2011年11月29日火曜日

南井上村誌

ウィークディで帰って来たらバテバテのパターンなんですが、あんまり面白いんで
ちょっとだけ書いちゃいます。

南井上村誌
昭和30年町村合併により廃村となることが決定し、その記念として刊行された村誌
でございます。今は国府町南井上となっておりますが、当時は南井上村でありました。
その南井上村誌の歴史、神代の南井上の部分。


我が南井上の地は昔の井上(ゐのべ)郷の中心に位置し海神の住み給う処であった。
神代神話にあらわれた山幸彦、海幸彦が釣針の争いから、山幸彦は塩椎翁(航海の神)の
教えによって海を渡り釣針を求めて海神の宮に行かれた。その地は当時の井上郷、我が
南井上村であった。
古事記に「魚鱗(うろこ)の如く造れる宮、それは綿津見神(海神)の宮なり、其の神の
御門に至りましなば傍の井の上に湯津香木あらむ」とあり。
井門(いど)の地名もここから生まれたもので、井門は井戸に転化したものと称されて
いる。
山幸彦は塩椎翁の申す通り海神の宮の門の傍の井の上にある桂の樹上に上られて待って
居られると、海神の侍女は器を以て水を汲みに来り、井内の静かな水面を眺めると思い
掛けぬ高貴な神様の御姿がうつっている。この侍女の驚きに対して山幸彦は清水を所望
されたから侍女が器に汲んで差上げると、飲給わず、首飾りの玉をといて口中に含まれ
器中に落し入れられた。


中略


国府町和田に王子神社、新居村西崎に雨降神社それぞれ豊玉姫を祀り、花園諏訪神社は
海神を祀る能和氣宮よりの転なりと伝えらるあり、又井戸寺境内に御姿の井戸あり、弘法
大師の創建とも伝えらるるも、古事を追慕さるる大師が由緒深き霊井に御姿をうつされ
以て俗人共に神代ながらの神聖さ正しさを保てと訓えられたものかも知れない。

山幸彦が桂の木の上に上って姿を写した井戸が「ここ」にあったので「井の上」それが
「井上」になったそうです。
そして、その井戸は「今も残っていて」井戸寺境内にある「御姿の井戸」が
「それ」であります。
と、南井上村誌は書いているのです。

下の写真は「雨降(あまたらし)神社」(式内社 和多都美豊玉比賣神社)


下の写真は「王子和多都美神社」
井戸寺の写真がちょうど無いんだなぁ。何度も行ってるのにね。


廃村になるからここまで書いた(書けた)のかどうかは分りませんが、もっと早くに
村誌を作っといてくれたらなあと思いましたとさ。
能和気宮も気になる所ですが(和気氏の関係か、それとも品陀和気天皇か、あるいは
天佐自能和気神社なら日子刺肩別尊と関係があるのか)

まあ、今日はご紹介だけね、へっへっへっ。

2011年11月25日金曜日

奈良飛鳥行(4)

奈良飛鳥行(3)からの続きです(間あき過ぎ)
続いては「飛鳥大仏」を拝見せんとて「飛鳥寺」へまいります。


現在の飛鳥寺の前身である法興寺は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて
造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日
本最古の本格的仏教寺院である。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したも
のである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立
することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てる
ことにしたという。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は『書紀』と同じながら
内容の異なる記載がある。『縁起』によると丁未年(用明天皇2年、587年)、「百済の客」
が当時の日本には尼寺しかなかったので法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇
が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという(当時の日本
には百済に留学した善信尼などの尼はいたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られ
る)。wikipediaより

さてさて、ここらで書いておきたいのは、いかにも「百済」の文化を輸入したような
書き方をあちらこちらで見受けられますが、「百済」はほとんど倭の領土だったような
ものだったのです。

こんなこと書いてて反論の山がやってきても困るんですが、ちょっとだけ。
まずは復元図、五重の塔があったとされておりますが、法隆寺に代表される
「耐震構造」を備えた建築技術が新羅、百済にあったとは思えません。
地震の無い國の技術者が来て、地震大国の倭にどんな建築物を建てるんですか。
そこらから疑問でしょ。
また半島では日本の様式である5世紀頃の前方後円墳が見つかっていますが、これも
ご存知の通り、国内では3世紀頃から作られております。
また、国内で鉄の鍛造が行なわれていた頃、半島では鋳造しか行なわれていなかった
ことも明らか。
 続いては文献より。

