2015年12月19日土曜日

備忘録:「倭」はなんと読む?(追記)

「備忘録:「倭」はなんと読む?」の追記です。
では

西暦100年  「説文解字」(発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年  「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)

と書きました。
ところでいわゆる中国の「韻書(いんしょ)」辞書などの
韻書(いんしょ)とは、漢字を韻によって分類した書物。元来、詩や詞、曲といった韻文を作る際に押韻可能な字を調べるために用いられたものであるが、音韻は押韻の必要以上に細かく分類されており、字義も記されているので、字書などの辞典のもつ役割も果たした。wikipedia
の歴史を見てみますと
前回説明した「説文解字」と「切韻」の間に「玉篇(ぎょくへん)」なる辞書があるではないですか。
例によってwikipediaなどを覗いてみますと
玉篇(ぎょくへん、ごくへん)は、中国、南北朝時代、梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。字書としては『説文解字』・『字林』(現存せず)の次に古い。原本系玉篇は部分的にしか現存しない。
543年に顧野王によって編纂された元々の『玉篇』のことを、とくに原本玉篇と呼ぶ。
とあります。
原本玉篇は中国では滅んでしまい、日本にいくつか残巻が残る。これらの残巻は国宝になっている。現存するテキストは巻八・九・十八・十九・二十二・二十四・二十七の一部
なのですが、日本にはこの「玉篇(ぎょくへん)」を基にして編纂された日本最古の漢字辞書である「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」があるのです。

作は9世紀前半、高山寺蔵本は国宝に指定されております。
「玉篇」自体は残巻しか残っておらず、清朝に楊守敬が『篆隷万象名義』写本を購入して復元したという、いわくつきの辞書でもあります。
「国宝」いうこともあり、画像がほとんど出回っておりません。
しゃ〜ないので、さらに後世(寛政4年)日本語版「玉篇」の解説本?たる「四声玉篇和訓大成」を検索いたします。
すると、
「倭」の発音として「イ」のフリガナが記載されているではありませんか。

つまりは西暦543年編纂の「玉篇」において「倭」の発音は「於為の切(発音)に順(したがう)」つまり「イ」の発音であったわけです。
つまり、つまり

西暦100年 「説文解字」(発音「イ」)
西暦543年 「玉篇」  (発音「イ」)
   この間に発音の変化があった。
西暦601年   「切韻」  (発音「ワ」)
西暦1008年 「広韻」  (発音「ワ」)
西暦1039年 「集韻」  (発音「ワ」)

ということですね。
辞書編纂の歴史から見れば「西暦543年」から「西暦601年」までの間に「倭」の発音は「イ」から「ワ」に変化したのです。
無論「辞書編纂」から見てですよ。
人の口に膾炙する発音がちょうどその時点で変わるはずもなく、大陸は広く
中国の言語学者である李恕豪も『揚雄《方言》與方言地理学研究』(巴蜀書社、2003年)の中で『漢書地理志』の「音聲不同」、『説文解字叙』の「言語異聲」、『経典釈文』の「楚夏聲異、南北語殊」「方言差別、固自不同、河北江南、最為鉅異」など、殷周以来の方言の実在性に着目し、秦晋方言区から呉越方言区まで12の方言区について詳説しており、久米と同様、金印問題を考えるのに「方言論」的視座が不可欠であることを示唆している。
と、これも前回で書きました。
「方言」、いわゆる言語学者が「dialect」とよぶ地方による差異は、一般的に認識されている「方言」だけでなく、職業・趣味などが一致する者同士の間でのみ通じる表現方法(専門用語・業界用語・ジャーゴン)を含むことがあるのでしょう。
あるいは公的な(または官製)の発音であったかもしれません。

