阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する「延喜式式内社 事代主神社」
ん、何か幟が立ってるって?
そうです今日10月8日は事代主神社の秋の例祭だったのです。
とは言ってみても、徳島県神社誌では例祭は10月10日となっており、最近の流れで
休日に行なうように替わったんだろな、ということでしょう。
近寄ってみると
御神輿と(軽そうでいいなぁ)
子供用?の檀尻も準備済みでした。
話は前後しますが、ここ事代主神社は九頭宇谷川と善入川が吉野川に合流するところに位置し、鴨島の中央橋方面から向かっても複雑な形状の堤防を「ここでいいのかな」と不安になりながら走る事となります。
場所はここ、「案内神社」の近くとなります。
今日も堤防上を走っていると「案内神社」の幟も見受けられました。
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創祀年代不詳
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。
徳島県神社誌より
式内社の事代主神社は、全国でわずか二社のみ、それも阿波国にしか存在しない事は皆様ご存知の通り。
また、徳島市通町の「事代主神社」がここから遷座、勧請されたとの説もあるようですが
(写真は通町の「事代主神社」)
通町の「事代主神社」は
元々は名東郡下八万村(現在の八万町夷山)蛭子山の圓福寺に鎮座しており、蛭子神社という名であった。夷山城主である篠原佐吉兵衛の守護神を篠原家が滅亡した後に家臣であった仁木太郎が蛭子山に勧請したと云われている。
明治5年に名東県大参事井上高格が現在の通町に遷座勧請したと云われており、その際に官命により事代主神社と社号を改称した。同年38年に三丁目の大火で通町の97戸が焼失し、事代主神社はそのとき罹失したが、戦後再建され、「エベッサン」も再開されている。
wikipediaより
で、八万町夷山の蛭子神社がこれ(下の写真)
徳島市通町の事代主神社の一つ前の元宮です。(笑)
この前が阿波町の「事代主神社」であったかどうかは分りません。
ただ八万町のこの辺りは「市場」と呼ばれていたそうで妙に符合する所が
なんともいえません。
夷山城(えびすやまじょう)は天文21年(1552年)、細川真之によって築かれたもので篠原佐吉兵衛が城主となった弘治年間は1555年頃。
その時どこから勧請したかまでは分りません。ただ三好氏の系列なので、勝浦からの勧請ではないように思われます。
この篠原氏系列から調べるのも面白いかなと思ったりしますが。
それはさておき、神輿にも柏の神紋が刻まれ、いかにも「えびす」様を現わしております。
末社では神事も行なわれておりました。
という訳で(どーゆー?)
お祭りで子供もいっぱい、焼きそば、ポテトフライ、カラアゲなども売ってて、さすがにゆっくり参拝する雰囲気じゃありませんでしたので、そこそこで退散いたしました。
ノボリや飾りがついているのは好きなんですが、テントがねえ・・・。
返信削除お祭りの時は仕方ないといえば仕方ないんですが、神社には合いませんね。
先月、土佐神社に参った時も境内がテントだらけで引きました。
長宗我部元親が造った社殿で老朽化が激しいため寄付を募るテントでしたが、もうちょっとやり用がないものでしょうか?
テントはちょっとそぐいませんねえ。
削除運動会じゃあるまいしね。
それとこの日は境内にたくさん車が乗り込んでて
すっげえ、気分悪かったです。
いくらなんでもお祭りの日は、車で乗り込んじゃダメでしょう。
ボクの車が置けないし(うそうそ)
ぐーたらさんやのらねこさんのようなブログを書くのは、大変すぎです。
返信削除無理をなさらない程度に、気のむくままに書いてください。
楽しみに待っています。(決してプレッシャーではないですよ)
徳島古事記研究会も最近、会らしくなってきました。(こんなこと言っていいのかな(笑))
私なんか適当なことばっかり言ってしまうので、詰め寄られてタジタジになっています。
また、遊びに来てください。
遊びに行ったつもりが、質問攻めに合うのでイヤです(ウソウソ、また呼んでね)
削除テキトーなことを、舌先三寸で誤摩化すのは得意ですので(笑)
ブログも同じだって?
仰る通りです(笑)
ぐーたらさん、こんばんは。
返信削除ふだんはガラ~ンとしたあの神社もにぎわうことがあるんですね。
市内の賑わい(大阪のえべっさんに似ています)とは別次元だとしても。
石碑の「心は粟の斎く島 事代主と崇めまつれよ」とはどういう意味なんですか?
