2024年10月27日日曜日

考察:阿波三国説(中)

 考察:阿波三国説(上)

の続きでございます。

改めて「郡里廃寺跡」の説明をwikipediaより。

郡里廃寺跡(こおさとはいじあと)は、徳島県美馬市美馬町銀杏木・願勝寺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。

概要
徳島県西部、吉野川中流域北岸の扇状地に位置する。古くから「立光寺(りゅうこうじ)」という寺院の跡地として伝承されたが、国史跡指定時に「郡里廃寺」に改称された。1967-1968年度(昭和42-43年度)および2005年度(平成17年度)以降に発掘調査が実施されている。
伽藍は法起寺式伽藍配置で、金堂を西、塔を東に配する。徳島県内では最古級の寺院跡になるとして注目されるとともに、旧美馬郡域に限定的に分布する段の塚穴型石室の古墳の存在を考え合わせて、段の塚穴型石室の古墳を営造した有力豪族が美馬郡の郡司氏族になるとともに氏寺として郡里廃寺を営んだと考察可能である点で、重要視される遺跡である。
寺域跡は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定されている。

2024年10月現在この看板は立っておりません。

1967年から発掘調査は始まっておりまして、一応報告書など貼ってみます。

ぜんぶ貼ってたらそればっかりになるので第3次と9次あたりから。





蕨手文の鴟尾(しび)も出てきてるようです。


さて、この「郡里廃寺跡」こと「立光寺(りゅうこうじ)」出土瓦の分析より「白鳳時代」建立が確定視されておりますが。法隆寺並の規模であり、五重の塔であったことも判明しております。





白鳳時代が大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都までとされておりますので、法隆寺建立と言われている607年から40〜60年程遅れて建立されております。

で、思い出してほしいのが、前回の「段の塚穴古墳群」なんですが、築造が古墳時代後期、大半の石室が 6世紀後半の築造、つまりは西暦570年以降辺りで最新の古墳は7世紀築造のものもあるようです。

つーまーり、「段の塚穴古墳群」から「郡里廃寺跡」こと「立光寺」まで百年経ってないんです。
もし仮に、和銅6年(西暦713年)に出された勅令「諸国郡郷名著好字令」によって「粟国」と「長国」が「阿波国」の同一名称で呼ばれるようになったとすれば「美馬国?」もこの時統一されたの、かも。
まあ、妄想ですけど(笑)。
ただ、白鳳時代の阿波の古刹を見てみると

大野寺 (阿波市)
天智天皇の勅願により、同天皇2年(663)に現寺域の東方、大野島御所ノ原に創建された。その後、平安初期に嵯峨天皇の尊崇を得て、七堂伽藍が整えられた。

隆禅寺(阿南市)
天智天皇の勅願により、673年(白鳳2年)に創建。
白河上皇が霊夢を感じ、京都の東寺の名僧であった長範僧上に命じて、廃絶していた隆禅寺を再興させ、後の後鳥羽上皇の時代に源頼朝が先帝勅願の名跡を再興しようと尽力したと伝わる。

見事に「粟国」と「長国」を代表する場所にあるじゃないですか。
これを以ってして「阿波三国説」の傍証に・・・
ならないのは分かってますよー(笑)。
でも、こういう意見もあるんです。(徳島県立博物館紀要)



また

ともあり、阿波独自の氏族集団であろうかと。

で最後に・・・
と思いましたが、またまた長くなりすぎたようなので(下(最後))に続く。

あーやっぱ見えねーや




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