2020年7月27日月曜日

番外:大御和神社(追記:伯母宮の訂正)

さて、前回
番外:大御和神社(追記:伯母宮)」を上梓させていただきましたが、大きな誤りがございましたので、訂正の上懺悔させていただきます。

我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋癡
従身語意之所生
一切我今皆懺悔
懺悔文(さんげもん)



伊勢姨ノ宮 小社村ノ北方写(移)今八幡ニ鎮座ス 祭神倭姫命ト云

とさせていただきましたが、よく見ると(片目で見ても)。

伊勢姨ノ宮 小社村ノ北方今八幡ニ鎮座ス 祭神倭姫命ト云
ですよね、「今八幡」ていう字名があるのに思い至りませんでした。
で、「今八幡」ってどこらかなって探してた時、目に入ったのが徳島県立図書館所蔵、江戸期の古地図。
ジャストミートで載ってるではありませんか。

GoogleMapと並べてみます(GoogleMapはInvert処理をしてます)

街路がほとんど変わっていないことに驚愕いたします。
これで、古跡をほぼ特定できるのですが、現在は個人宅となっております。
仮に何か残っていたとしても、決して現地の確認などなされないようお願いいたします。

ということで、訂正および懺悔とさせていただきます。

2020年7月16日木曜日

番外:大御和神社(追記:伯母宮)

番外の追記なんて、訳わかんないですけど書いておかないと忘れてしまうので(最近、物忘れが良くて、良くて)追記しておきます。
例の売却問題については現在進展はない様です、といいましても今回の記事はそれと関係ありませんので、ご了承ください。
さて、前回「番外:大御和神社」にて「阿波志」の記載に

大御和祠
延喜式亦爲小祀在府中村即大巳
貴命今穪府中宮又穪印鑰或曰大
寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也隣
村共祀其側有天照太神祠土人穪伯母宮

とあるのを紹介させていただきました。(下図)

で、この部分
其側有天照太神祠土人穪伯母宮
側に天照大御神の祠があり、地元では「伯母宮(おばのみや)」という。
という意味の記載です。
この「天照大御神の祠」というのは、無論「天石門別八倉比売神社」のことですよね。
大御和神社の御祭神「大己貴命」からすれば、伯母にあたりますので、こう言われても何ら違和感はございません。
が、下の画像を見ていただきますと。
史料は「寛保御改神社帳(かんぽうおんあらためじんじゃちょう)」でございます。
赤線部分に「伊勢伯母宮」という祠が存在していたことが記載されております。
ちなみにこのコピーは頂き物でございます(笑)。
まず口から出るのが「なんじゃこれは?」ですよね(笑)。
なぜ「伊勢」の「伯母宮」が「大御和神社」の側に?
(中村だから、すぐ近くだったはずなんです)
思い浮かんだのは「天石門別八倉比売神社」の遥拝所。
いやいや、いくらなんでも近すぎるんで、直接参拝すればいいんじゃない?などと自問自答が頭の中を駆け巡る訳ですよ。
「阿波志」にも「国府町史料」にも、記載はないし.....

なんやかやで、ようやく見つけたのが
 「阿波國名東郡村誌」



さて、何人の方が狂喜してくれますでしょうか。

伊勢姨ノ宮 小社村ノ北方写(移)今八幡ニ鎮座ス 祭神倭姫命ト云

中村の八幡神社はここ。


同「阿波國名東郡村誌」によれば、御祭神は応神天皇、境内に末社一座となっております。



一つ見ておいていただきたいのが、境内の地神塔。
五角柱の地神塔が「亀」の上に乗っているのを見てください。
これは「亀趺(きふ)」ですね。

贔屓(贔屭、ひき、拼音:Bìxì)は、中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。
概要
中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子の一つで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。
wikipedia

個人的な考えですが、早雲古宝が1789年(寛政元年)に藩主蜂須賀治昭に進言し阿波國全土の地神塔建立が始まった際、それ以前から残っていた「亀趺(きふ)」の様式を残したのではないでしょうか。
もし、そうならばここには応神天皇と系統の違う御祭神が祀られていた証拠の一つになるのではないでしょうか。
持論ですが、様式は嘘をつかないんです。

それにしても、「伊勢伯母宮」の御祭神は「倭姫命(やまとひめのみこと)」。

倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。
第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。 wikpedia

矢沢弦月、皇大神宮奉祀 部分

つまり、「伊勢」にいる「伯母」。
では「倭姫命(やまとひめのみこと)」を伯母と呼べるのは誰か?