まずは、日本書紀の「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服した」とあるのは有名な
ところですよね。
続いて「好太王碑文」。
西暦400年前後、高句麗の好太王(広開土王)王の業績を石に刻んだ碑文のこと。

その一部に

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
とあります。

また、十二世紀に編纂された、高句麗・新羅・百済三国の史書である「三国史記」
高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から
統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。
1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

それによれば、新羅の四代目の国王である脱解王。
この人はもともと韓国の人ではないと書いてあります。
多婆那国という国で生まれた。その多婆那国は倭国の東北一千里にあると書いてあります。
倭国の位置をどこに想定するかで、多婆那国の場所は変わってきますが、仮に九州あたり
だったとしても、短里で千里なら山口県近辺、奈良を想定しても三重の辺り。
完全に現在の日本国内、つまり「倭人」だったわけですね。

また「瓢公」という人物がおりまして、二代から四代に渡って新羅の王に仕えた
人なんですが、新羅第一代の王赫居世の時、新羅にやってきた国内ナンバー2の地位。
そのとき腰に瓢をくくりつけていたので「瓢公」と呼ばれた。こう呼ばれた「瓢公」という人は、元「倭人」である。とあります。
「倭人」が新羅のナンバー2にいたんですね。
ちょっと百済からはなれましたが、分っていただけると思います。
「倭人」の支配する国だったのでしょうかね(また、逃げ道を残してる書き方)。

宋書倭国伝にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がありますし

三国志魏書 東夷伝には、こうあります。
韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里
ばかり。三種あり、一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁韓と曰う。辰韓は、古の
辰国なり。


帯方の南にある韓は倭と接しているのです。「海をはさんで」なんて意味じゃないのは
明白ですよね。

つまり「百済」近辺と想定される半島南部は「倭国」領地だったと考えるのが妥当な線
じゃないでしょうか。
寄り道が過ぎました(笑)

で、最後は石舞台古墳へ。
なんでこれを見るのに250円もいるの?


「せんとくん」も250円払ってねと申しておりました(うそ)。

ちょっと、訳の分んない講釈と、訳の分らない終わり方になってしまいますが
奈良飛鳥行、ここまでとさせていただきます。

おまけ
帰路、近鉄鶴橋駅でちょっと降りて、鶴橋商店街。
一周廻ってキムチをおみやげに買いました。
ここらはホントに異国ですなあ。
「のりまき」とか「チヂミ」もちょっと欲しかったんですが。、今回は大根キムチ
だけにしました。
2重にポリ袋に入れましたがニオうにおう(笑) 
でも、ひじょーにお安くて、おいしかったですよ。

2011年11月23日水曜日

奈良飛鳥行(3)

奈良飛鳥行(2)からの続きです。
続いては「飛鳥資料館」など詣でて、いや見学してまいります。
「亀石」のレプリカなども鎮座ましましております。

非常にいい資料館なんですが中の写真とかは出せませんので(というか撮れなかった)。

まあ、せっかく飛鳥に来たんですから、ここで「倭京問題」でも持ち出しておきましょう。

「倭京」という聞きなれない言葉は「日本書紀」中に7回程出現しています。
「天智天皇」と「天武天皇」の部分です。
壬申の乱のあたりですね。

1.白雉四年「孝徳紀」
是歳(ことし)、太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄皇子)奏請(まう)して曰(もう)さく
「冀(ねが)はくは倭京に遷(うつ)らむ」とまうす。天皇(孝徳)、許したまはず。

2.天智六年(667年)
八月(はつき)に皇太子(ひつぎのみこ 天智。中大兄)、倭京に幸(いでま)す。

3.天武元年(672年)五月
或いは人有りて奏して曰さく「近江京(あふみのみやこ)より倭京に至るまでに
處處に候(うかみ)を置けり。亦菟道(うぢ)の守橋者(はしもり)に命せて
皇太弟(まうけのきみ 天武。大海人皇子)の宮(みや)の舎人(とねり)の
私粮(わたくしのくらひもの)運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。

