2011年12月18日日曜日

お亀磯の伝説(追記)

なんという以前の記事の追記を書いとるんでしょうか。
今年の一月に書いた「お亀磯の伝説」の事です。
絶対に忘れてるでしょう、書いた本人が忘れてるんですから。
また県外の土地勘の無い人には理解しにくいでしょうが、ま、ごめんなさい。

前のは上のリンクからもう一回見てもらうにして、めんどくさい人は、あらすじを
書いておきます。


お亀千軒(かめせんげん)の狛犬(こまいぬ)
徳島市の津田川河口から4キロメートルほどの沖に、お亀千軒という大きな島があったといわれている。1000軒もの漁師が住み、よく働いて平和に暮らしていた。島の鎮守の森に「ししこま」と呼ばれた狛犬があり、その顔が赤くなると一大事が起こるという古くからの言い伝えを誰もが信じていた。
ある日、ひとりの怠け者がいたずらをしようと、ししこまの顔を赤く塗りつぶした。赤くなった顔を見つけた島の人たちは大慌てで島から逃げ出して、残ったのは怠け者ひとりだけになった。すると、空が曇り、雷が鳴り、大きな音をたてて、あっという間に島は海の底に沈んでしまった。
お亀千軒があったという海上には、引き潮の頃になると、山の頂上だったところが亀の甲羅のような形をして波間に見え隠れするといわれている。
「探そう!とくしまのたからもの」から引用


で、この時島にあった神社の御神体が流れ着いたのが、福島の四所神社の起源だとも
言われております。これも以前の
「徳島市「四所神社」秋祭」


「四所神社」
主祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)
斎主(いわいぬし)神 比売(ひめ)神
由緒
旧阿波藩主崇敬社にして、もと大亀島に鎮座していたが、大同年間(九世紀はじめ)に
当所に遷座、明治三年郷社に列格。
「寛保改神社帳」に「福島四所大明神 神主福島榊本頼母」とある。
又「阿波名勝案内」に「四所明神福島町にあり、元津田沖合一里の海中にあり、文禄
中沈没したるお甕(かめ)に在りしを、地変に先立ち船に載せて此に至り祀ると称す。
文禄三年か、しかし大地震の記録なし。いわゆる伝説か、口碑の伝うる所は、島中
神社あり、狛犬の面赤らめばこの島滅亡なりとの予言事実となりて現れ、正直なる
島守の家族は、予言を信じて危難を逃れしも、村民の多くは、之を信ぜずして溺死
したという」とある。
「福島の明神さん」として親しまれ、祭礼は大そうにぎわう。
徳島県神社誌より


とか書いたりしてます。
写真は四所神社
じゃあ、何の追記があるんだよぉって事なんですが。
この「お亀千軒」どうも島ではなく地続きであったようなのです。

まずは宝暦七年「阿波記」
古老伝云、往古ハおかめ千軒とて、王御子より今海中のおかめと云岩迄、山相続、千軒の
浦也けると也

「王御子(おおみこ)」は現在の「大神子(おおみこ)」のこと、この記載だけでも別の
意味で唸ってしまいますね。

「阿州奇事雑話」
其昔足利公方御治世の末、勝浦郡小松島浦の沖手に今の御瓶と云碆の邊南手に地續にて
其比ハ御瓶千軒とて繁昌の浦邊にて蛭子か宮を氏神として祭りしに・・・
以下略

最後に「阿波志」(原漢文)
龜磯。津田港口の南岸を距ること一里許りに在り。俗に御甕と呼ぶ、昔は漁村たりき
文禄中に海嘯ありて淪で海と為る、民福島の築地に移れり
「龜」とありますね。
どうも現在の大原町大神子から地続きの岬(?)か磯があったようなのです。
すっげえ、へたくそな地図を書いてみましたが、てきとーですのでイメージ程度に
思って下さい。


より大きな地図で お龜磯 を表示

これが「海嘯」つまり津波によって壊滅したということです。
これがどうも「太平記」にある「大地震附夏雪事」の事件のようなのです、これが。


中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云浦ニハ俄ニ大山ノ如クナル潮漲来テ、在家一千七百餘宇悉引潮ニ
連テ海底ニ沈シカハ、家々ニ有所ノ◯俗男女牛馬鶏犬一モ殘ラス底ノミクズト成リニケリ