甥である、草薙剣(天叢雲剣)を与えた「倭建命(やまとたけるのみこと)」その人なのです。

後は、言わずもがなでありましょう。
「倭姫命」「倭姫命世紀」「亀趺」などについいても書きたいことは尽きませんが、まずは阿波國においての「倭建命」の忘れられた旧跡を探すだけですよね(どなたかお願いします)。
で、追記とさせていただきます。



ああ、これでやっと『「ヤマトタケル」って誰?』の続きに戻ることができます。

2020年6月17日水曜日

番外:大御和神社

2020年六月五日の徳島新聞朝刊に下の記事が掲載されたことにショックを受けた方も少なからずいらっしゃったと思います。

要は
社殿や社務所の老朽化による雨漏りや、境内樹木の伐採等に年々費用が増し、ここ数年は今まで以上に経費がかさむため、境内地の一部を売却し、売却した資金で社殿及び社務所を新築することとしたとの記事です。

正直なところ境内地の売却に関して、一個人としては、どう考えても賛成できませんが、当事者でない人間が何を言っても詮方ありませんし、神社側、氏子側、双方の話を聴き比べているわけでもなく、裁定できる立場にはありません。
できることは、この状況と「大御和神社」についてワタクシが知っていることを開帳し、皆様の理解の一助とすること程度なのでしょう。
では。

大御和神社(おおみわじんじゃ)
徳島県徳島市国府町府中644



延喜式式内社

創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。

往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる。明治5年(1872年)に郷社に列し、昭和11年(1936年)に県社に昇格した。

御祭神
大己貴神 大山咋神
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。

ちなみに、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(律令の補助法令)の総称を三代格式(さんだいきゃくしき)という。
つまり「格」が法律のこと、「式」が神祗の取り決めのことでありまして、「格」と「式」を合わせて「格式が高い」などと使われる様になったそうです(シッタカ)。


御祭神の大己貴神については
「大穴牟遅神・大汝神とも書き、大名持神とも。大国主神の別名」

大山咋神(おおやまくいのかみ)は、日本神話に登場する神。
『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。

程度で「今は」勘弁してください。書き出すと十回でも足りません。




御祭神 大己貴命(大国主命)
延喜式内小社で「府中の宮」と親しまれている。
王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となり、その国府の鎮守として、 累代国司の崇敬が厚かった社である。
本社は国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし 神徳により印鑰大明神とも称したと伝えられる。「印鑰」即ち国司の宮印と諸司の蔵のかぎが紛失せぬように祈り、又神社の中に保管したという。
明治三年大御和神社と奉称し同五年郷社に列せられ昭和十一年県社に昇格した。



十年前の写真ですが、この時点で既に文字の判別が困難となっておりますが、中央あたりに
「四十二代 文武天皇 大宝二年(七〇二年)、當国国司 国璽の印...云々」
と記されているのをどうにか...。

つまり社記によれば、創起は少なくとも「大宝二年(七〇二年)」以前に遡り1300年以上の時を経ていることになろうかと思われます。


ちなみに隣町の石井町にも「大御和神社」があり、同じ鍵の神門となっています。
あるいは境外摂社かとも思いますが、距離が離れすぎています。

詳しくは(詳しくないけど)
あなたの知らない「大御和神社」』をご参照ください。

話を戻しまして
阿波國江戸期のの地誌である「阿波志」の記載を示します。

ちなみに「阿波志」とは
徳島藩の11代藩主蜂須賀治昭は寛政4年(1792年)に、『阿波志』の編集にあたらせるために、お抱え儒学者の佐野山陰(佐野之憲、佐野憲、藤原之憲、藤原憲とも。1751年-1819年。)を「編集御用」に任じた。
佐野は、翌寛政5年(1793年)に、国内の町や村、港に地誌調査を命じた。これにより、各地の官吏や庄屋を通じて諸地の地理や歴史、戸数と人口、田畑の石高や特産品、神社仏閣や名所旧跡に関する情報が収集された。その後、寛政10年(1798年)には佐野自らが各地の巡察を行い、資料の収集も行った。
これらの情報がまとめられ整理されて、藩命から23年後の文化12年(1815年)に全12巻12冊の『阿波志』として完成した  wikipedia



