倭の神坐す地(1)
から続けます。
「薬王子神社(奇玉神社)」祭神が「大物主」であるならば、何がどうなるのか?
まずは「薬王子神社(奇玉神社)」近辺で「大物主」に関わりがあるところを探してみようではありませんか。
最初は、讃岐の「水主神社」
この社の御祭神は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
倭迹迹日百襲姫の悲劇
箸墓古墳と関連があるとされる伝承である。倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。
wikipedia
つまり、日本書紀では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記され、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。
いわゆる通説ではこうなっておりますが、とにかく阿波、讃岐近辺には倭迹迹日百襲姫を祀る神社が散見されます。
まずは、この「水主神社」。
社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。
このあたりは昔の拙ブログ記事
水主神社(東かがわ市)(1)
水主神社(東かがわ市)(2)
水主神社(東かがわ市)(3)END
を読んでいただければ、御分かりいただけるかと思います。
蛇足ながら「水主神社」には「神陵」があることに留意いただきたいです。
また上の写真のように、本殿の右側には倭迹迹日百襲姫命の母である「倭国香姫命」を祀る「国玉神社」があることを憶えておいていてください。
続いて、讃岐の一ノ宮である「田村神社」
御祭神 倭迹迹日百襲姫命、吉備津彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命
この五柱の神を田村大神という。
由緒 倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。
関連伝承は伝えられているようである。
1.境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。
2.境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。
3.神社の東三丁のところにある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。
まあ、ここについてはワタクシは
水主神社(東かがわ市)(3)END
で、書きましたように「妹」であったと考えております。
次に、香川県高松市仏生山町甲1147の「船山神社」。
由緒
倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れり。創建は天平年間といい初め浅野村船岡山に鎮座あり、船岡山は古く百相郷に属し船山と称す。
倭迹迹日百襲姫に由縁と言われる場所がこのように見られるのがわかっていただけたと思います。
え、引田の安堵浦は?
艪掛神社は?
船岡山は?
鬼ヶ塚は?
ってか?
ごめんなさい、さらに数多、伝承地の存在は存じておりますが、全部書いてたらキリがないのと、倭迹迹日百襲姫命が本論ではないので、終焉の地と推測される場所に飛びたいと思います。
日本書紀 崇神天皇
是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居急居、此云菟岐于、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。
倭迹々日百襲姬命は大物主神の妻となりました。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れませんでした。倭迹々姬命(ヤマトトトヒメノミコト)は夫に語って言いました。
「あなたさまは、常に昼は見えないので、ハッキリとその尊顔を見る事ができません。お願いしますから、もう少しゆっくりしてください。明日の朝に美麗しい威儀(みすがた)を見たいと思います」
大神は答えて言いました。
「言理(言ってる事は)灼然(よく分かる)だ。私は明日の朝にあなたの櫛笥に入っている。頼むから私の形に驚くなよ」
倭迹々姬命は心の裏(ウチ)で密かに怪しんでいました。夜が明けるのを待って、櫛笥(クシゲ)を見ると、とても美麗い小蛇がいました。
その長さと太さは下衣の紐のようでしたので驚いて叫びました。大神は恥ずかしく思い、すぐに人の形になりました。
「お前は我慢出来ずにわたしに恥をかかせた、わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を踏んで、御諸山に登りました。
倭迹々姬命は仰ぎ見て後悔して、座りました。
急居は菟岐于(ツキウ)と言います。
それで箸で陰(ホト)をついて亡くなりました。
それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。この墓は、昼は人が作り、夜は神が作りました。大坂山の石を運んで作りました。山から墓に至る人民が並んで列を作って手から手へと手渡しに運びました。
という伝承に基づき、一般的には
倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。
wikipedia
とされております。
が、阿波には
地図のように市場町に「箸供養」の地名が残されており、そう、そうですね「箸供養」は「市場町」すなわち「大市」となるべき場所になるのです。
なおかつ、「箸供養」からまっすぐ北にすぐ「大坂峠」が位置することは徳島県民ならばよくご存知の通りですし、さらに北方向には「水主神社」が鎮座しております。
この辺りの件については、当ブログを以前から読んでいただいている方々には規定だと思われますが、ご存知ない方のために念のため
空と風 船岡山の謎 ④ 天村雲命
awa-otoko’s blog 倭迹迹日百襲姫命の殯宮跡(箸供養)
をお読みください。
上記リンクを御読みいただいた方々には、蛇足ながら、「箸供養」と推定される場所の写真を掲載いたします。
うー、これだけで疲れたぁぁぁぁ(笑)
では、「大物主」を祀る神社は「薬王子神社(奇玉神社)」を別にして近辺にあるのでしょうか。
これについては
明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。
wikipedia
とある「金刀比羅宮(ことひらぐう)」を、まず挙げることができるでしょう。
金刀比羅宮(ことひらぐう)
明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変えた。明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る。松尾寺は、塔頭であった普門院が再興し、法灯を継承している。
wikipedia
こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう) は、琴平山(象頭山)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」延宝5年(1677)や、菊池武賢編「讃州府志(さんしゅうふし)」延享2年(1745)などには、それぞれ「この山の鎮座已(すで)に三千年に向(ちか)づく」とあります。
初め、大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、〝金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)〟と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。
その後、明治元年(1868)に神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止されて元の神社に復(かえ)り、同年7月に宮号を仰せられて〝金刀比羅宮〟と改称し、現在に至っています。
金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。
全国にある「こんぴらさん」の総本宮
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。
金刀比羅宮HPより
そして、阿波を知る方々には有名な話である「箸蔵寺(はしくらじ)」。
箸蔵寺(はしくらじ)
箸蔵寺(はしくらじ)は、徳島県三好市池田町州津に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は宝珠山(ほうしゅざん)。本尊は金毘羅大権現。明治初年の神仏分離令以前、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮がまだ松尾寺の管理だったころ同じ本尊という縁で交流があり当寺の方は、こんぴら奥の院と称した。そして、神社と寺院として交流が失われた今でもそのように云われており、神仏習合の風習を色濃く残す寺院である。
説明の書き方がちょっとわかりにくいんですが、要は「箸蔵寺」は「金刀比羅宮」の奥の院であり「大物主神」が祀られているということなのです。
阿波、讃岐近辺で「倭迹迹日百襲姫」と「大物主」に関わる神社などが出揃ってきました(もうちょっと書き足りないけど収拾つかなくなるんで、この程度で)。
けど、多分まだ何が言いたいのかよくお分かりにならないのでは、と思います。
実は、分からないように書いてるからです(笑)。
次回からは核心に入っていきたいと思います。
次は、そんなにお待たせしませんので(多分)。
続く
体力つけなくちゃ
ペース早くて嬉しいです。折角の連休もまるでフルで働いているようですね。(^^)
返信削除神陵が拝殿の真横で、奥にないのは規模縮小時の影響でしょうか?
ありがとうございます。
削除そう言われれば、神陵が奥にないのは変ですよね。
ちょっと考えてみます。
あ、連休はこの記事でほぼ全部潰れてしまいました(笑)
あなたの苦労はみんなのために
返信削除いいお仕事、なさっています
ご褒美は神様より頂戴してくださいね。
ありがとうございます。
削除評価がご褒美だ御思ってます。