2010年11月27日土曜日

城山を大事にしよう

徳島の県都、徳島市の中心にあります城山ですが、市街地の中心部にありながら
原生林(ほんとはちょっと違うけど)を持つ山として貴重な存在であります。
でも最近の大気汚染や異常気象、松食い虫等の被害により、生態系に相当なダメージを
受けてます。
山の為だけならず、自身の為にも環境を守っていきたいものです。
そのシンボルとして「城山を大事にしよう」とタイトルしました。
(出だしカッコいい!!、でも嘘っぽいなあ)


さて、この城山の沿革から入ります。
室町時代の至徳二年(1385年)に細川頼之が小城を築き、この地の風光を中国の渭水に例え
渭津(いのつ)と名付け、山を渭山(いのやま)と名付けた。
と、記録にあります。
が、わたくし、ひねくれてますので「なんで渭水に例えなきゃならないんだよ」という
素朴な疑問を提示しておきます。が、それはさておき。
天正十三年(1585年)に蜂須賀家政入国、当初は徳島市西部にあった一宮城に入城しま
したが一宮は大分山寄りであり、何かと不便だという事で、現在の地にな平山城を築造
し、徳島藩蜂須賀氏二十五万石の居城となり、明治を迎え廃城となります。

で、この築城時に起こったのがで徳島市 清玄坊神社で書きました事件です。
まだ読んでない方は見てから、帰ってきてくださいね。
この清玄坊ですが蜂須賀家の入国前から、この城山に住んでいた修験者、山伏で
「大林院素月」と言います。
で、この素月(清玄坊)を慰霊するために「清玄坊神社」ともう一つ「素月堂」が
作られました。じゃあ散歩がてら見てこようじゃないかという訳です。
(前置き長いなあ)
まず、これが助任川方面から見た城山です。
高さは60m程しかありません。
でも、これ見て「中国の渭水」を連想するのか?
また、この城山なんですが、太古、海面が5〜10mも高かった頃は完全に島であった
と思われます。
眉山上から見た写真がこれですが
こう見ると、島(もしくは岬)であった事は想像しやすいでしょう。
で、「素月堂」なんですが徳島城東二の丸の山麓下にあったらしいんですが。
こんなの見ても載ってないし....
まあ行ってみよ。
石段....
あ〜やだやだ。
この東二の丸跡の少し下。
この奥辺りのはずなんですが
「はいらないでね!」と「!」マークつきでお願いされたら、ちょっと入りにくいので
残念ながら諦めてしまいました。
でも、もう一つ伝説がありまして、蜂須賀家政侯、供養のために五輪塔を城の石垣に
組み込んだと言う伝説です。
これは確認できました。
ここですね。もう一箇所あるらしいんですが、それは見つかりませんでした。

さあ、この「清玄坊」こと「大林院素月」が生命をかけて守った城山、実は多くの
神社が祀られていた、いわゆる霊山であるのです。
山頂には神明社(伊勢神宮、後に城の鬼門の守護神として中常三島に遷座)
山麓の東寄りに諏訪社(佐古の諏訪山に遷座・・・ちょっと個人的に異論あり)
山麓西側には住吉社
南側には弁天社
南嶺西寄りには稲荷社、龍王宮(これは以前に徳島中央公園へ行ってきましたで書ききました)
西側に竜王神社(これも以前に徳島中央公園へ行ってきましたで書ききました)
弁天社については徳島中央公園内に記載があります。
「七福神の一つである弁財天をまつる小社があり」とあるでしょ。
写真は「なんだかな」なんですが、これが弁天池です。
GoogleEarthの画像に記入してみました。
相当歩き回ってみましたが、諏訪社、住吉社、稲荷社、神明社の位置は推定です。
それぞれの神社の由緒は調べられてませんが(資料なんてあるのか?)
ちょっと凄いと思いませんか。
まさに霊山。
これが「清玄坊神社」のみ!
そこで提案、「天石門別豊玉比売」を祀る龍王社を再建すべし!!!
「清玄坊神社」は「素月」を祀るのみで「天石門別豊玉比売」は祀られていない。
以前は護国神社があって、「ある意味」では(阿波)国の守りの要となっていたのが今や
それもなし、「清玄坊神社」だけで守られている有様です。
ここは往古、島であった事を考えると阿波国の東端の要であったのではないでしょうか。
それ故に神社が集まり、霊山の体をなしていたのでしょう。
龍王宮再建!!!
だれか賛同してくれないかな。


8 件のコメント:

  1. はい。賛成。

    返信削除
  2. to のらねこ さん

    感謝の極み!