4.天武元年(672年)六月
(大友皇子が)穂積臣百足(ほずみのおみももたり)弟五百枝(おとといほえ)
物部首日向(もののべのおびとひむか)を以て、倭京に遣す。

5.6.天武元年(672年)七月
是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂(うみつみちのいくさのきみのおみあへまろ)等
倭京の将軍大伴連吹負の近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分(くば)りて
置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣して、千余騎(ちあまりのうまいくさ)を率(ゐ)て
急(すみやかに)に倭京に馳せしむ。

7.天武元年(672年)九月
(天武は)庚子(かのえねのひ 12日)に、倭京に詣(いた)りて
嶋宮に御(おはしま)す。
(しまのみや 一般的には明日香村島の庄にあった離宮と言われる)

変だと思いませんか?
「倭京」とはいったいどこなんでしょうか?
藤原京以前に「京」はなかったはずなんですが。
飛鳥は「飛鳥宮」であくまで天皇の座す「宮」であり官僚や住民を含む「○○京」ではないんですね。

むろん「倭京」を「やまとのみやこ」と読んで「大和」のあったので「倭京」だと解釈する向きも
分からなくはないですが、単に「やまとのみやこ」じゃどこだか不明ですよね。
現に天武元年五月の段で「近江京より倭京に至るまでに」とあるので、「近江京」はその名を
書かれ、「倭京」が「やまとのみやこ」ではおかしいですね。
また、「日本書紀」中に「倭京」の言葉が出てくるのは白雉四年(653年)年以降ですが
「孝徳紀」に「倭京」を定めた旨の記載はありません。
そして天武元年以後、日本書紀に記載が現れないのもおかしなところです。
「日本書紀」の編纂は養老四年(720年)であり、「大和の京」である平城京で作られています。
平城京は「倭京」なんて呼ばれてませんよね。
それがなんで「倭京」って書かれなくてはならないんでしょうか。
つまり「倭京」は「大和」にはなかったのです。
では、「倭京」はどこか?
誰も信じないので詳しくは書きませんが(笑)
いや違う、まだまとまってないんです。
が、最初の元号である「大化」の次の元号「白雉(はくち)」と同じ呼び方の地がそうではないかと
考えてます。
そこには「倭」の名を持つ神社があり、後に築かれた城は四国一の要害であります。
(あ、いかん四国って書いちゃった)

ここまで書けば、じゃあ「壬申の乱」はどこだったんだなんて話につながっていきますので
今日は(京は)このあたりで。

2011年11月20日日曜日

奈良飛鳥行(2)

奈良飛鳥行(1)からの続きです。
橿原神宮参拝の後、まずは山田寺跡へまいります。

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。 Wikipediaより


 ところで、下の写真はホテルの売店前に飾られていた「せんとくん」と「まんとくん」
が仲良くしてる姿です(笑)
心なしか「まんとくん」が嫌がっているように見えるのは私だけでしょうか(笑)
で、余談でございますが、阿波の石井町には「曽我氏神社」という神社がございまして
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
が御祭神で、「あの」曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)、五郎時致
(ごろうときむね)の曽我兄弟を合祀となっております。
写真は写りが悪くてごめんなさい。

徳島県神社誌にもそのように記載されておりますが、どう考えても曽我兄弟を祀る理由も
無く、江戸時代の国学者、永井精古も、
「曽我兄弟(そがきょうだい)を祀るいわれはない」旨の発言をいたしております。