それにしても540年から60 0年前後にかけて、いったい何があったんだと思うばかりです。
念のため、日本とアジア付近の年表を覗いてみました。

540年 - 大伴連金村、任那問題で失脚する。秦人・漢人の戸籍造る(紀)。
541年 - 百済の聖王(聖明王)、任那諸国の王、「日本府」、ともに任那の復興を協議する(紀)。
544年 - 百済・任那・「日本府」・再び任那の復興を協議する(紀)。
547年 - 百済、倭国へ救援を要請する(紀)。
548年 - 句麗の陽原王、百済に侵入。百済、新羅に救援要請する。百済・新羅、高句麗を撃退する(『三国史記』)。
548年 - 倭国、百済に370人を送り、築城を助ける(紀)。
550年 - 中国北部で北斉が東魏を滅ぼす。
550年 - 百済、高句麗の奴と捕虜を倭に贈る(紀)。
551年 - 百済・新羅・任那、高句麗と戦い、百済は旧都漢城の地など6郡を回復する(紀)。
552年 - 百済の聖王(聖明王)、釈迦仏像と経論を献ずる(紀)。仏像礼拝の賛否を群臣に問う(紀、538年が史実。紀の編者の改変?)
555年 - 日本の欽明天皇、白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置。
557年 - 中国北部で西魏に代わり北周が建国。
557年 - 中国南部で梁から禅譲を受け陳(-589年)がおこる。
560年 - 北周の皇位が二代目の世祖明帝(在位557年-)から三代目の高祖武帝(在位-578年)へ継承される。
560年 - 新羅、朝貢する(紀)。
561年 - 新羅の使者、百済より下位に序列されたのを怒り、帰国して倭の攻撃に備える(紀)。
562年 - 新羅、任那官家を滅ぼす。紀臣男麻呂、任那に渡り新羅と戦うが、破れる。大伴連狭手彦、高句麗と戦う(紀)。
562年 - この頃、北九州で装飾古墳が盛行する。埴輪が畿内で衰退し、かわって関東で盛行する。西日本で群集墳が盛んに造られる。
568年 - 中国の陳で陳頊が三代皇帝を廃して帝位に就く(在位-582年)。
569年 - 王辰爾の甥、胆津を白猪屯倉に遣わし、田部の丁籍を定める。胆津に白猪史の姓を授け、田令に任ずる(紀)。
571年 - 新羅に使いを遣わし、任那(みまな)滅亡の理由を問う。欽明天皇、任那再興の詔を遣わして没する(紀)。
572年 - 4月3日 - 渟中倉太珠敷皇子、敏達天皇として即位( - 585年9月14日(敏達天皇8月15日))。
572年 - 王辰爾(わうじんに)、高句麗の上表文を解読する。高句麗の使人、帰国する(紀)。
574年 - 高句麗の使人、越に来着し、上京する。
574年 - 蘇我馬子を吉備に使わし、白猪屯倉(しらいのみやけ)と田部を充実させ、田部の名籍を白猪史胆津(いつ)に与える(紀)。
575年 - 新羅と任那に使いを送る。新羅、多々羅・須奈羅・和蛇・発鬼の四邑の調を献ずる(紀)。
576年 - 3月、敏達天皇、豊御食炊屋姫尊を皇后とする(紀)。
577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北(中国北部)を統一する。
577年 - 日祠部(ひのまつりべ)・私部(きさいちべ)を置く。百済に使いを遣わす。
577年 - 百済の威徳王、経綸と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を贈る(紀)。
578年 - 四天王寺建立のため、聖徳太子の命を受けて百済より三人の宮大工が招かれ、その宮大工の一人、金剛重光が「金剛組」を創業。
579年 – 新羅、調と仏像を贈る(紀)。
580年頃 - スラブ人が北ギリシアに侵入する。
580年 - 新羅、調を献ずるが、朝廷は拒否する。
581年 - 中国で楊堅が北周を滅ぼして隋を建国。
581年 - 蝦夷の首長、綾糟ら、朝廷への服属を誓う。
582年 - 新羅、調を献ずるが、朝廷は拒否する。
583年 - 突厥が東西に分裂する。
583年 - 任那復興のため、火葦北国造の子、日羅を百済より召喚する。
583年 - 蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る(元興寺縁起)。
584年 - 蘇我馬子が司馬達等の娘 善信尼ら三人を出家させる(日本最初の尼)。
584年 - 新羅に難波吉土木連子を遣わす。
585年 - 蘇我馬子、塔を大野丘の北に建て、盛大な法会を行う。物部守屋、塔・仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に捨てる。
585年 - 9月14日(敏達天皇14年8月15日) - 敏達天皇、死亡する。
585年 - 10月3日(敏達天皇14年9月5日) - 用明天皇が即位(在位 - 587年5月21日(用明天皇2年4月9日))。
586年 - 穴穂部皇子、物部守屋に三輪君逆を惨殺させる。
587年 - 用明天皇、病のため仏教に帰依せんことを群臣にはかる。
587年 - 物部守屋・中臣勝海は反対する。中臣勝海は殺され、物部守屋と蘇我馬子は、互いに兵を集めて対立。 
587年 - 蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす。
587年 - 9月9日(用明天皇2年8月2日) - 崇峻天皇が即位(在位 - 592年12月12日(崇峻天皇5年11月3日))。
588年 - 百済仏舎利を献じ、僧・寺工・画工や鑪盤博士、瓦博士等が来て最初の本格的伽藍、法興寺(飛鳥寺)を着工。
588年 - 蘇我馬子、善信尼らを百済に留学させる。
589年 - 中国で隋が南朝の陳を滅ぼし、中国を統一。
592年 - 隋で均田法を施行される。
592年 - 崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。
593年 - 聖徳太子が摂政となる。
593年 - 聖徳太子が摂津国に四天王寺を創建。
593年 - 伝承によればこの年、厳島神社が創建。
596年 - 聖徳太子、病気療養のため道後温泉に滞在(伊予風土記)
598年 - 隋で初めての科挙が行われる。隋、高句麗遠征に失敗する。
600年 - 日本が遣隋使(第1回)を送る(『隋書』倭国伝に見えるが『日本書紀』に書かれていない)