体はここにあって…。
京都の御所(ここ)で祀られるようになったときの歌だと考えると分かりますが。
子供がたくさん来てまして、よかったです。
削除昔から子供は神社で遊ぶものと決まってますので(笑)
石碑については
信濃善光寺御詠歌 第三番
「身は茲(ここ)に 心は信濃の 善光寺 導き給え 弥陀の浄土へ」
のもじりでしょう。
そうそう、神社の裏の茂みなんかに秘密基地を作ったりして。
返信削除縁の下でアリジゴクを見つけてしばらく飼った(もちろん蟻さんたちを生贄に捧げる儀式をするために…)こともありました。
善光寺ですか…。
確かに大昔に体と心を分けて考えることはなかったでしょう。
それにしても、よくそんなことをご存じですねえ。
畏れ入りました。
神社の裏と工場の資材置き場は秘密基地ですね。
削除でも、神社の裏はなんだか怖かったなぁ。
石碑は前に調べてて、今回も写真の後に書こうと思ってて
忘れておりましただけです(笑)
こんにちわ。
返信削除これは昨年のお祭りの様子なのですね? …そういえば、今年もそろそろお祭りの時期ですね?
この夏、実家の市場町に在住の姪と、愚息の自由研究に、阿波市に残る城跡巡りをしました。
この神社のすぐ西南には伊月城址、東側の九頭宇谷川と吉野川の合流点には郡城址、その北には、郡城主が勧請したと言われる西宮神社、また近くに案内神社や篠原城址などもあって、なかなか面白い地点ですよね?
他にも、中央橋の近辺の…多分今は畑になっている辺り、高畠城とか柿原城とか…2,3城があったらしいですね?
今回この辺りの城を調べきれてないので、冬に帰省したときに調べ直そうと思っているのですが…たよりの「吉野町史」にそこら辺が詳しく書かれていなくて、困っています。
市の教育委員会の人にでもきいたほうがいいのでしょうかね?
こんにちは
削除大分コメント書くのが疲れてきました(笑)
式内社の事代主神社は、全国でわずか二社のみ、それも阿波国にしか存在しない事
は記事内にも書きました。
ここもスゴい神社です。
お祭りは子供がたくさん集まってきてて、よかったです。
やっぱ子供は神社で遊ぶものです。
町村史はその時の編者によって掲載する項目が全然違うので、旧跡のことがほとんど書かれてない町村史も見かけます。
地誌に詳しい高校の先生が知り合いにいれば一番いいんでしょうけどね。
あとは地元の人に聞くか、足で調べるかになってきますかね。
そうなんですね…知らんかった(-_-;)。
削除普段何気なーく南の堤防沿いの道を、信号の少なさからよく通っておるのですが、「あー、神社があるなー」位にしか思っておりませんでした。
すぐそばの伊月城址に関しては、カーブミラーを確認するのが精一杯で、今回見つけに行って「あー? これがそーだったのー?」と子供共々目を丸くしたものでした(-_-;)。
そんなもんです。
削除徳島はとんでもない史蹟がほったらかしにされてるので有名(?)なトコロかもしれません。ちょっと整備すれば第一級の観光地(うーん)になるような場所が、そんなこんなの有様です。
嘆かわしいもんです。
と、言いながらあまり有名になるのもなぁ、と思ったりもします。
今、
削除「夷山城(えびすやまじょう)は天文21年(1552年)、〜この篠原氏系列から調べるのも面白いかなと思ったりしますが。」の部分を読み返して思ったのですが…篠原って苗字、吉野、市場、阿波町にかけて、よく見かけます。「市場町史」にも、板東氏や松永氏などと並んで、篠原氏のことが書かれていました。上桜城主・篠原自遁の系列ってことですよね?
伊月神社のそばの案内神社の北西に、「シノ原」という字名と、「篠原城」の碑がございます。
案内神社の北西の、ちょっと木が茂ったあたり。
すんません、コメントに気付いておりませんでした。
削除>篠原って苗字、吉野、市場、阿波町にかけて、よく見かけます。
ですよね。
ボクも市場町の某所に集まってる名字ですので(笑)ただ調べてみると◯◯から流入した◯◯の系統みたいです(笑)