ありきたりではございますが、一日でも早い復興を御祈り申し上げます。
原発の災害や人災としか言いようのない二次、三次被害が続いている中
非被災地である当地で、心苦しくも日常を身過ぎ世過ぎしております。
この様な役にも立たないブログを綴るのも日暮しの一部とて、ご容赦願います。
さて、「日本書紀」巻十三 允恭紀に見える、「男狭磯(おさし)」の記事でございます。
知ってるサイトの方々はもう既に書いてるし、有名な話なんで、いまさらワタクシ
などが書くのも気が引けるんですが、ご存じない方もいらっしゃるかもしれない
かもしれないかもかも、なので、書いてもいいかな?かな?かな?なんてね。
まずは原文より
十四年秋九月 癸丑朔甲子 天皇獦于淡路島
時麋鹿、猿、豬、莫莫紛紛盈于山谷 焱起蠅散 然終日以不獲一獸 於是獦止以更卜矣
島神祟之曰 「不得獸者是我之心也 赤石海底有真珠 其珠祠於我 則悉當得獸」爰更
集處處之白水郎 以令探赤石海底 海深不能至底
唯有一海人 曰-男狹磯 是阿波國長邑之海人也
勝於諸海人 是腰繫繩入海底 差頃之
出曰 「於海底 有大鰒 其處光也」
諸人皆曰 「島神所請之珠 殆有是鰒腹乎」 亦入探之
爰男狹磯抱大鰒而泛出之 乃息絕以死浪上
既而下繩測海底,六十尋
則割鰒 實真珠有腹中 其大如桃子 乃祠島神而獦之 多獲獸也
唯悲男狹磯入海死之 則作墓厚葬 其墓猶今存之
で、現代語訳じゃなくて、お話として徳島新聞の阿波の民話より、一部編集して引用してみます。
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の十四年九月十二日、天皇は淡路島へ狩りに出かけられたそうな。
淡路島には鹿や猿、猪がようけおった。ところが、天皇や家来どもが島中を走り回っても、一匹のケモノも捕れなんだ。こんなことは今までになかった。
ほんで、島の神様におうかがいすると、
「ケモノがとれんのはわしがそうさせとるからじゃ。赤石(あかいし)の海の底に見事な真珠がある。ほの真珠を捕ってきてわしにまつれば猟は思いのままじゃ」
って、おおせられた。
早速、全国から潜りの名人を集めて赤石の海の底へ潜らせた。ところが、海があんまりにも深いんで、だれ一人海の底まで届いたもんはおらなんだ。
ほのとき、天皇は阿波の長邑(ながのむら)に男狭磯(おさし)ちゅう潜りの名人がおるんを聞いて呼び寄せた。
ほんで、天皇は男狭磯(おさし)を呼ばせた。やってきた男狭磯(おさし)に、腰に長い縄(なわ)をくくり付けて海底へ潜らせた。だいぶんして浮(う)き上(あ)がりながら、
「海の底に大けなあわびがおりました。ほの辺りが光っとります」
と、申し上げた。天皇は
「ほれじゃ。島の神が欲しいちゅう玉はほのあわびの腹ん中にあるはずじゃ」
ほんで、男狭磯(おさし)はまた海の底へ潜った。だいぶんしてから男狭磯(おさし)は、大けなあわびを抱えて浮き上がってきた。しかし、海ん中であんまりおったんで、息が絶えて波の上でのうなってしもうた。
天皇が縄で海の深さを測らせると、なんと六十尋(ろくじゅうひろ)もあった。この深)さでは並の海士(あま)はよう潜れんだろうとささやきおうた。
早速、あわびの腹を割くと桃の実ほどの大けな真珠が出てきた。天皇はほの真珠を島の神さんにお供えして狩りを始めた。おもっしょいほどの獲物があった。
島の神さんは、
「こんな見事な真珠をまつってくれたんはうれしいが、ほのため海士(あま)が死んだそうな。丁重に葬ってやれ」
と、言われた。天皇は早速家来に命じて墓を造らせた。ほれが里浦(さとうら)にあるアマヅカじゃ。
さて、男狭磯(おさし)の住んどったとこが阿波国長邑(ながのむら)じゃ。大昔、旧の那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)を長国(ながのくに)(邑(むら))ちょった。ほこの海士(あま)じゃった。
長邑(ながのむら)の潜りは有名で「延喜式(えんぎしき)」の中に那賀(なか)の潜女(かつぎめ)が「あわび四十五編(しじゅうごあみ)、すあわび十五坩(じゅうごつぼ)」を献上したとある。
潜女(かつぎめ)は海女(あま)じゃ。男狭磯(おさし)は男じゃ。椿泊浦(つばきどまりうら)や海部郡(かいふごおり)では男も女も潜りをして暮らしをたてておった。
今でも海部郡(かいふぐん)では海へ入ってあわびやさざえを捕るんを「かづく」ちよるが、これは古い言葉で、すでに允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代から那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)の潜りはよう知られとった。
以上です。解説は不要なので今日はここまで。
ってか?
