2018年1月3日水曜日

異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(下)

異説:土御門上皇ご火葬場は国府町早淵にあったのか?!(上)
から続けます。

あ、その前に
「あけましておめでとうございます」😀
本年もこんな感じなんで、よろしくお願いいたします。
と、
発端は「田所眉東」氏の「土御門院奉祀地問題と徳島」でした。



長文でもありまして、翻刻もめんどくさいんで(笑)、要旨を勝手にまとめるならば

1.土御門上皇、阿波国にご入国された場所
2.阿波国入国の際、最初にご逗留された場所
3.ご崩御の際の火葬場所について
この三点であります。

1.土御門上皇、阿波国にご入国された場所

土御門上皇、阿波へご入国された日には数説ありますが、ここは「吾妻鏡」から引用して貞応2年(1223)5月の記載を確認しましょう。



土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、 注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。
四月二十日御迎えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。

土御門院が土佐国より阿波国へ遷す…云々との記載ですが、通常、高位の方が入国するときは「国府」へ入るのが通常なのです。
単なる御行倖ならいざ知らず、上皇が居所を遷すという一大事には、「国司」が「国府」にて出迎えなければならないはずなのです。
上記、吾妻鏡にも「阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる」と上皇遷座の報が阿波国守護職に伝えられたことが見られます。

2.阿波国入国の際、最初にご逗留された場所
これについては
嘉禄3年、12月10日改元され安貞元年丁亥となる。
嘉禄3年2月13日の段に

嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥
嘉禄3年2月13日 癸巳 晴
阿波院御所造営の事その沙汰有り。
寝殿に於いては、守護人小笠原の弥太郎これを造進す。
薬屋外郭の用途料は、諸御家人に差し宛てらるる所なり。各々所課の用途行事に付す。
豊後の前司返抄を執り進せしむべきの由仰せ下さる。
但し臨時に土民に徴下せしめば、定めて弁済に泥み、本所の乃貢懈緩の基たるべきか。
地頭得分の内を以てその沙汰を致し、敢えて百姓を煩わすべからざるの旨、面々に仰せ含めらるべきの由と。

さらに
故に小笠原氏は鳥坂城を本拠として府内の城ノ内に屯在したと見るが至当であらう。当時の守護は上皇のお世話掛りである。之れが爲めに新殿を御造営し奉るとしても先づ國分寺にお入りになるものである。
「土御門院奉祀地問題」より

まず、到着が「国府」であることを既定とし「敢えて百姓を煩わすべからざる」を鑑みるならば、逗留地は「国分寺」これ以外には考えられないというのが、この説の要旨となります。




あるいは、この地図内のいずこかに御在所を設えたやもしれないという説ですね。

3.ご崩御の際の火葬場所について
この部分を「土御門院奉祀地問題」より提示いたします。


次に残されたる問題は御火葬場であらう。古来古墳築造は普通は其常住地より程遠からぬ 所に葬るが原則らしい。仮令上御一人の上皇にても、何んの理由もなきに遠隔の地まで其御遺骸を運び御火葬申す其理由の発見に苦しむ。必ずユカリあるべき所でなければならん。其候補地点に好適の理由がない。堀江村のは考証學の幼稚なる時代の明治当初、其筋より下問に封する答案の地形が荘厳とか、荷馬のスクムとの事に依りて決定せしものなれば別に確実なる史料がない。彼れが前方後円墳はすでに明にして神社名丸山がすでに古墳を意味する。行宮附近に御火葬場はなければならん。昭和十一年「早淵の御墓に就てー土御門上皇御火葬場候補地」と題して徳毎紙上で書いたことがある。近藤辰郎氏の「國府町史資料」の早淵の御墓を以て擬したことがある。 
御墓(名東郡再調帳抄·原文)
氏宮(早淵)新宮大明碑より東南の方二丁程隔て御墓といふ有この中のなるは高さ五尺計幅三尺餘又は四尺餘のものありて数三つ有ゆへ三墓か又は御墓の意が定めがたし。いづれも割石にて仏像且は蓮台杯も少し見れども多く損して完成らず。十ヶ年ばかり以前に二統大明社と祭る。因み此御墓は何人の塚とも知らぬ。



そして、下の写真が国府町早淵の「新宮神社」

で、ここから東南の方二丁程隔てて「御墓(みはか)」が「あった」と言うのですが。
東南の方二丁って現在はこんなところなんで…
はっきり書いておきますが「御墓(みはか)」は痕跡すらありません。
何日もかけて歩き回ったヤツがそう申しておりました(笑)


上記昭和十五年の「土御門院奉祀地問題」でも、現在はないとの記載が見られ、いまとなっては…というところです。
また国府町史史料においても、誰の「御墓」であるか不明であるとの記載です。
これじゃあ、と思ってしまうんですが、ちょっと古い記事ですが
2011年11月6日
「もうひとつの土御門上皇伝説」
2011年12月25日
もうひとつの土御門上皇伝説(追記)
で書かせていただきました。
 石井町「御瀧神社」


土御門上皇が火葬に附されたとき、そのお骨を狙って追われ、お骨は御付の者が背負い
ここまでやってきたが力尽きてこの神社のある木の株の根元に埋葬し追っ手には遂に
渡さなかった。
西へ向いて少々階段を上ると左側に地神社がある、その横を南に行き自然石の石段を
西に一間位上がると東向きに板碑や刻まれた石塔がある。
この南側に朽ちた木の株がある。
御代若君の墓として残っている。

石井町の民話か伝承に記載されていたはずです。
これがなければ早淵の火葬場などとは一笑にふすべし話なんでしょうが、前に見つけちゃってたんでねぇ…。
と、言うわけで確たる証拠は出てきませんでしたが、謎の多い土御門院奉祀地を更に混ぜ返そうとの意図でこんなの書いてみました(笑)

概括すれば阿波國に行くとは其國府に行く事。
守護職は國府を離れられぬ。
國分寺存在なれば此所が行宮であると推定する。
「土御門院奉祀地問題」より


おしまい

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