とあります。
一般的にはこの「雪ノ湊」現、徳島県海部郡美波町由岐地区とされておりますが
「平家物語」には「平 維盛(たいら の これもり)」が屋島を出て、阿波の国雪の浦より
鳴戸(原文まま)の沖をこぎ渡る旨の記載があり、鳴門より数十キロ離れた美波町由岐の
事とは考えられないとの考証が徳島市郷土史論にもあり、ワタクシめもこれに同調する
ものです。

これが「そう」ならば、往古、今の大神子付近から突き出た岬に沿って「雪の湊」が
存在し、千七百世帯の漁村があり、岬の先には「お龜磯」があり、蛭子神社があった
ということになります。
これが一瞬の津波により「男女牛馬鶏犬一モ殘ラス底ノ、ミクズ(御屑)」となり
蛭子神社の御神体は福島まで流れ着いたのです。

で「それ」が起こったのは日は、詳しい説明は省きますが、阿波志には文禄中(1592年
から1596年まで)とありますが、やはり正平十六年の南海地震と思われます。
ならば、正平十六年六月十八日、現在の暦に当てはめれば1361年7月20日となります。

この時の南海地震は正平16年6月18日〜25日頃まで続き6月22日には摂津国難波浦に大津波
が押し寄せ、死亡者数百人、7月22日には大地震が発生し難波浦から大津波が押し寄せ
四天王寺の伽藍を破壊しております。

「太平記」には
難波浦ノ澳ヨリ、大龍二浮出テ、天王寺ノ金堂ノ中ヘ入ルト見ケル
とあるようで、恐ろしい風景が眼に浮かぶようです。


ここらまでくれば余談の範囲になっちゃいますがね。
まあ、お亀磯の伝説の追記ということで記載しておきます。

今回は文字ばっかりだし、読みにくいし、地味だし、あんまし受けないかな(苦笑)

3 件のコメント:

  1. 私が祖父から聞いた話では、その島の頂きには、ゑびす神社があって、そこには、剥製の鹿の首が飾ってあった。その鹿の顔が赤く変じた日には、島は海に沈んでしまう。言い伝えを固く信じていたお婆さんが毎日欠かさず鹿の首をチェックしに来る。いたずら好きな若者がお婆さんを驚かせようと、鹿の顔をべんがらで赤く塗ったら、本当に島が水没してしまった。私の祖父は、昭和十年ごろまで、徳島阪神航路の海運業を営んでいたので、「船を上から、水没した千軒の家の屋根が確かに見えた」などという尾ひれが話の最後に付け加えられていた。その祖父が海運業者の守護神として深く尊崇していたのが、福島四所明神と小松島の金磯弁才天でした。神社に鹿の首の剥製というと、奇妙に思われる人もあるかと思いますが、実際に鹿の首の剥製が祀られている神社が我国には一社だけあります。信州の諏訪大社です。この写真を見よ! 諏訪大社の御頭祭は、明治以前は、子どもを生贄にささげる真似をする奇祭だったそうです。八歳ぐらいの子どもを寝かせて、神官がその子の胸に短刀を突き刺そうとした瞬間、別の神官が走りよってきて、「待て、待て! 鹿の首、七十五頭分を代わりに奉納するから、それで勘弁してやってくれ」とか何とか言って、子どもを解放して、神社の境内に鹿の首、七十五頭分を並べる、という、無茶苦茶な奇祭だったらしいです。福島四所明神の祭神はね、遠い昔、政治的配慮によって、すり替えられているんですよ。本来の祭神は、諏訪大社と同じ、建御名方命、八重事代主命、八坂刀売命(お亀が磯のお婆さん?)だったはずです。