大御和祠
延喜式亦爲小祀在府中村即大巳
貴命今穪府中宮又穪印鑰或曰大
寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也隣
村共祀其側有天照太神祠土人穪伯母宮

上が明治期の神社紹介絵図、下が現在の神社。
社地は全く変わっていないことが分かっていただけるでしょう。
ちなみに、下は「国府町史料」の大御和神社関連部分。


どうも、「印鑰大明神」は中村に「別に」存在していた様にも見られますが、本題じゃないので微妙にスルー。
で、今回残される社地は「おおよそ」下図程度の様です。
シロートが勝手に線引きしたんで間違ってたらごめんなさい。

もう一つ重要なことは、国府町のこの近辺は「国衙(こくが)」であったことでしょう。
あるいは「国庁(政庁)」であったかもしれませんが、位置が確定されていない現在「国庁」であるとは言い切れませんが、少なくとも「国衙(こくが)」の一部であったことは確実ではないかと思われます。

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。wikipedia


つまり、各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼ばれた、ということですね。


無論、およそ30回にわたる調査は実施されておりますが、如何せんこの近辺はご存知の通り古い街並みが残り、発掘調査が非常に困難な地区であります。
下図の様な「条里制」による区割りが想定され、その中心部付近に大御和神社が鎮座していることがみられます。

なお、土地勘の理解のため、参考までに国府駅近辺の字名を下図に示します。

国庁の位置は、未だ特定されておりません。

なお、この様な「埋蔵文化財包蔵地(遺跡)」の開発を行う場合には工事着手の60日前までに届出が必要となっています。

上図は、徳島市の「埋蔵文化財包蔵地図」(部分)。

そして、香川県においては「国府跡」は埋蔵文化財センターによる調査により

 「国の史跡」に指定されております。
今年、2020年のことです。
讃岐では国指定の史跡、阿波では売却して宅地?マンション?ってですか。



最後にtwitter上の「大御和神社(府中の宮)を守る会※準備中」アカウントを紹介しておきます。


大御和神社(府中の宮)を守る会※準備中
徳島県徳島市国府町に鎮座する大御和神社(おおみわ神社)は通称、府中の宮神社(こうのみや神社)と呼ばれています。6/5徳島新聞記事にもでましたが、境内の8割が売却と大半のご神木が伐採されようとしています。
5/1に宮司、総代から氏子各位に対して「大御和神社境内地売却及び社殿新築工事について」のお知らせが届きました。
内容としては、社殿や社務所の老朽化による雨漏りや、境内樹木の伐採等に年々費用が増し、ここ数年は今まで以上に経費がかさみ、氏子皆様へのご負担を大きくしていました。
これ以上氏子の皆様にご負担を強いる事は出来ないと、臨時の総代会を数度開催し協議した結果、境内地の一部を売却し、売却した資金で社殿及び社務所を新築することとなりました。
売却額と売却先、2164坪の内400坪を差し引いた面積が売却。売却額を社殿境内新築及び各種事業へ充当。と、記載された内容でした。
一部売却と記載されていましたが、実際は1764坪の8割が売却で一部しか残りません。これは氏子に一切相談がなく総代と宮司で決定されたのです。
5/1にお知らせが届いてから、わずか半月で一台の重機が入り、玉垣には足場が組まれました。近隣住民は、何が起こっているのか分からないというのが現状でした。今のところ工事は進んでいませんが。
現段階では、工事は進んでおりませんが、いつ始まるか分からない状況です。
この1ヶ月間で、宮司・総代に一旦工事を止めて今後の方針についての話し合いをしてきましたが、進展なく今に至ります。
みなさんリツイート、いいねありがとうございます。もうすぐリツイートが100件に到達します。徳島から全国、これだけの人が関心をもってくれていることに、感謝しきれません。まだ始まったばかりですが、これからもどうぞ宜しくお願いします。

とのことです。
よろしければ、リツイートなりお願いいたします。
神社にとっても氏子にとっても、この神社を崇敬する人々にとっても、良い方向に進みますように。


2020年5月18日月曜日

岐神再び(追記2)