一説に蘇我氏没落後、阿波に配流されたのが、ここと言われます。 
で、「曽我氏神社」境内には「武知神社」なる神社が祀られており、詳しい由緒は
伝わっていないものの「武知麻呂」を祀ってあるそうです。
 これも、一応の説明は曽我兄弟の従者であった「武知麻呂」だそうですが、「武知麻呂」
って、あ〜た都合が良すぎる名前じゃありませんか。
個人的には、「曽我氏神社」は蘇我氏を祀ると考えます。
では「武知麻呂」は?「◯原武智麻呂」ってか?
祀られる理由がないんですよね。
「◯原武智麻呂」の母親が「蘇◯娼子」っていうことくらいしか(笑)
でも、こんなの書いてると、またバカにされそうですな(笑)
石井には「石川神社」ってのもありますしね。市楽の板碑のある有名な神社ですが
ここについては別の機会に。

ちょっと半端ですけど、まだ続きますので。

2011年11月19日土曜日

奈良飛鳥行(1)

今日はひどい雨でしたねぇ。そんな中仕事がらみで奈良へ行ってまいりました。
で、今日は日程ギリギリで飛鳥方面を回ってきたのでございます。
正味3時間(笑)その程度で何が分かるって?
ま、一応報告程度と思ってくださいませ。
大阪難波から鶴橋経由で近鉄特急に飛び乗り(飛び乗らなくてもいいだろって?)
大和八木駅へ。
いろいろいろいろ....あったあと、まずはここへ。
「橿原神宮」
見てください「大雨」です。奈良県南部には大雨警報まで出てるというのに。

 ピンボケでごめんね、ごめんね~。
でも写真撮るだけで必死なのよ(必死になるなよって(笑))。

 あああ

 御祭神は言わずと知れた「神武天皇」。
 橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てられ即位の礼を行われた宮址に、明治23年に創建された。
第一代の天皇であり我が国建国の始祖となられた神武天皇と、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后が祀られている。 神武天皇は、皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に降られた日向(ひゅうが)国高千穂の宮におられたが、天下の政治(まつりごと)を行うべくはるばる東遷の途に立たれた。途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした中つ国を平定され、畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられた。

橿原神宮公式ホームページより

 御覧のように無茶苦茶広大な敷地でございます。

 だから、すっごく降ってるのよぉ。

 やっと屋根の下で一息なのよ。

七五三なんでカワゥ~イ巫女さんの登場です。
で、もしかしたら土成町、鈴川谷の「樫原神社」の話を書けとおっしゃる方がいるかも
しれませんが(そうだよ、あなたのことだよ)。
今日はもうバテバテなのと、準備ができてないので、ちょっとご勘弁を(涙)

ちょっと余談なんですがホントは法隆寺のほうへ回りたかったんです。
天気と時間の関係で涙を飲んだのですが。
というのは法隆寺の東南に「阿波神社」があるのです。

場所はここ
元は斑鳩町阿波とかの地名だったようですが今は変わってるようです。
もちろん近くに阿波の町名は残ってます。


より大きな地図で 奈良県 阿波神社 を表示
 
奈良時代に法隆寺建立のために派遣された人々の村なんですが、なぜ阿波だけが残ってるか
不思議でしょ。
国を挙げての工事なら全国各地の地名を持つ集落が残ってなくちゃおかしいでしょ。
ま、余談です。
今日はもう寝ますので、ではまた続きをお楽しみに(するのか?)

2011年11月14日月曜日

四国十四番奥之院「慈眼寺」追記

四国十四番奥之院「慈眼寺」 の追記です。

>余談ですが、近所にもう一箇所「天満天神」がとんでもない場所に祀られてたりして
>それも首が90度曲がっちゃうくらい疑問です。
などと書いてた場所、ここです。



より大きな地図で 国府町西矢野 天満天神 を表示
臨済宗 興禅寺すぐ西側の小高い丘の上、というか古墳ですな。
なかなかシュールな風景ではございませんか?

