千葉県館山市に鎮座いたします、式内社(名神大社)、安房国一宮である「安房神社」がございます。
千葉県館山市大神宮589、場所はここ。
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Wikipediaを見ますと
安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市にある神社。式内社(名神大社)、安房国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「大神宮」とも。神話の時代に阿波国より渡ってきた忌部氏による創建とされる。
大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、開拓したとされる。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸、その周辺を安房郡と名附けて天太玉命を祀る社を創建した。さらに続けて、その社が今は安房社と呼ばれており、神戸には斎部氏が住んでいると書かれている。
館山市布良(めら)にある布良崎神社の『郷社布良崎神社略誌』では、天富命は上陸した房総半島南端の布良にある男神山へ天太玉命、女神山へ天乃比理刀咩命を祀り、その後さらに上ノ谷に天太玉命、下ノ谷に天忍日命の仮宮を建てたのが当社の「上の宮」と「下の宮」の起源だとしている。やがて布良を出発点として半島開拓を進めた天富命は、宮ノ谷(みやのやつ)に「太玉命ノ社」(当社)を創建したのだという。『安房忌部家系之図』によれば、養老元年(717年)に布良から西へ数百メートルの現在地に遷座し、同時に天富命を下の宮に祀ったとしている。また、周辺の地は神部とされ、全国八神郡の一つとなった。『新抄格勅符抄』によれば大同元年(806年)に神封94戸が充てられ、さらに10戸が加増されている。これについて、神郡が定められたのは大化5年(649年)で、その後当地は『和名類聚抄』にある神戸郷に属することになったのではないかと推測されている。
安房神社の公式HPを見ても
■ 神代
安房神社の創始は、今から2670年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。
その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。
とあり、往古阿波忌部が房総半島へ進出し、この神社を創建したことは間違いありません。延喜式神名帳にも
安房坐神社とあり(読み方は「あわのざ」もしくは「あわのいます」神社と思われる)
安房(阿波)に坐する、つまり阿波から移された神社であることが社名に表されております。
また上記「神名帳考証」にも「阿波忌部所居便名安房郡 今安房國也」と記され、安房国が阿波より派生した国名であることを示しております。
でも、阿波からやって来たと云っても、阿波國結構広くて漠然としております。
忌部だから麻植近辺だろうとは想像できますが。
で、調べてましたら(何を)出てくるもんですねえ(何が)。
安房神社の元社。
山崎村神社記より、画像は見やすいように2ページを併せてあります。
原本の画像が欲しい方は仰って下さい。
じらしても面白くないのであっさり書いてしまいます。
山川町岩戸に鎮座いたします「岩戸神社」
舊伝曰当社上代安房国安房郡安房神社御迁(遷)座具古社也止(と)伝
前後しますが場所はここ。
より大きな地図で 岩戸神社 を表示
社伝は御覧の通り「安房神社」と比べたりしてはいけません(笑)
にしても、阿波忌部は「ここから」黒潮に乗って房総半島まで進出して行ったのです。
そのスタート地点が「ここ」なのです。
このように、神代忌部の旧跡が残る「聖地」でもあるのです。
あ〜久々にブログ書くと、肩が凝ってしゃーないです。
なので、内容はあんまり「ないよ〜」。
大爆笑!!!して下さい、すいませんけど(涙)
お久しぶりです。
返信削除ここ、調べていました。ありがとうございます。
道標にしますね。
阿波から安房へ、そして東北へ!
なんて、頑張っていましたら、
佐伯さん達に連れられ摂津へ。
はい、返り討ちです。
偶然のタイトルに感謝と感動です。
ご存知でしたら失礼になりますが
削除東京都の神津島に「阿波命神社」があり、そこが第一の到達地と思われます。
http://goutara.blogspot.jp/2010/12/blog-post.html
http://goutara.blogspot.jp/2011/09/blog-post_09.html
続いて
布良の布良崎神社(めらさきじんじゃ)から官幣大社安房神社へ
http://goutara.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html
そして
関東から
http://goutara.blogspot.jp/2012/03/blog-post_10.html
東北へ....
以降がまだ書けてないですぅ。
でも、我ながら、よくこれだけ書いたなって思いますね、呆れてしまいます(笑)
なんと明確に足跡を記しておられるのでしょう!
