キョロ(・・ )( ・・)キョロ(.. )( ..)キョロ(¨ )( ¨)キョロ
ダレカイルカナ?
φ(・ω・ )かきかき
えと、過疎化してる間に鳩山くんも退陣しちゃいましてドリフターズがいれば
「ハトちゃん ペ」なんて言ってるかもしれません。
で、いつもお世話になってます、徳島県立図書館なんですが
今、併設の徳島県立文書館でこんな企画展をやってます。
徳島県立図書館、沿革を見てみると
大正5年7月24日 大正天皇即位記念として創立、徳島県立光慶図書館と称する。
大正6年6月24日 開館式を挙行する。
昭和20年7月4日 戦災により焼失する。
昭和24年5月3日 徳島県立光慶図書館を再建し、憲法記念館と称する。
昭和25年3月13日 火災により焼失する。
昭和28年11月3日 徳島県立図書館の開館式を挙行する。
昭和57年3月 新徳島県立図書館の建設地を徳島市八万町向寺山「文化の森」に決定する。
平成元年10月 徳島県立図書館本体工事竣工
平成2年4月 新館へ移転する。
平成2年11月3日 徳島県立図書館開館
てな感じになってます。
今回は以上で終わりです。
なら、こんなブログ必要ないっすよね。(そこの君、「もともと必要ない」なんてこと言わない!)
箱はこんな感じだったんでしょうが、中身は?
というところで、巨大な中身であった「阿波国文庫」について少々。
羊我山人著の「粟之抜穂」に「阿波国文庫回顧」として面白い一文がありましたので、紹介いたしませう。
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戦災前迄徳島公園の県立光慶図書館は、全国から学者や研究家の来訪が絶えなかった。
それはこゝに「阿波国文庫」と「モラエス文庫」という有名な二大集書があった為である。
「阿波国文庫」は旧藩主元公爵蜂須賀家の所蔵図書で原の数は不明であるが大約六万冊を超えると
推定せられ図書館寄託の分はその一半三万九百五冊でほぼ同数が常三島別邸の倉庫と東京本邸に保管
せられていた。
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これがいわゆる「阿波国文庫」ですね。
前回までの「杉の小山の記」にも「阿波国文庫」の蔵書印がありました。
こんなヤツです。
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この文庫は十二代藩主重喜に招かれて藩の儒員となり、後に幕府昌平校の儒官に進んだ讃岐の儒者
寛政三輔三博士の一人である柴野栗山の旧蔵漢籍と第十四代藩主斉昌の殊遇を受けた江戸の国学者
輪池翁屋代弘賢の旧蔵図書その他で、いずれも歿後遺族から藩公へ献上せられたものをはじめとし、
これに好学の歴代藩主が購入したものや、多数の郷土関係の記録類等が加わったものである。
栗山の蔵書中光慶図書館に保管せられていたものは五百八十七部三千二百六十七冊で、これには
「柴氏家蔵図書」「柴野邦彦後帰阿波国文庫蔵于江戸雀林荘万巻桜」
「阿波国文庫」の朱印があり、他の多くの蔵書印と共にこの本の伝来を物語っていた。
中でも宋版の「春秋穀梁伝」の如きは「金沢文庫」の黒印があり、この書物があまりに見事なので
栗山は自分の蔵書印を押すに忍びずそのまま所有したと伝えられて来た。
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ちなみに「光慶図書館」こんな感じだったようです。
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中略
大正六年県の御大典事業として光慶図書館を創立し、文庫はこゝに移管せられ、昭和三年十一月
当時の館長坂本章三先生の努力によって蜂須賀公爵家との間に公式の保管契約が成立し、向う
十年間を限り毎年金壱千円の保管費を提供せられ、県は鉄骨の完全書架を整備し、根本的分類
整理の上これに収め、詳細な目録カードが編成せられ、神田喜一郎・長沢規矩也・川瀬一馬など
新々の専門学者によって書誌学的に学会に紹介せられ、稀観本は漢籍二百六十六部・和書三百四十部・
計六百六部を数えた。
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と見れば、ここに「ぐーたら」が探す、お宝が眠ってなかったのかと考えるのは当然じゃないでしょうか。
せめて目録を、と探してみれば。
いやあるもんですねえ。
一から四巻までありましたが、「増加」となってます。設立後購入した書籍の目録なんですかねえ。
内容はこうありましたので、四巻全て見てみましたが「阿波国文庫」の目録ではありませんでした。
「小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)」の名前さえ見つからないのはどういうことなんでしょうか。
また、蔵書数を見てみても。
大正七年時点で合計16,345冊。「阿波国文庫」の三万数千冊がごっそり抜けています。
これは?
