2012年2月8日水曜日

桃太郎とその仲間たち(2)

桃太郎とその仲間たち(1)からの続きです。
で、桃太郎は吉備津彦命であるとの前提から始めたんですが、これは岡山の吉備津神社
方面の伝承からでして、香川県側では吉備津彦命の弟である「稚武彦命(わかたけひこの
みこと)」であり舞台は香川県高松市女木町つまり「女木島」です。よく鬼が島と言われて
ますので四国の人はよく知ってると思います。

つまり兄弟のいずれかが「桃太郎」ということでいいですかね。
そして、どちらも孝霊天皇の皇子でいいですね(確認)。

そして
吉備津神社縁起物語によると、吉備津彦命が、犬飼部の犬飼健命(いぬかいたけるの
みこと)、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命
(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅(うら)を倒したとされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣= 雉」となるとする説がある。Wikipediaより

そうです。
犬飼部に関しては明治期の政治家である犬養 毅(いぬかい つよし)が犬飼部の犬飼健命の
子孫であることは有名です。
吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫であるそうです。

鳥飼部は鳥取部の長に留玉臣の名が見られるようですので、あるいはこれかもしれません。
吉備に鳥飼部はいなかったという説もあるようですので。
鳥飼部は無かったと言う意味ではありません。
「日本書紀」雄略天皇記に鳥飼部の記述がありますので。

で、「猿飼部」なんですが、どうも猿飼部という部はなかったのではないかとおっしゃる
方もいてはっきりしません。
では、讃岐近辺で猿の名の付く有名人は?

讃岐坂出に「武卵王(たけかいこのみこ)武殻王」の伝説が残されています。

景行天皇の御代、南海に大魚が居た。常には土佐の南の海に居るものの、時に、阿波
讃岐、伊予の海上に出没して、波を起こし舟を覆し、舟を呑み人を食うこと数知れず
人々は大変に難儀をした。
 
このことを朝廷に奏上するすると、朝廷では播磨武人(はりまのたけお)に討伐を命じたが
彼はこの役目を皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に譲った。皇子は吉備の穴海に至り
ここで兵船を整え、火攻めの具を用意し、大魚の動静を探りながら待ち受けていた。
この間、吉備武彦の娘穴戸武媛(あなとたけるひめ)を妃に入れ、やがて、媛は武殻王
(たけかいこのきみ)(武卵王)を生む。
 


景行天皇の二十四年八月、待っていた大魚は鳴門より瀬戸内海に入り、翌二十五年三月
には遂に讃岐の海上にやって来た。
皇子は壮士八十人と共に大船に乗り、猛火を中に潜めた小舟に大魚を誘う。
この小舟を呑み込んだ大魚は腹の中が焼けて死に、福江浦に漂着するが、八十人の兵たち
はその毒気に触れて生気を失ってしまう。
そこに、一人の童子が来て清水を献じ、こによって兵たちは蘇生する。
 
かくて皇子は都へ帰るが、帰るに当たり、穴戸武媛が生んだ武殻王を讃岐に留めて
讃岐を守らせた。
このため、武殻王は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。
王は百二十五才にして薨じた。」(栗田寛:新撰姓氏録考証による)


讃岐の国、猿王の地に残される「讃留霊王伝説」ですね。
場所はこの辺り、猿王北、猿王南、讃留王西などの地名が見られます。

大きな地図で見る

えー、写真は「のらねこ大師匠」よりお借りいたしました。
「讃留霊王伝説」について詳しいことは
倭建命と讃留王よりどうぞ。ここよりよっぽどためになりますです、はい。



讃留霊王御陵 と彫られた石碑

で、何が言いたいのかというと
吉備津彦命の弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)が讃留霊王ではないか
ということです。
これは、讃岐の人のブログにもあって「?」と思ってたんですが、つらつら考えるに
やはりそうではないかと思い始めました。

分ってますよ、変でしょ、時代が合わないでしょ。みなまで言うな。
吉備津彦命と稚武彦命は孝霊天皇(紀元前342年- 紀元前215年3月27日)の皇子で
讃留霊王こと武卵王(または武殻王)は日本武尊(72年頃–113年頃)の皇子。

にもかかわらず、やはり主張してしまうんです。
その理由は。

次回に続く(わーお)

8 件のコメント:

  1. 年代の問題かぁ 
    初代神武天皇の即位が紀元前660年とかですよね?
    そもそも、そっから「ありえねぇ」ってなりますからねぇ
    紀元前に神話のような文化があるはずないし・・・
    ぐーたらさん! 期待しますぜっ
    「欠史八代」か「欠史十代」で年代逆算で迫るか、
    はたまた違うアプローチで年代を合せるか楽しみい~♪

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  2. to たろさん
    あざーす。
    こんな記事なんでコメゼロかなって思ってました(笑)
    >紀元前に神話のような文化があるはずないし・・・
    へへへ、でもね八倉比売神社の社伝は「而後経二千百五年而到小治田御宇」
    603年(推古11年)の小治田宮の造営より2105年遡るってあるんですぜ。
    また紀州の名草戸畔(なぐさとべ)は4000年前に九州から渡って来て神武天皇軍を
    退けた記録があるそうです。
    面白いでしょ。

    では、年代合わせに頭をひねってみますか(今からかよ(笑))

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  3. ああっ ソレソレ! 社伝はオレも読みました~
    オレは性格ひねくれてるので「石器時代に銅or鉄と思われる神話の鉾、剣があるわけねぇ」ってのが基本になってまして・・・。
    社伝は読むけど、大抵年代はスルーしながら読んでますw
    紀元前の出土品で石器以外の剣や鉾の出土ってありましたっけ?
    世界最古の土器とかってのはあったような・・・
    申し訳ない・・・勉強不足のためココで勉強させてもらいますorz
    話は変わりますが、カキコupの時間表示がヘンなのは何故?w

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  4. to たろさん
    紀元前かどうかと言われれば微妙ですが「天目一神社」に祀られる天目一箇神は神武東征に従った鍛冶の神様でやんす。
    以前の記事ですが。

    http://goutara.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html

    弥生以前の矢野遺跡から鉄製の鏃などが出土してるのは間違いないし
    その伝で言えば神武軍が鉄剣を持っててもおかしくは無いような気が
    したりしなかったりね。

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  5. あ、タイムスタンプは変ですね。
    Googleオジサンに文句を言ってみます。

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  6. ぐーたら先生。大変興味深いご意見、ありがとうございます。

    4千年、2千年前の日本のアレコレ。
    そのころから、何か文字になっていたモノが、あったのか、なかったのか。
    それさえ、霧の中ですもんねぇ。どーなんですかねぇ。

    実は、私的日本史の中のキーワードに「双子」。が、あります。(おバカでしょ?)

    日本武尊と景行天皇の、系譜が随分だぶってませんか?(私だけ?)
    あー、さっぱり、わかりません!

    次回も楽しみにしてますね!(わーお)

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  7. to babymamaさん
    うっ!鋭いですね。次回の書くのヤメよかな(笑)
    「双子」というか、神名などは、役職名(官名)とか族名だったとしか
    考えられない場合がよくあります。
    また、重要人物は「双子」とか「兄弟」またまた「影武者」(笑)などが
    同一視されてる場合もけっこうありますので。
    babymamaさんの指摘は鋭いと思いますよ!

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  8. 設定触ってみたけど、タイムスタンプやっぱ変だわ

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