返信削除この国を拓いていった先人たちの姿を想像すると感動します。
といっても、2,000年のコロッセウムや2,500年前のパルテノン神殿が堂々と歴史を語っていることと比べたら、ほんの1,500~1,600年程前の歴史がまるでおとぎ話のようになってしまった日本史がヘンなわけで。
神社や古墳たちが“ホンネ”で語り始めるのはもうすぐ、ですね。
わくわく、楽しみにしています。
すんません、ダウン寸前でコメできませんでした。
削除確かにこれだけの足跡があるのですが、安房の人たちの意識が薄いのが残念です。
どこかのブログに阿波命神社(だったかな)のことを
「阿山は大きな山の意味だが阿波というのは大きな波の意味だろうか」
などと意味不明の文を見かけたことがあります。
わざとかな?
まあ私だって幾度となく安房と聞いても、阿波とつながりがあるとは思ってもみませんでしたから、まさか!でしょう。
削除大きな波はちょっと…ですが。
これからこれから。
そのうち、日本中で競うように“ルーツは阿波だった”という騒ぎがおこるようになるでしょう。
そのためにも御身ご大切になさってくださいね。
でも、幼少の砌(笑)なんで安房(アワ)って同じ呼び方するんだろうとは思ってました。
削除これはマジです。
あと山城とか大津とか海部とか、那賀と那珂とか。
徳島の子供は結構不審に思ってるんじゃないですかね。
素人の興味と疑問です。
返信削除なぜこんな離島に第一歩を・・・・
偶然に辿り着いたのならなぜ通過しなかったのか。肥沃な土地を求めてなら何が良くてここに拠点を置いたのか。
初めからここを目ざして来たのなら何があったのだろう・・・
こんな疑問を解明する資料なんかはないのでしょうか。
歴史に必然を求めるのが無理なのでしょうか。
素人の雑学的な知識では神津島が黒曜石の産地でももう鉄器時代になっているのだから関係なさそうだし、海の幸が豊だというだけではわざわざここを選ぶには理由が弱そうです。
変な質問をして済みません。
まあ、ホントの所は分らないんでしょうけど、ボクは偶然だと思います。
削除一旦辿り着いたら次の場所に行くには準備が要りますしね
しばし体勢を立て直してってところじゃないでしょうか?
いきなり安房方面に行きたかったんだと思いますよ。
或は第二陣、三陣のための中継基地だったのか。
あるいは太平洋に乗り出したかったのか。
お久しぶりです。足跡があったので寄らせていただきます。
返信削除忌部は、元々は職業であった訳で、氏族としては、徳島から千葉に人々が
移動したとすると、長国造家と粟国造の一族が移住したと見るのが現実的
かと思います。
天富命は天富貴命(あめのふき)とも言いますよね。和泉国和泉郡 泉穴師神社二座
の神主家は、安房神社の神主家岡島家と州宮神社の社家小野家と同祖の系譜を持ちます。
要するに、天日鷲命の系譜とは違う人たちです。
では、天富命はどこから来たのか?
和泉国和泉郡にも同族が移り住んでいます。長国は、阿波国那賀郡になりますが、那賀郡には、和泉郷があります。
長国造家は、紀伊国の那賀郡にも移住しています。那賀郡の郡司は長国造の
子孫がなっています。日置首は普通忌部と捉えられますが、紀伊国那賀郡に
おいては、
紀伊国那賀郡人右大臣家令兼主殿権充日置首永津、弟掃部少属正八位下日置首今津、賜姓菅原朝臣。天穂日命之後、与大江菅原秋篠朝臣同祖也。
と富家(出雲臣)の出自なんです。
出雲の日御崎神社の神主家小野家は、天葺根命(あめのふき)を祖としていて、
中世には日置と名乗っていましたが、出雲姓でもありました。
類聚三代格には、
假令ば飛鳥神の裔、天太玉(太玉命神社)、臼瀧(飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社)、賀屋鳴比女神(加夜奈留美命神社)四社
とあって
太玉命は飛鳥神=事代主命の子孫と伝えています。
事代主は、富家の人です、富家の系譜では、天葺根命の子が事代主命なんですよね
わたしは、安房神社は、土着系出雲臣(富家)の神社だと思います。
ごぶさたしております。
削除いつもながらの博覧強記に感心することばかりです。
>長国造家と粟国造の一族が移住したと見る
これは同意見です。
天富命については、まだまだ勉強が足りないのを自覚しておりますので(笑)意見は差し控え背させていただきます。