疑問ですが、ここでは置いておきます。
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太平洋戦争の末期、昭和二十年六月館長岡島幹雄君の英断によって貴重本六百六十三冊と目録四冊を
自ら荷車を引いて八万町長谷に疎開し、さらに十月これを名東郡佐那河内村嵯峨に運搬したが、その他の
全部は七月四日の空襲による戦災に罹って全滅してしまった。
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なんで「八万町長谷」なのか、なぜ「名東郡佐那河内村嵯峨」なのか、理由は書かれてませんが
非常に気になる所です。
また「貴重本」の書名も気になります。
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昭和二十四年五月憲法記念館が建築せられて貴重本はこゝに返ったが、翌年三月天皇御巡幸の直前出火の
ために館と共に残らず烏有に帰した。
蜂須賀家別邸の分は戦争中荷馬車数台で運び出して東京に送られ、戦火を免れた郷土関係資料も引き取られて
共に売却せられたので、昭和二十六年以後「阿波国文庫」印のある書籍が東京をはじめ全国の古書屋の目録を
賑わした。
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うーん、「天皇御巡幸の直前」の出火なんて穿った考えが頭の中を駆け巡ります。
「阿波国文庫回顧」は以上なんですが、結果「金沢文庫」に匹敵するとまで言われた「阿波国文庫」は
徳島県立図書館に残る94点518冊となってしまいました。
あと残るは全国の古書屋に売却された別邸の分だけでしょうが、多分散逸に次ぐ散逸で行方を追うことは
不可能でしょう。
この文庫に、どんな珍品があったかを想像するだけで歯ぎしりしてしまいます。(寝てませんよ)
今回はちょっと県外の方にはなじみが薄い話題だったかも..........
(いや、よく考えると、今までそんな話題ばっかりだったんだな)
ま、ちょっと毛色の変わった話題と言うことで。
ぐーたら先生。こんばんは。文書の疎開に関わった人物として、かの鳥居龍蔵先生が関係されているかもしれません。(勝手な想像ですが・・)というのは銅の鳥居地区の西部が長谷地区ですが、鳥居姓の方が住んでいました。(小学校の上級生)しかも先生は20歳の時に、人類学の草分けで「コロボックル研究」の第一人者の坪井博士と小杉榲邨先生との媒酌により、ご結婚されています。もともとは船場の生まれだったようですが、長谷に縁がありそうです。また当地には四王子神社が祀られていますが、王子神社と図書館は因縁めいたものを感じます。(かなりのコジツケ。思い込み以外の何ものでもない)こう書いてしまうと、本当のような気がするから不思議です。
返信削除to イコピコのひとりごと さん
返信削除>かの鳥居龍蔵先生が関係されているかもしれません。
情報ありがとうございます。
で、情報をいただいていいにくいのですが
ちょっと時期的に微妙ではございませんでしょうか。
鳥居龍蔵先生は昭和20年頃まだ中国で研究なさっていたはずですが。
日本の関係者と連絡を取って便宜を図ったという線ならばなきにしもでしょうが。
ただ鳥居龍蔵先生の蔵書は、大戦にも焼けずに全て残っていたと言うことですので、長谷の縁で関係者が保管の労を取ったというなら納得です。
でも、
>坪井博士と小杉榲邨先生との媒酌により、ご結婚されています。
の話は初めて聞きました。
すいません、お気を悪くせずまた教えてくださいませませ(汗)。