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  2. お亀が磯伝説によく似た説話が『今昔物語集』にあります。巻第十の第三十六話「嫗毎日見卒塔婆付血語」です。「今は昔、震旦の----代に、----州という所に大なる山有り」という書き出しで始まり、震旦(つまり、中国)での出来事であるとされていますが、時代と場所が空欄のままです。あとで正確なことが判明したら、記入しようと思って空欄にしていたところが、判明せずじまいだったのでしょう。あるお婆さんが毎日欠かさず、山の上にある卒塔婆を見に来る。もし、卒塔婆に血がついていたら、この山は崩れて、深い海になってしまうという言い伝えを信じて、雨の日も、風の日も欠かすことなく、チェックしに登ってくるのです。それを見ていた悪戯者が卒塔婆に血を塗りつけたところ、。。。(以下、お亀が磯伝説とほぼ同文)です。実は、お亀が磯伝説に類似した説話は、中国、朝鮮半島、日本の各地に広く伝わるものであり、阿波に限った説話ではないのです。よく知られているところでは、安徽省の歴陽湖伝説です。石亀の目が赤くなったら、村が水没して湖になる話は、『捜神記』(岡本綺堂訳)にも出ています。中国、ベトナム、台湾で領有が争われている西沙諸島(パラセル諸島)にもお亀が磯型の伝説が伝わります。このことは、長谷川@望夢楼さんの『幻想諸島航海記』に教えられました。しかし、いたずらに類例を列挙してみても詮のないことであり、重要なのは、その説話の発信源がどこであり、いつの時代のことなのかを突き止めることにあります。再び、『今昔物語集』に話を戻しますが、巻第十の第三十五話に「国王、百丈の石の卒塔婆を造りて、工を殺さんとする語」というのがあります。第三十六話と同一の取材元から得られた記事と思われます。その国王、職工が他国にも同様の卒塔婆を建設したら、自国の不利益になると考えて、卒塔婆が完成したとき、その職工を殺そうとした。しかし、その職工の妻が賢い人だったので、その入れ知恵により、難を逃れた、というお話です。この話からすると、その当時、中国には統一王朝がなかったことになり、どうやら、春秋戦国時代の出来事であるらしく思われます。その国王とは、私が思うに、おそらく、秦王政です。『史記』にこんな話があります。秦王政は、韓の水利技術者、鄭国を雇って、渭水の上流にある支流涇水から、渭水の下流にある支流洛水に至る灌漑用水路を造らせる。(鄭国渠略地図)しかし、その鄭国、韓王が秦に無駄な大工事をやらせて、秦の国力を弱めさせよう企てて、秦に送り込んだ間諜であることが発覚し、秦王政は、鄭国を処刑しようとする。そこで鄭国は、弁明する。「この工事は、決して無駄な大工事ではない。完成すれば、秦に莫大な利益をもたらすことになる」 秦王政は、鄭国の弁明を聞き入れ、工事を続行させた。この鄭国渠は、1985年の調査で、涇水を堰き止めていたダムの遺構の一部が発見された。(鄭国渠ダム堰堤残蹟)堰堤の全長2300m、幅120m、総貯水量1500万㎥と推定された。比較的浅くて、広いダム湖だったのです。(鄭国渠ダム推測復元図) このダムは、赤土と石だけで築かれていたのであり、毎日、保守点検を怠りなくやっていても、いつかは崩壊する日が来るのを設計者鄭国は、知っていただろう。「石垣の隙間から赤い水が漏れ出てきた日には、もう手遅れだ。それは、堰堤内部に空洞が生じて、水が浸透している証拠であり、もう補修もできない。大洪水が涇水流域の村を呑み込むことになるから、すぐに高いところに非難しなさい」そんな遺言を残して鄭国は、亡くなったのではなかろうか?おそらく、鄭国の墓は、このダムの堰堤の上にあったと思います。私が鄭国の立場であったなら、必ず、そうする。自分の死後、ダムの崩壊によって、大惨事が発生する。それが気がかりでならないからです。なんとしても、最後までダムの崩壊を喰い止めたい。食い止めきれなかった場合は、自分の墓も洪水に流されて跡形もなくなるだろう。ああ、それでもいい。。。 そんな鄭国の最期の痛切な思念が私の胸には、伝わってくるようです。

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    1. また、長文のコメントありがとうございます。
      諏訪大社の御頭祭は存じております。
      本来の祭神が、諏訪大社と同じ、建御名方命、八重事代主命、八坂刀売命であり、それが今は主祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)
      斎主(いわいぬし)神 比売(ひめ)神であるのは、やはり中臣の影響ですかね。
      ただ、祭神を隠す目的が、私にはちょっとピンときません。
      「史記」による秦国渭水伝承は阿波国の渭水と繋がるものなのでしょうか?
      あるいは徐福の系に繋がる波多氏、始皇帝没落後、秦氏として倭国に流れ、越智氏となった一族との関連はあるのでしょうか?

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