が、確かに天富命についても、太玉命についても単に忌部の祖と言われているだけで、非常に引っかかるものがあると思います。
ただ、事代主は、富家の人というところは個人的には?です。
事代主は鴨氏であり、安来市には賀茂神社あることから出雲神、つまりは富家の人であるという説は承知してますが
天日鷲命の子に大麻比古神がいます。この式内大麻比古神社の神「大麻比古神」は阿波では古来「猿田彦神」と言われてきました。
賀茂一族系図では猿田彦神の別名を「都美波八重事代主」と書いていますが、その伝で言えば、天日鷲命は大国主命だと言えるというのが、いわゆる阿波説の一部ではあるんですが。
また伊豆沖の神津島に阿波命神社があり、安房神社に先立って阿波忌部が進出した形跡が「三宅記」などにも見られます。ここから布良崎に上陸したのは間違いないと思われますので、安房神社に何らかの関連があってもおかしくないと思うんですが、いかがなもんでしょうか。
コメント失礼します。
削除大麻比古神社の大麻比古神と猿田彦神についての話は???です。
事代主命を祖とする長国造家の系譜や富家の系譜には、大麻比古は
出てきませんし、そもそも徳島の二つの国造の一族の氏族比較に、
奈良の三輪高宮系図ではなく長国造家の系譜と粟凡直の系譜で見る方がいいと思います。
事代主が富家の系譜であることは、富家の最も根本的な言い伝えです。
出雲における事代主神や富家について、興味を持たれると阿波との関連で
大変面白いと思います。(土師連なども実は事代主の末裔)
(古代弾圧された出雲族は、保身を図って穂日の裔と系譜を変更して
いますが、ほとんどが事代主か大名持の末裔です)
事代主命を祭る出雲の風土記神社には、美保神社と筑陽神社、揖夜神社
などがありますが、安来の賀茂神社には、事代主は祀られていません(神武さん。風土記社でもない)。美保神社は元々は富家の神社でした。
安房神社は、太玉命の末裔、長国造の一族の神社。
布良崎神社は、天富命を祀っています。日鷲系ではないです。
天日鷲命の末裔は下立松原神社の高山神主家(由布津主の後)
。不思議なのは、松原臣は、高屋神社の高橋氏と同族なのに日鷲系が
神主。
安房神社の岡島神主家は、太玉命、天富貴命の末裔であって、天日鷲命や大麻彦命の男系の末裔ではないんです。
安房国造は、出雲臣がなっていますしこの点でも符合します。
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14629295.html
和泉国和泉郡の式内社に、粟神社(太玉命)と和泉穴師神社(天富命)
と阿波と安房にかかわりのある神社があって、地名と古代豪族の
移動は一致する事から阿波国那賀郡和泉郷からの鎮座とするのが自然かなと。粟国側が天日鷲系、長国側が天富系。
素人の感想です。
削除阿波に生まれ育ったものにとって大麻彦神社の由緒書きに書いてあるから無条件で信じていたことが全国区からすると???なのは興味深い事です。
のらねこさんやぐーたらさんの記事を読んでいるものにとってこのあたりの???がかみ合わないのは目に見えています。
阿波説はオリジナルという観点でしょうから資料の信ぴょう性ついて語るのでしょうか。
阿波説からすれば全国区の高天原が???なのだから???の枝葉の部分について論争してくれてもあまり面白くないなあ・・・
阿波から行ったのかあるいは阿波に来たのかこのあたりから論争してくれると面白そうだなあ。
資料の信ぴょう性よりもこのあたりの整理のほうが先じゃないのかなあ。
このあたりで論争してくれれば阿波説が全国区に乗り出すきっかけになりそうで楽しみです。
非常にコメント遅くなりまして、失礼いたしました。
削除鳴門の土人さんも仰るように、ローカルな由緒書きや口伝が、他地方の由緒と合わないことは承知の上で書いてます。
全国区主流から言えば山崎村神社記の岩戸神社由緒などは検証にも値しない世迷い言であると見られているのでしょうね。
ただ阿波ベースとしての視点で考えた時(大麻比古神社由緒であるとか)全国区の主流意見のニッチなほつれが見えてくるのもあると考えてます。
その辺りの延長として事代主や大国主の本地を考えて行こうと思ってますが、こんなペースですので(笑)