2020年5月2日土曜日

「ヤマトタケル」って誰?(4)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)

非常事態宣言でご不便の折、いかがお過ごしでございましょうか。

続けます。
阿南市史の編集者でもある、郷土史研究家の吉見哲夫氏がたとえ

また皇統本紀に「阿波之君」の祖として記されている息長田別命という御名は、息長一族の「息長(おきなが)」と、四世紀後半の誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)の「田別尊(たわけのみこと)」をあわせて「息長田別命(おきながたわけのみこと)」として創作され、応神天皇誕生前の四世紀ごろにさかのぼり、日本武尊の皇子として皇統譜に位置づけられたものではなかろうか。

と書かれたとしても


国府町史料

阿波国徴古雑抄 

このように「海部(あまき)城」として古記録に残っている以上、少なくとも「息長田別命」本人ないし、そのモデルとなった人物は存在していたと考えるべきではないのでしょうか?
ちなみに、この「海部(あまき)城」、国府にあったと書かれておりますが(awa-otoko氏も言っておりますがwww)伝承によれば、国府町「総社ケ原」に面する「天満宮」、ここが「息長田別命」の居城であったと言うことです。


この「天満宮」別の意味で、すっごく面白いんですが、それはまたの機会に。

さて、前回は「古田史学会」の「四人のヤマトタケル」説を紹介させていただきましたが、今回は別の説を紹介させていただきましょう
見ていただきたいのが、下図ペーパー。


<論説>「帝紀」・「旧辞」成立論序説 」
京都大学「紅(KURENAI)」よりお借りいたしました。




さすが、「紅(KURENAI)」、IF(ImpactFactor)あまり高くなさそうな(失礼)ペーパーではありますが、ネット上でちゃんと見ることができまして、個人的には痺れております(笑)。
内容としては

王統譜を中心とする「帝紀」、伝承類を主体とする「旧辞」は、六世紀半ばに最初に筆録されたとするのが通説的理解だが、両書は以後、書き加えられ書き変えられたことは確実である。

中略

さらに、『記』の王統譜研究に関して付奏すれば、従来、「息長」という氏族名を冠する皇族の者が多々確認され、また、ワニ氏出自后妃が多数看取されるなど、そのような特殊性に関心が向けられ個別的な成果が蓄積されている。殊に、息長氏に関しては、継体朝より以前に大王家と密接な関係を構築し、多数の后妃を輩出した「皇親氏族」と捉える見解も存する

中略

この点に関して吉井巌は、逸文系譜における若野毛二俣王の母の名と妻の名が、『記』では若野毛二俣王の妻の名に集中することに着目し、「記」が息長氏の作為によって、若野毛二俣王の母として息長真若中比売を作りあげた結果、本来の 若野毛二俣王の母の名の存在場所がなくなり、若野毛二俣王の妻である弟比売のなかに集中されてしまった」と想定する。
確かに、息長真若中比売は氏族名「息長」を冠していることから、息長氏の作為とする指摘は是認される。しかし、『記』 の応神妃・息長真若中比売と逸文の若野毛二俣王妃・母〃思己麻和加中比売が「マワカナカツヒメ」を共有している点に注意を払っていないのは疑問である。これを踏まえれば、息長氏が「上宮記」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を素材に改作を実施した事実を鮮明に抽出できるのだ。

中略

以上、息長氏による王統譜の改作過程について言及した。息長氏は「上宮廻」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を参照し、嬢・甥の異世代婚の原書に依拠して『記』系譜を造り上げ、且つヤマトタケルの子として息長田別王を挿入し、逸文系譜とヤマトタケルとを接合させたと推測される(図7)。息長氏は、若野毛二俣王の子・大郎子(室名・意富富行王) の後払氏族とされるが、そのような氏祖系譜との関係から、また、意富富里王の子孫とされる継体の皇位擁立に荷担したことから、継体との関係の密接化を図るために改作を実施した。加えて、継体の直接的な祖とされる応神との結び付きをも主張するために、「息長」をその名に冠する后妃(息長帯比売命・息長水依比売も含む)を王統譜上に配置したと 考えられる。

これだけでは不足だと思われますので、さらに「古事記」編纂への関与の証拠として

『紀』推古二十八年是歳条には、厩戸皇子と蘇我馬子が主体となり修史事業が展開されたと記されている。天武による撰録・討覈が是認されない以上、『記』伝承の統合性の現出は、天智朝以前に求めるべきなのである。

まず、『記』系譜をみるに、応神と息長真若中比売の所生子・若野毛二俣王と、母の妹である百師木伊呂弁(更名・弟日売真若比売命)の婚姻が確認される。これは、姨・甥の異世代婚と呼ばれるものだが、笠井倭人が論じたように、欽明朝以降に現出した婚姻形態で、それ以前のものは造作されたと考えられる。すなわち、若野毛二俣王と百師木下呂弁の婚姻関係は後代の創作といえる。

「上宮記」逸文系譜の作成に三尾氏が何らかの関与をしたことは間違いなかろうが、『記』王統譜の改作に携わったことも考え得る。図10を御覧頂きたい。注視すべきは、三尾氏の氏祖とされる石衝別王の妹・石衝毘売命(単名・布多遅能伊理毘売命)が、ヤマトタケルと婚姻関係を結び仲哀を儲けることである。これについては、垂仁孫と垂仁皇女の婚姻
という世代的不自然さ、ヤマトタケル・仲哀の非実在性から、後代に造作されたと断定してよいが、三尾氏の血が継体母系だけでなく、応神に到達することでその父系にも及ぶこととなる。三尾氏は継体に妃を二人出しており、継体擁立氏族 のなかでも主要な位置を占めていたと目されるが、前節で指摘したように、同様に継体を支持した息長氏もまた、継体との結び付きを強固にするために種々の系譜を造作しているのである。