なら徳島新聞だけ見てたらいいんで言わずもがなの解説を少しだけ。
原文中にある「白水郎」が「海士(あま)」のことですね。
一尋は両手を広げた広さの事なので、六十尋なら90メートルから100メートル
程度の深さでしょう。それを素潜りするんですから、ジャック・マイヨールも
裸足で逃げ出しかねない凄さです。
ちなみに、允恭記の解説で、人間が100メートルも潜れる訳がないなんて書いてある
サイトがありましたが、何をか言わんや。海士をなめきってますね。
さて、この男狭磯(おさし)の墓があるのは鳴門市里浦の「十二神社」でございます。
場所はここ。
より大きな地図で 十二神社 を表示
そして、この境内に「男狭磯(おさし)の墓」が。
これでございます。
また、この境内には「蜑(あま)男狭磯の井戸」というのがありまして。
男狭磯の屋敷跡と伝えられております。
逆光で申し訳ございません。
金網が張ってあるので生きてる井戸かどうかは分りませんでした。
明石市のホームページや兵庫の方々のサイトには、原文では「赤石」と
ちゃんと書いてあるのに、なぜか「明石」だと皆様おっしゃります。
阿波の小松島に「赤石」の地名があるのに、何故でしょうか。
また、明石の無量光寺本堂後に「男狭磯(おさし)の墓」があるそうでございます。
じゃあ、上の写真の墓はなんでしょうかね。
阿波の長邑から明石にまで海士を呼ぶのも、なんだかなあと、思ったりもしますし。
ま、阿波の長邑にも複数の説がありまして、上の民話のように那賀郡、海部郡と
いう説と、やはり鳴門の里浦であるとの説があります。
里浦も古く長邑と呼ばれてたそうなのです。
阿波誌に出てるそうなんですが、手元に画像がないんで
明治43年頃「田山花袋」の書いた「新撰名勝地誌」に記載がありましたので
出してみます。
右から5行目、前にも書いた「清少納言の墓」の所から読み進むと
「由来この地は舊称を長邑と称し」とありますよね。
余談ですが「田山花袋」よく調べてますねぇ。
これ、全国の名勝地を網羅してるんです。本人は「全国を回った訳じゃない」
などと言ってたそうですが。
どちらにしても、「赤石」に赴くのなら、「海路」大した距離じゃないんで
(今でも椿泊から徳島へ行くのなら船が速いぞ)
「明石」まで行くような旅行にはならないと思いますがね。
そして、ここ十二神社には、天保5年(1834)、林崎の豪商・近藤利左衛門が、男狭磯の功績を称え、伝説の井戸が忘れ去られないよう、石碑を建ててます。
それがこれ。
刻んである内容は日本書紀と似たり寄ったりなので省略。
面白いのがこの碑を納めてある建物に掲げてある男狭磯の姿。
おお、セクシーな「女性」の姿!
男狭磯って男じゃなかったの?
ってとこで、久々に書いたら長くなりすぎたので上下に分けて、今回はここまで。
ところで、電池やペットボトルの水、買い占めは止めろよな。
節電もしろよ。電気料金を上げるなんて言ってるトンデモない奴もいるけどな。
うう~~む、なかなかに興味深い...
返信削除丁度、娘が明石で一人暮らししているので、
少し調べてみよう......って。
何の脈絡もないコメントで申し訳なし。
深謝。
to 猫の兄弟 さん
返信削除いえいえ、コメントだけでありがたいです。
ところで、猫版「土佐日記」はどうなりました?
何だか畏れ多い、期待大みたいで...
返信削除書きたいことは一杯あるんですが、
流石に今のタイミングでは被災地の方々への遠慮もあって、
少し内容や表現に苦労しながら、時間かかってます。
宇佐の話も途中だし...
まあ、ボチボチですね。