は、さて置いといてと。
え 〜と、阿波国一宮として、鳴門市大麻町に「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」という神社がございまして、これが式内社としては「名神大社」。社格としては「国幣中社」となっております。
以前にも
阿波國一之宮 大麻比古神社(1)
阿波國一之宮 大麻比古神社(2)
阿波國一之宮 大麻比古神社(3)
阿波國一之宮 大麻比古神社(4)
で、大概書き尽くしたかな(グダグダの文章は別にして)と思ってたんですが、ちょっと追記として書かせていただきます。
上記写真は「大麻比古神社」
神武天皇の御代、天太玉命の御孫 天富命 勅命を奉じて 洽く肥沃の地を求め 阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して 殖産興業の基を開き 国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。
猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合せ祀ると伝えられる。
延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。
清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給ふ。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って、社殿の造営を行ひ、年々祭費を奉らる。明治六年国幣中社に列す。
明治十三年国費を以って本殿以下の造営が行はれた。現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営せられた。
大麻比古神社 公式HP由緒書きより
祭神
大麻比古神、猿田彦大神
神社由緒にもありますように 、 主祭神である「大麻比古神」は忌部の祖である「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」とされておりますが、これはあくまでも現在の神社側の見解です。
ご存知でしょうが、大麻比古神社の御祭神は昔から論議の的となっております。
wikipediaの記載を見るに
『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』(以下、『日本の神々』)によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども・・・」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。
『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。
明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。
上記説明文は、明治41年の大麻比古神社宮司「山口定實」氏による「国幣中社大麻比古神社祭神考證」を基としており、
卜部家の説であり「大日本国
結局、山口宮司は御祭神は「天太玉命」との結論であり、現在もそのまま祀られております。ただし、上記の由緒をみても大麻比古神=天太玉命とは明言しておりません。
安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図の該当部分が下図です。
大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言うの部分です。
ちなみに「津咋見命」とは古語拾遺に、天照大御神が天岩屋に隠れた時、天日鷲神とともに穀(かじ)の木を植えて白和幣(木綿)を作った神のことです。
ちなみのちなみに、天日別命の御子として出てくる「天白羽鳥命」の又の名を「長白羽命」と書かれておりますが、これは「古語拾遺」の天岩戸に登場する神で、思兼神に命じられ、麻を育て青和幣(あおにぎて)を織ったという。
神麻続機殿神社で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神とされる。
つまり「伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神」は阿波忌部の一族なのですね。
すくなくとも、常陸国久慈郡(現茨城県常陸太田市)の式内社・天之志良波神社の祭神として祀られておりますので、阿波忌部の足跡の一つと見られます。
まあ、それもさておき(笑)
もひとつ最近見つけた資料にあったのが、これ。
松浦長年「阿波國古義略考」
これがまた、松浦長年、とんでもないコト書いてあるんですよ(笑)
「大麻比古神亦ノ名を大水上ノ神亦ノ名は櫛玉命亦ノ名を天ノ活玉ノ命といふ」
この「櫛玉命」とは
天照国照彦火明櫛玉饒速日命ともされ、物部氏、穂積氏、熊野国造らの祖神と伝わる。
『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。
ヲイヲイ、「大麻比古神は饒速日命」ってか?
思考停止に陥りそうな一文ですなぁ、例によって、出展とか考察の過程とかを書いてくれてないんで(まあ、「草稿」ってなってますからね)なんとも言い難いのですが。
で、ちょっとここらで、まとめてみますれば。
大麻比古神は
1. 猿田彦大神(卜部一党、「阿波国式社略考(永井精古)」など)
2. 津咋見命(野口年長、安房国下立松原神社忌部氏系図など)
3. 天太玉命(大麻比古神社宮司「山口定實」など)
4. 天足彦國押入命(多分「永井 五十槻」)
5. 櫛玉命(松浦長年)
と出揃ってきます。
で、ワタクシ最近まで決めかねていたのです(無理に決めるもんでもないっすけど)。
が、やはり「猿田彦大神」ではないかと思うようになってきました。
大師匠の「大麻比古神 とは、事代主命 である」もありますし
どうも「鳴門市大麻町の大麻比古神社」の元社がここらしいのです。
徳島県神社誌にも記載はない神社です。
大麻町の大麻比古神社の元社というのは口伝ですし(地元の人はそう言ってる)、御祭神も不明ですが、どうも「猿田彦神」のようなのです(疑ってるな〜)。
ならば、大麻町の大麻比古神社も御祭神は「猿田彦神」、大体「大麻山の奥宮」に「猿田彦神」が祀られてるしねぇ。
そして追記の追記として、先ほどの師匠のブログより
「事代主命 と 猿田彦神 と 大物主神 が同神」
であることを記しておきましょう。
猿田彦大神に一票。
返信削除御意でございます。
削除ぐーたら先生。おはようございます。(笑)
返信削除歳をとってくると、どうも早寝早起になりまして・・・。
先ほど「起床」と相成りました。
さて。
大麻山(おあさはん)ですが、山麓の「古くからの住民」のなかでは「彌山」(みせんさん)として
崇敬されていた「霊山」でした。
おあさはんの「一の鳥居」は朱で塗られていますし、橋も朱塗りですよね。
あと。麓の「山田」地区は、他の地域には認められない「氏橋姓」の発祥地でもあります。
(全国の氏橋姓は、ここから分散している。)
伊勢神宮はどこにあるかと云うと「宇治山田」でしたね。
「うじ」と「やまた」とが共通しています。
話はもどって「彌山(みせん)」さんの「彌(み)」は「いや」です。
神の水先案内人を務めた「やまた」の主とは「サルタヒコ」以外の誰でも無いと信じております。
ひひひひひひっ。(笑)
すいません、死んでましたのでお返事遅くなりました。
削除やっぱ、猿田彦大神なんですね。
ありがとうございます。
いろいろ迷ってましたが、間違いないように思います。
ところで、いい情報は小出しにしないで、ざっくり出しましょうよ(笑)
その猿田彦さま、京都に入るとトンと影が薄いんです。
返信削除それでも探してみると、上京区上御霊前町に猿田彦神社がありました。
扁額は「猿田彦大神宮」とあり、応仁の乱で荒廃するまでは四町四方の敷地があったとか、平安遷都はここの託宣に依ったとか、なにやらいわくがありそうです。
怨霊鎮めの御霊神社のすぐ近くで、宮司の出雲路さんが兼務しているとか。
調査ターゲットとして記憶しておきます。
すいません、死んでましたのでお返事遅くなりました。
削除烏丸通ですねぇ。
河原町、木屋町ならよく知って....
いやいや知りませんが(笑)
確かに京都で「猿田彦大神」あまり聞きませんね。
京都に行く機会があれば是非とも、ここと晴明神社はお詣りしたいと思っております。