上記(一部)、諸々の検証より、息長氏・和珥氏(わにうじ)等の記紀および「帝紀」・「旧辞」への関与を主張しております。

この息長氏関連の件については「古田史学会」も

景行記には不思議な系譜が載る。景行帝が倭建の六代目にあたる訶具漏(カグロ)比売を娶り、大枝王をなした、とある。これまでの通念では、倭建は同帝の息子の小碓命のことと思ってきたのだが。なぜ、その息子の玄孫の子が親の妃に。

また

カグロ媛の系図は同じ景行記中の倭建の系譜に載る。同媛は走水で倭建の身代わりになって入水した弟橘媛との子・若建(ワカタケル)王が飯野真黒比売を娶り生んだ須売伊呂(スメイロ)大中日子王の娘である。が、その飯野真黒比売の祖父は息長田別王、この祖父は倭建と一妻(アルツマ)との子とも記す。となると、カグロ媛が六代孫と記す倭建は、この一妻を娶った倭建である。ならば、この一妻を娶った倭建は、カグロ媛の祖父である若建王の親で弟橘媛の夫の倭建、つまり媛から三代前の倭建とは異世代の人物なのだ。

と、全く整合性が取れないことに関して言及しております。
その理由については前述したように複数の人物の業績を一人の「ヤマトタケル」に当てはめたからだというのですね。

それはそもそも倭建なる名称が役職名であり、何代も何人もの人物が交替してその職位についていたから、だろう。

つまり『「倭建」は職位名』であるとの見解であります。
それに対して京都大学は、息長氏による「古事記」への関与を主張しているのです。

じゃあ「お前はどう考えるんだ?」と問われれば、上記の京都大学説についてワタクシめは「関与」と書いてきました。
「改竄」「介入」とかの言葉は使っておりません。
ある種の有力豪族に対する「忖度」ではなかったかと考えております。
また、複数の「ヤマトタケル」の存在についても「一部」肯定いたします。
「ヤマトタケル」→「息長田別命」の部分については、カグロ媛と三代前の「ヤマトタケル」との婚姻を考えても、後世の挿入であると考えざるを得ないと思っております。

つまり、「旧辞」「帝紀」の成立したと考えられる七世紀中頃に息長氏の関与により「息長田別命」が何らかの理由で挿入されたと思うのです。
そして「息長田別命」にはモデルがあり、それは阿波に存在していたからこそ『「阿波之君」等の祖』と呼ばれ、上記「海部城」伝承が残り、式内社 建神社、が残ったと考えるのです。

話がクドくなりすぎました。
では七世紀中頃で阿波國の国司クラスの人物を考えれば、出てくるのは一人だけ。

「阿波真人広純」

国司は一定の任期(大宝令では6年、のちに4年となった)で中央から派遣され、任期終って交代し都へ帰るのが普通であったが国司の中には任期終っても中央に帰らず任地にとどまって豪族となる者もあった。武内宿禰の末裔の阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。
阿波学会研究紀要


阿波廃城考より

阿波國(続)風土記より

真人の末裔の田口(たのくち)氏が阿波に住みつくようになったのはいつの頃かわからないが田口息継は大同3年(808)5月に阿波国司に任ぜられている。田口氏は桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り、息継の何代か後の阿波介国風は桜間にいて、阿波国統治につとめ、その子文治直行は桜間の防備を整え、承平天慶(931~947)の頃、西海を乱した藤原純友が讃岐・阿波に侵入したのを迎え撃ったといわれる。直行は桜間を名乗って阿波を統治し、その子孫も代々その職を継ぎ、それより十代の桜間外記大夫良連まで桜間を名乗ったが、良連の跡を継いだ良連の甥成良(しげよし)は田口を名乗り武威を誇った。

ただし
阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。
この部分の確たる史料は、ワタクシ現在のところ見つけられておりません。

武内宿禰の末裔ということで
『新撰姓氏録』では、左京皇別 - 田口朝臣・紀朝臣・林朝臣・雀部朝臣・生江臣・布師首
が末裔とされているので、息長氏の末裔と言えないこともないんですが、武内宿禰が許勢臣(巨勢臣)・蘇我臣・平群臣・木臣(紀臣)を始めとする27氏の祖とされており、範囲が広すぎるってこともありますです。

で、
「阿波真人広純」の末裔
「田口息継」は国司として、桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り
「田口息継」の何代か後の「阿波介国風」は桜間にいて
その子「桜間文治直行」も桜間におりました。
「桜間文治直行」の祠は現在も石井町某所に存在しております。


ちなみに現在「桜間」の地名は国府町と石井町に跨っております。

王統譜を中心とする「帝紀」、伝承類を主体とする「旧辞」は、六世紀半ばに最初に筆録されたとするのが通説的理解だが、両書は以後、書き加えられ書き変えられたことは確実である。
との説、
景行記には不思議な系譜が載る。景行帝が倭建の六代目にあたる訶具漏(カグロ)比売を娶り、大枝王をなした、とある。これまでの通念では、倭建は同帝の息子の小碓命のことと思ってきたのだが。なぜ、その息子の玄孫の子が親の妃に。
との「古事記」記載の齟齬、
「息長田別王」伝承、
これも「息長氏」説もある「桜間氏」の石井町(国府町)の痕跡。
以上より
「息長氏」は「阿波真人広純(白雉四年(658)に阿波国司として着任)」を「息長田別王」として

息長氏は「上宮廻」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を参照し、嬢・甥の異世代婚の原書に依拠して『記』系譜を造り上げ、且つヤマトタケルの子として息長田別王を挿入し、逸文系譜とヤマトタケルとを接合させたと推測される

のではないかと考えるのです。

続く(かな?)

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