仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
を読んでいただいてないと、今回の説明が何が何だかわからないと思いますので、できれば読んで帰ってきてくださいませ(無理にとは言いませんがwww)。
まとめに入る前に一言だけ書いておきます。
歴史というものは、記録した人、それを見る人の主観で全く変わってくるものです。
いかに客観的に見ているつもりでも記録した人の立場によって記載方法は変わってくるし、現代の我々が見る歴史と、江戸時代、それ以前の人の見る歴史感は似ても似つかぬものであることは異議を挟む余地もないでしょう。
そういう前提に立ち、史書を解釈することは、仮定の連続でありますが、一つの仮定の破綻がすべての説の破綻につながるものではないことを理解しておいて欲しいと思います。
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
での系図を簡略化したものが上図です。
そして下のリンクは多分台湾の方が作られた「三国人物」というサイトですが、このサイトの「壹與」の部分を見てみますと
別にどこのサイトに書かれているから正しいとか、正しくないとかの話ではなく、ごく普通に「壹與」についてこのように書かれています。
魏末晉初時代的倭女王,也曾受封「親魏倭王」。年僅十三歲時,因其出身被推舉為女王,帶領動亂中的日本北九州「邪馬台(日向)國」走向穩定,與魏、晉先後建立起外交關係。她是邪馬台國第五位,同時也是末位國王,更是繼第一任女王「卑彌呼」之後的第二位女王。
壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo),原名為「豐受」(ToyoUke),公元234年出生於邪馬台國首府西都原(今日本宮崎縣西都市)。壹與是北九州「邪馬台國」日向族王位繼承人神倭「伊波禮彥」與南九州狗奴國球磨族(隼人族)貴族之女「阿比良」公主所生的獨生女。依輩份來算,壹與是邪馬台國第一位女王「卑彌呼」(HiMiKo)的曾孫。
壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo)を日本方面で写して壹與(Iyo)と成し、「壹與」の原名を「豐受」(ToyoUke)と為す。
卑弥呼を受け継ぐ「壹與」は「豐受」なのですね。
建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」は「豊受姫 荒魂命」なのですね。
では仮に「大倭姫命」こと「豊受姫」が「壹與」であり「豐受」であれば王位を引き継いだ「大倭姫」こと「竹野姫」また「日女命」と呼ばれる方は、先代「卑弥呼」そのものであるのではないでしょうか。
そして「竹野姫」は「開化天皇」の妃であり「日女命」であるのです。
この「日女命」、似たような名をどこかで見ませんでしたか?
「皇室より大明神の号を頂 日ノ命大明神と称しました」
考えてみてください「伊加賀色許賣命 」の呼び名は人名じゃないでしょう「伊加々志」一族の女性を現す呼称にしか見えず「伊加賀色許雄命 」は「伊加々志」一族の男性を現す呼称にしか見えません。
魏志倭人伝には「卑弥呼」には夫がいず弟がいたとの記載もあり、一致しないのではとの意見もあるでしょうが、屁理屈をこねれば、この「卑弥呼」は「大倭姫」こと「竹野姫」とする「卑弥呼」ではないのでは、あるいはさらに先代の、三国史記に現れる「卑弥呼」あるいは、史書に現れていない「卑弥呼」である可能性もあるのです。
そして、さらに「竹野姫」である先代「卑弥呼」の夫が「開化天皇」であることを仮定として認めるならば
で書いたように
「 開化天皇」は「卑弥呼」の跡を継いだ男王であり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)であるのです。
ならば
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』に言う
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
時に男王は臺與と共に海を渡り、朝見を果たします。
で書いたように日本海ルート
拠点となる丹後半島には「宮中八神殿」で書いた阿波の天石門別八倉比売神社と同神であると言われる大宮売神を祀る「大宮売神社(おおみやめじんじゃ) 」が存在し、
「仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)」で書いた、長野工学博士が提唱する、日本海ルートから若狭に至り、船を曳き、「船越」を越え琵琶湖経由で大阪湾に出るコースで帰還が可能となるのです。
誰が帰るのか?
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)と卑彌呼宗女「臺與」が帰るのです。
拠点には「五十猛神」も祀られています。
新羅からも晋からも、このコースで帰ることが可能なのです。
何処へ帰るのか?
少なくとも五十猛神(いそたけるのかみ)は『「木国の大屋毘古神」まとめ』で書いた自分の本拠地に帰ったであろうことです。
一応、纏めたつもりですが、追記があるかもしれません。すぐではないでしょうが...
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