「岐神再び」の追記なんか絶対書くまいと思ってたんですが、出てくるもんですねぇ。

ですが『「ヤマトタケル」って誰?』の途中で記載するか、「岐神再び」の追記にするか3秒ほど悩んだんですが『岐神再び(追記2)』にしちゃいます。

日本書紀によれば、仲哀天皇は仲哀九年二月に香椎宮で崩御いたしましたが、神功皇后は、天皇が神の教えに従わずに崩御したことに心を痛め、祟った神を知って財宝の国を求めようと思い、群臣(まえつきみ)と百僚(つかさつかさ)に命じて罪を祓い、過ちを改めて小山田邑に斎宮を設け、翌月には自ら神主となって斎宮に入りました。



中臣烏賊津使主を審神者(さにわ:神託を聞いてその意味を伝える役割を担う人)とし、武内宿禰に琴を弾かせました。
皇后は琴の両側に幣帛をたくさん積んで「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょうか、願わくはその神の名を教えてほしい」と問いかけたところ、七日七夜にわたって神々の名が次のように告げられた。
の段ですが、下に原文と大意を示します。


三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主 則命武內宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主爲審神者 因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰「先日教天皇者誰神也、願欲知其名」逮于七日七夜、乃答曰「神風伊勢国之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉」亦問之「除是神復有神乎」答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神有之也」問「亦有耶」答曰「有無之不知焉」

(仲哀天皇即位9年)3月1日 皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となり、武内宿禰に命じて琴を弾かせた。
中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を呼びよせて、審神者としました。
それで千繒高繒(チハタタクハタ=神に供える布を何重にも積み重ねて)して、琴頭尾(コトカミコトシリ=琴の頭と尾)を置き、神に請うて言いました。
「先日天皇に教えたのはどこの神ですか?願わくはその名を知りたいのです」
七日七夜たって、答えがありました。
「神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国の百伝う(モモヅタウ=何度も行き交う=度逢縣の枕詞)度逢縣(ワタライアガタ)の拆鈴五十鈴宮(サクスズイスズノミヤ)に居る神、名を撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)だ」
また「この神を除いて他の神はいますか?」と、問いました。
答は「幡荻(ハタススキ=布や旗のようになびくススキ=穂の枕詞)の穂(ホ=植物の穂のように現れる『姿』のこと=姿を表す神のこと)のように現れた『吾』は尾田(オダ)の吾田節(アガタフシ)の淡郡(アワノコオリ)に居る神だ」。
また(神功皇后は)「他にいますか?」と問いました。
答えは、「天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシルノカミ)がいます」
また(神功皇后は)「他にいますか?」と問いました。
答えは「(他に神が)いるか、いないか、分からない」、でした。

と赤色の太字に下部分に注目していただけますか?
「尾田吾田節之淡郡所居神」と
「天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神」
ですね。

まず、「尾田吾田節之淡郡所居神」についてですが、「淡郡」を阿波国阿波郡、「吾田」を赤田、さらに「節」をフチ=フツと考えて、徳島県阿波市にある赤田(あかんた)神社に祀られる経津主神とする説があります。
皆様ご存知の通り、赤田神社は建布都神社の論社の一つとなっています。

下の3枚の写真は阿波市「赤田神社」




何より「釈日本紀」によれば、
(『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。著者は卜部兼方(懐賢))






神名帳曰。阿波國阿波郡建布都神社。事代主神社。
として阿波の神説を裏付けております。
これはボクが言ってるんじゃ無いですよ「卜部兼方」が仰ってるんですよ(笑)。
で、
「天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神」については
岐神再び(追記)
でも書きましたように
大神神社の由緒でもある「三輪高宮家系」に


「天事代主籤入彦命」は「率川阿波神是成」と書かれております。
これはボクが言ってるんじゃ無いですよ「三輪一族」が伝えているんですよ(笑)。

つまり宣託のあった三柱の神

「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」
「尾田吾田節之淡郡所居神」
「天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神」

のうち二柱の神については「阿波の神」であることが確認できた、ということでよろしいでしょうか?
あ、「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」は「天照大神」のことです。

で、追記といたします。
(もう追記は無いと思うよ)

次回は『「ヤマトタケル」って誰?(5)』に戻ります。

2020年5月2日土曜日

「ヤマトタケル」って誰?(4)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)
「ヤマトタケル」って誰?(3)