ね、ここにも天満天神。
覗いてみれば「北野天満大自在天神」。
「大自在天」とあるからには菅原道真公以前の地神(火雷天神とか)あるいは
ヒンドゥーのイーシヴァラ(自在天、シヴァ神の別名)かマヘーシヴァラかな?
ちなみに、大自在天には毘舎闍摩醯首羅(びしゃじゃ・まけいしゅら)と
浄居摩醯首羅(じょうご・まけいしゅら)の2種類あるとのことですが、そこら
についてはよく分りませんので割愛(笑)
ま、追記ということで、怪しい所を追加しときます(笑)
月曜なので、あっさりとね。

2011年11月12日土曜日

四国十四番奥之院「慈眼寺」

最近ねぇ、忙しくてウィークデイに更新なんて全くできない状況なんです。
しゃーないので土日に何とか、とやってるんですが、加齢のせいか(華麗じゃないよ)
なかなか書く体力が付いてきません。
(と言い訳を書いときゃ、しょーもない記事でも誤摩化せるかな(笑))

では調子こいて、またしても県内でしか通用しない昼食のお話からです。(笑)
徳島市南田宮にある「焼肉炙屋匠」です。
昼から焼き肉じゃなく、ここランチタイムは徳島ラーメンの店「肉そば匠」に変身
するのです。(笑)
下記メニューの「匠の炙りトロチャーシュー」(小)730円を注文致しますと
バラ肉ともやしなどトッピングはご覧のように別皿で出てきます。

ライスを別に注文して丼のようにして食べてもいいですよってことだそうです。
松茂の某肉屋さんがやってるらしく、肉はたっぷり入ってます。
スープは思ったよりあっさりしてました。
麺は細麺でけっこう好みです。
実はチャーシューメン好きなんです。でも最近ラーメンはあまり食べられないんです。
そう、コレステ...何とかの関係です。
と、いう訳でおいしくチャーシューメンをいただきました。
ではまた。
(またかよ)

で、昼食の後はコレステロールやら中性脂肪やらを減らす為に(書いてて涙ですな)
近所でも散歩に行こうではないかと、行って参りました。
14番札所、常楽寺 奥の院であります「慈眼寺」。
場所はここ。

より大きな地図で 慈眼寺 を表示

札所を廻るときは、できれば奥の院も廻った方がいいですよぉ。
例えば一部ですが
 一番霊山寺の奥の院 東林院
十二番焼山寺の奥の院 蔵王大権現
十三番大日寺の奥の院 建治寺
十八番恩山寺の奥の院 金礒弁財天
二十一番 太龍寺の奥の院 舎心ケ嶽
などなど。
そのうちの一つが、ここ「慈眼寺」。鶴林寺の奥の院も「慈眼寺」ですね。
で、ここには「生木地蔵尊」が祀られております。
ちょっと暗めですが由緒書きです。
北向き地蔵尊のように「かならず一願をかなえしめん」と申される
ありがたい「地蔵尊」でございます。
常楽寺まで来ておいて、ここを詣らずになんてもったいないでしょう。
「生木地蔵尊」のお堂でございます。
どうしよう、御本尊の写真出してもいいのかな?
すいません、出しちゃいますよ。
迫力あるお地蔵様です。
ここで帰ってしまっては、のんびりウォーキング20分コースなので
もう少し歩きましょうと、
常楽寺の裏手から「延命山」を登ってみましょう。
と言っても大した高さの山ではございません、が。
上の写真のように「新四国八十八ケ所参道」などとしておりますが、実はここ延命山
すぐ手前にございます八幡宮の御神体と思われるのです。
特に資料がある訳ではございませんが、状況を見るとそうとしか思えないのです。
では参道を上ってまいりますと。参道沿いに◯◯番の御本尊が祀られております。
このように岩肌に祀られてもあったりします。
ほらほらぁ、ちゃんと「おかまご」で祀られておられます神様がいらっしゃいます。
こちらが(ホントの)御神体でしょう。
頂上まで上ればこのような。
 あんまり高くないので、徳島市内方面を北向きに眺めてもこの程度です。
そして順番通りに下って行きますと。
うむむ、「天満大自在天神」ですと。
「天満大自在天神」は菅公にシヴァ神を習合させた天部だそうですが
なんで、こんな所に、との疑問は消えません。
余談ですが、近所にもう一箇所「天満天神」がとんでもない場所に祀られてたりして
それも首が90度曲がっちゃうくらい疑問です。
一周しても20分ぐらいなんで、おヒマな方はよろしければどうぞ。
それにしても、やっぱりここらも怪しいなあ(笑)
(一部の人は今日の記事フェイントだって言うかな?)