もう歳とると昨日書いたことがわからなくなっちゃいま....
あ、ここはどこ? ワタシは誰?
と、読んでない方は
「二つの豊玉比賣神社(上)」
からどうぞ、と言っても大したこと書いてないっすけどね(笑)
さて、前回で
例えば「清玄坊神社」の由来には
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石
碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
とありますが、蜂須賀家の阿波国入国は天正13年(1585)。
「阿淡年表秘録」によれば城主が「龍王宮」に参拝した記録が残るのは
元禄五年 壬申六月四日 公富田八幡、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
元禄九 丙子年六月八日 公松厳寺、勢見山観音、御城内竜王、北御蔵明神へ御参拝。
が初出なので、元禄五年は1692年(笑)、100年以上「龍王宮」へは参拝していないというお話。
まで書きましたが、蜂須賀公が参拝しなかった理由として考えられるのが、もう一つ。
「元禄五年まで龍王宮は徳島城内になかった」
との想定です。
その理由として、まず「阿波志」
「入田村史」には「東西竜王両社にて毎年旧六月拾弐日村民相集りて番塲の如き囃をなして雨乞の祈祷をなせり。」とあります。
「名神序頌」は、上の東西龍王山いずれか(あるいは両方)に「天石門別豊玉比賣神社」があったと言っておるのです。
そしてあるいは
ここ佐那河内の「大宮正八幡神社」鎮座まします「ここ」だったかもしれないのです。
もう一つ
山麓の方の八幡神社に合祀せられた
と、これも「名東郡史」にありますが、ご存知の通り、入田町には八幡神社はありません、一宮町には「八幡神社」は一つしかないのです。
さあて、ウィークデーなので雑に書きなぐってしまいましたが、「天石門別豊玉比賣神社」は元々徳島城内になく、現在の一宮町あるいは入田町にあったことが分かっていただけたのではないでしょうか(もしかしたら佐那河内かも)。
で、これで終わるかといえば、終わらないのです(笑)
さらなる驚愕の事実が(下)に続くのです。
(いい引きだなぁwwwww、でもさすがに明日は無理っす)
「延喜式亦為少祠今廃」とあること、もう一つが
「名神序頌」の記載
「天石門別豊玉比賣神社本在猪山城墟穪龍王宮往古自一宮龍王峯遷之」
つまり「天石門別豊玉比賣神社は猪山城墟に本(元)在り、龍王宮と称す往古自ら一宮龍王峯の之(これ)を遷す。
「天石門別豊玉比賣神社」はもともと一宮の龍王の峯にあったのを遷座したのです。
この話については「名東郡史」に詳しく記載されており
『この文に依っても天石門別豊玉比賣神社は最初名西郡入田町の竜王峯に鎮座したことが了解せられる。現に名西郡入田町の建治寺の所在地は「中の竜王峯」といい、その東に「東の竜王峯」、西に「西の竜王峯」がある。いずれの峯も松林の中に小祠が祭られていて、村人の話に拠ると、天石門別豊玉比賣神社は山麓の方の八幡神社に合祀せられたという。
また佐那河内村大宮八幡神社神職井開兵部の談にも、ここは元は天石門別豊玉比賣神社鎮座の地で今は同社境内の猿田彦神社に合祀されている由である』
建治寺
西龍王山
西龍王山 八大龍王神社
東龍王山
東龍王山 東龍王神社
「入田村史」には「東西竜王両社にて毎年旧六月拾弐日村民相集りて番塲の如き囃をなして雨乞の祈祷をなせり。」とあります。
「名神序頌」は、上の東西龍王山いずれか(あるいは両方)に「天石門別豊玉比賣神社」があったと言っておるのです。
そしてあるいは
ここ佐那河内の「大宮正八幡神社」鎮座まします「ここ」だったかもしれないのです。
もう一つ
山麓の方の八幡神社に合祀せられた
と、これも「名東郡史」にありますが、ご存知の通り、入田町には八幡神社はありません、一宮町には「八幡神社」は一つしかないのです。
さあて、ウィークデーなので雑に書きなぐってしまいましたが、「天石門別豊玉比賣神社」は元々徳島城内になく、現在の一宮町あるいは入田町にあったことが分かっていただけたのではないでしょうか(もしかしたら佐那河内かも)。
で、これで終わるかといえば、終わらないのです(笑)
さらなる驚愕の事実が(下)に続くのです。
(いい引きだなぁwwwww、でもさすがに明日は無理っす)
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