うーん、相当にダイナミックな時代ですなぁ。
気になるのは聖徳太子の台頭と遣隋使の開始ですかね。
アジアでの地位を確保してきた日本がいつまでも「夷」と呼ばれるのを嫌ったとの説もあるようです。
あるいは「弘仁私記」にあったように「我(わ)」から来たのかもしれません。それも国力の増加とともに自国を主張したためなのでしょうか......。

さて、最後に一つだけ...
前出の「篆隷万象名義」編纂したのは

「東大寺沙門大僧都空毎水撰」
と画像中央に読めるでしょうか。
で『海』、つまり「弘法大師 空海」の作なのです。
空海は唐より「玉篇」を持ち帰り「篆隷万象名義」を編纂しました。
なぜ601年の「切韻」ではなく543年の「玉篇」だったのか?
それは「玉篇」がメジャーだったからでしょう。
朝鮮半島でも広く用いられ、崔世珍の『韻会玉篇』が編まれるなどしている。現在でも韓国では部首別漢字字典自体を指す言葉に「玉篇」(オッピョン、옥편)を使っているほどのメジャー辞書だったのです。
要するに弘法大師空海
「倭」の文字が「ワ」と読まれる以前「イ」と発音していたことを知っていたのです。

以上、追記でございました。

4 件のコメント:

  1. 毎度毎度、丁寧な調査感服いたします。
     先日はスタジオまで来ていただいて
    大変面白い講議をしていただき
    ありがとうございました。

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    1. 準備不足で曖昧な点もある、拙い説明で失礼いたしました。

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  2. もう完璧!としかいいようがありません。
    ガッテン・3連発!!!

    最後の締めにさらっと空海というのが、にくいなぁ。
    東大寺別当になったのが帰朝後3年。まだ持ち帰った経典などの研究も続けていた彼が自分のためにも編んだのでしょうね。
    感動です。

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    1. 空海、凄すぎますね、いわゆる当時の最新の知識を超一級の知性で示している、って感じですか。
      これでは当時の人々に理解されなかったのも宜なるかな、なんでしょうね。

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