    返信削除
  3. ぐーたらさん、頑張っていますネ♪
    応援いたします(^^)/~~~
    眉山は中学生の頃、貝塚があると知りワクワクして徳島へ出たら寄っていました!!
    鳥居龍蔵氏は偉大です♪
    私の考古学の原点が眉山にあります(●^o^●)♪

    返信削除
  4. to すえドン さん
    いけませんねえ、今月頑張り過ぎですね(笑)
    あんまり頑張りすぎると後が続かなくなっちゃいます。
    タイトルとも違ってくるし(笑)
    今回は書きませんでしたが、城山の北側には海蝕痕跡もありますし
    怪しげな洞窟もあってワクワクです(笑)
    市街地の真ん中に残ってるのが凄いです。

    返信削除
  5. 「渭水」とは、鮎喰川のことです。命名者は、聖徳太子。私は、父岩利大閑から、そう教わりました。それは、私がまだ新町小学校の二年生の時でしたが、ある日曜日、父が眉山一周のサイクリングにつれて行ってくれたのです。当時、徳島市大道にあった自宅を出て、二軒屋、上八万、下町、名東町、蔵本、佐古と、時計回りに眉山を一周してきました。名東町の「蓬庵堤」という場所を通ったときに、父から教えられたのです。蜂須賀家政は、徳島の城下町を建設するに先立って、吉野川、鮎喰川、園瀬川の流路変更工事をした。鮎喰川は、本の名を「渭水」といって、かつては、この蓬庵堤を斜めに横切って、佐古川、田宮川、新町川、助任川、寺島川(徳島駅建設により消滅)につながって、直接、海にそそいでいたのである。「渭水」という名前をつけたのは、聖徳太子で、その人のお墓は、ここです、といって、タタリ谷常厳寺に案内された。うちの家系は、たしか、何代か前の先祖が『阿波風土記』を読んで、阿波にあこがれ、大和郡山から移住してきたと聞いており、風土記に書かれていた内容を家伝として相伝してきた。おそらく、『阿波風土記』には、「鮎喰川、本名を渭水という」と書かれていたのだ。細川頼之も、風土記を読んで、渭水という言葉を使いはじめたのではないか?だけど、その出典を秘したので、細川頼之が命名したかのように誤解され、それが通説になってしまっているのですよ。残念ですね。『渭水聞見録』という徳島藩の史書がありますが、この本の著者、増田立軒も「渭水」とは徳島城下を流れるすべての川の総称であるという認識のもとに、その本のタイトルに「渭水」を使用していると思いますよ。また、御座船川のほとりに結婚式場、「渭水庵祥雲閣」というのがあります。今の経営者は、何も知らないようですが、その場所に最初に、渭水庵という邸宅を建てた当主は、本当のことを知っていたと思います。「この川は、御座船川なんて名前ではない。渭水という由緒正しい名前があるんだ。今でこそ、埋め立てられて、入り江のようになってしまっているけれど、かつては、ここから、佐那河内や神山まで、八百万の神々が五穀の種を携えて遡上していった聖地なんだ。」そう見込んで、その場所に邸宅を建てたのだと思います。私が昔、住んでいた徳島市大道あたりも、古代の渭水の流路であったのです。

    返信削除
    返信
    1. 詳細なコメントありがとうございます。阿波風土記の欠片でもと、だいぶ長い間探してきましたが、未だにヒントすら見つかっていません。
      『渭水聞見録』は無論目を通してはいますが、このような指摘を受けなければ、なぜ「渭水」と冠したのか想像の外でした。
      徳島は古い資料は誰かのせいで散逸してしまい、このようなお話を伺わ無い限り想像もでき無いような事実が隠されているようです。
      また機会あればご教示いただければ幸いです。
      「御座船川」については、まあ、勘弁してあげてください(笑)。

