あわのないし
?-? 平安後期-鎌倉時代の女官。
建礼門院の女房。藤原通憲(みちのり)の娘とも孫ともいわれる。壇ノ浦の戦い(1185)のあと,京都大原寂光院で女院とともにすごし,最期をみとったといわれる。大原女(おはらめ)の装束は内侍の服装をまねたものという。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus


頭に荷物を乗せて運ぶ大原女

阿波内侍
生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とするものと,信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが,実在は確認できない。文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。
(櫻井陽子)
出典 朝日日本歴史人物事典

と一般的な記載はこのようでありますが、系譜を見れば「紀伊の二位」の娘であることは明白でしょう。
で、「紀伊の二位」は

上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり
      (中略)
新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云

の部分を見れば
麻植の系譜(追記)
で「阿波名勝」に記載のあった「麻植忠光」の娘ではなく「麻植正光」の娘が正しいのですね。
なお、史書に残る「紀伊の二位」は「藤原朝子」、「麻植正光」の娘は「」、官名は「麻の前」うん、そうなんですね。(笑)
麻植氏系図によれば
「女 上京して禁裏に仕え後藤信西入道の妻となり阿波の内侍を産」
とあるままです。

また、「願勝寺」の寺名の起源については、これも一般的には
由来
宝壷山・真城院「願勝寺」<真言宗・御室派>
 奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壷山維摩寺(ゆいまじ)を建立しました。
 平安時代 藤原信西(しんぜい)の娘 阿波内侍(あわのないじ)が崇徳天皇に仕えてたいへんかわいがられていました。
願勝寺
たまたま 第77代 後白河天皇(崇徳天皇の弟)の御代(みよ)に、 保元の乱〈上皇と天皇の対立による戦い〉が起り、崇徳上皇側が破れ、 崇徳上皇は讃岐に流され、1164年の8月 讃岐の地に崩御されました。 46歳でした。
 阿波内侍は、これを聞いて悲嘆にくれ、仏門に入り比丘尼(びくに)となり、館(やかた)を改め寺とし、上皇のご冥福を祈りました。その寺が京都の願勝寺でした。
 はばかるところがあって、内侍尼は了海上人(りょうかいしょうにん)に託して京の願勝寺を母の生国の阿波に移し 維摩寺 改め願勝寺としました。
 これが現在の願勝寺のはじまりです。
美馬市観光情報HPより

これが違ってるということは上記を見ていただければ、わかっていただけると思います。
「天皇の罪なき事顕はれ、宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを、内侍尼聞賜ひ大に喜ひ、我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号す」
その後
「兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へり且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍其菩提を用ひ奉る」
としたのが寺名の起源です。

それと、上記を読んでみれば、なんと源氏のターミネーター(笑)「鎮西八郎為朝」が立ち寄っているではありませんか。
4歳で牛車をひっくり返し(笑)、成人後の(と言っても17歳の時)身長7尺(2m10cm)、左腕が右腕よりも13cm長く、3尺5寸の太刀を提げはき5人張りの強弓を持っていたと「保元物語」に記されています。
琉球王国の正史である「中山世鑑」では為朝は琉球へ逃れ、息子が初代琉球王舜天になったとされていますが「系譜」では琉球までの道筋には「三津浜」を経由したと記載されています。(ここら、面白すぎるんですが涙を飲んでスキップ)



この件については「麻植氏系図」に四十九代「為光」の項に
「鎮西八郎為朝モ伊豆ノ大島ニ移サルモ遁レ来テ・・・」
の記載を見ることができます。

だいぶ面白くなってきましたが、長くなりすぎたので一旦切って次回へ続く。

いっぱい書いて疲れちゃったじゃねーか

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