      削除
  6. 前回、自分の名前を打ち間違えていたようで、失礼しました。岩佐栄三です。このごろ、老眼がひどくなって、困っています。ところで、鮎喰川は、現在の流路の西側の国府町側にも流れていたような形跡が随所に見られます。ただし、これはかなり古い時代の治水工事によって、埋め立てられているように思います。一宮町あたりで分岐して、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺を結ぶ遍路道あたりに旧河道があっただろうと思います。蜂須賀家政が一宮城にいたころは、今よりもはっきりと古代の治水工事の跡がわかったのではないでしょうか? 「国府の町は、河川敷を埋め立てて造成されているな」と気付いたから、ご自分も治水工事で、広大な河川敷を宅地として転用することを思い立ったのではないかと思います。現在、徳島市の中心となっている新町、内町などは、ほとんど全体が河川敷の荒地で、誰も住んでいなかったのではないかと思います。徳島城山についても、鳥居龍蔵氏は、「縄文人穴居の跡」などといっていましたが、それは大きな間違いだと思います。城山に限らず、徳島市の中心部は、地下水がかなり深いところを通っており、井戸を掘っても、水は出ません。川の水は塩水です。だから、ごく近年まで、大八車で飲料水を売りにきていたような土地柄なんです。井戸寺あたりより上流が容易に淡水が得られる最下限だったのではないでしょうか? 城山あたりから、満潮時に无間勝間小舟で川を漂流すると、自動的に井戸寺の前あたりに着岸するような流路が古代には、あったのかもしれません。そこまで遡上して、ようやく「水を飲ませてくれ」と言ったのが彦火火出見尊ではなかったか? どんな原始人でも、飲料水の得られない孤島では、生活できるはずがない。城山貝塚から発見された貝殻や人骨は、舟で上流から運ばれてきたものだと私は推測します。人が死んだら、三途の川を渡って冥土に行く、そのための渡し賃として、六文の銭を用意しておく、という日本人特有の信仰は、舟で遺体を無人島に遺棄していた縄文時代の記憶の名残ではないでしょうか?
    また、話が脱線しますが、ついでだから、書いておきますが、蜂須賀家政は、徳島城を築く前に小松島の日の峰山にも下見に行っています。小松島湾に注ぐ神田瀬川(古い地図では神代瀬川の表記)は、私が見たところでは、勝浦川の旧流路であるように思います。これもかなり古い時代に高度な知識と経験を積んだ治水技術者が中国から渡来して、流路変更工事がなされているようです。蓬庵堤のような堤防を築いて勝浦川の流れを変えているのです。小松島港は、「天然の良港」などとよく云われますが、違いますね。人工的に川を堰きとめ、砂浜を自然の波力で海蝕させることによって、計画的に作られた港です。このことも、蜂須賀家政は、日の峰山の上から眺めて気付いたはずです。

    返信削除
    返信
    1. 今回も貴重なコメントありがとうございます。
      目が見えないのはご同慶の至りです(笑)
      常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺を結ぶ遍路道あたりに旧河道があったのは間違いないと思います。
      現在工事中の南環状線は河川跡(伏流水の形跡が見られる)ですし、そこに沿って遺跡が発掘されたりしております。
      また西南から見れば国府には敷地(河川跡に堆積した土地の意)があり、遡って登々路の地名、東に向かって高輪があり、井戸寺にたどり着きます。
      あの近辺が相当な高台で、かつ真水が存在した場所であることは間違いありません。
      >城山貝塚から発見された貝殻や人骨は、舟で上流から運ばれてきたものだと私は推測します。
      これは慧眼ではありませんか。
      たしかに城山は玉島と呼ばれた、海蝕痕が周囲に残る孤島であり、生活の場としては適していなかったように思います。
      拙ブログの読者の方の中にも、このようなお話を楽しみにしておられる方が多くいらっしゃいます。
      今後ともよろしくお願い致します。

      削除