非常事態宣言でご不便の折、いかがお過ごしでございましょうか。

続けます。
阿南市史の編集者でもある、郷土史研究家の吉見哲夫氏がたとえ

また皇統本紀に「阿波之君」の祖として記されている息長田別命という御名は、息長一族の「息長(おきなが)」と、四世紀後半の誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)の「田別尊(たわけのみこと)」をあわせて「息長田別命(おきながたわけのみこと)」として創作され、応神天皇誕生前の四世紀ごろにさかのぼり、日本武尊の皇子として皇統譜に位置づけられたものではなかろうか。

と書かれたとしても


国府町史料

阿波国徴古雑抄 

このように「海部(あまき)城」として古記録に残っている以上、少なくとも「息長田別命」本人ないし、そのモデルとなった人物は存在していたと考えるべきではないのでしょうか?
ちなみに、この「海部(あまき)城」、国府にあったと書かれておりますが(awa-otoko氏も言っておりますがwww)伝承によれば、国府町「総社ケ原」に面する「天満宮」、ここが「息長田別命」の居城であったと言うことです。


この「天満宮」別の意味で、すっごく面白いんですが、それはまたの機会に。

さて、前回は「古田史学会」の「四人のヤマトタケル」説を紹介させていただきましたが、今回は別の説を紹介させていただきましょう
見ていただきたいのが、下図ペーパー。


<論説>「帝紀」・「旧辞」成立論序説 」
京都大学「紅(KURENAI)」よりお借りいたしました。




さすが、「紅(KURENAI)」、IF(ImpactFactor)あまり高くなさそうな(失礼)ペーパーではありますが、ネット上でちゃんと見ることができまして、個人的には痺れております(笑)。
内容としては

王統譜を中心とする「帝紀」、伝承類を主体とする「旧辞」は、六世紀半ばに最初に筆録されたとするのが通説的理解だが、両書は以後、書き加えられ書き変えられたことは確実である。

中略

さらに、『記』の王統譜研究に関して付奏すれば、従来、「息長」という氏族名を冠する皇族の者が多々確認され、また、ワニ氏出自后妃が多数看取されるなど、そのような特殊性に関心が向けられ個別的な成果が蓄積されている。殊に、息長氏に関しては、継体朝より以前に大王家と密接な関係を構築し、多数の后妃を輩出した「皇親氏族」と捉える見解も存する

中略

この点に関して吉井巌は、逸文系譜における若野毛二俣王の母の名と妻の名が、『記』では若野毛二俣王の妻の名に集中することに着目し、「記」が息長氏の作為によって、若野毛二俣王の母として息長真若中比売を作りあげた結果、本来の 若野毛二俣王の母の名の存在場所がなくなり、若野毛二俣王の妻である弟比売のなかに集中されてしまった」と想定する。
確かに、息長真若中比売は氏族名「息長」を冠していることから、息長氏の作為とする指摘は是認される。しかし、『記』 の応神妃・息長真若中比売と逸文の若野毛二俣王妃・母〃思己麻和加中比売が「マワカナカツヒメ」を共有している点に注意を払っていないのは疑問である。これを踏まえれば、息長氏が「上宮記」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を素材に改作を実施した事実を鮮明に抽出できるのだ。

中略

以上、息長氏による王統譜の改作過程について言及した。息長氏は「上宮廻」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を参照し、嬢・甥の異世代婚の原書に依拠して『記』系譜を造り上げ、且つヤマトタケルの子として息長田別王を挿入し、逸文系譜とヤマトタケルとを接合させたと推測される(図7)。息長氏は、若野毛二俣王の子・大郎子(室名・意富富行王) の後払氏族とされるが、そのような氏祖系譜との関係から、また、意富富里王の子孫とされる継体の皇位擁立に荷担したことから、継体との関係の密接化を図るために改作を実施した。加えて、継体の直接的な祖とされる応神との結び付きをも主張するために、「息長」をその名に冠する后妃(息長帯比売命・息長水依比売も含む)を王統譜上に配置したと 考えられる。

これだけでは不足だと思われますので、さらに「古事記」編纂への関与の証拠として

『紀』推古二十八年是歳条には、厩戸皇子と蘇我馬子が主体となり修史事業が展開されたと記されている。天武による撰録・討覈が是認されない以上、『記』伝承の統合性の現出は、天智朝以前に求めるべきなのである。

まず、『記』系譜をみるに、応神と息長真若中比売の所生子・若野毛二俣王と、母の妹である百師木伊呂弁(更名・弟日売真若比売命)の婚姻が確認される。これは、姨・甥の異世代婚と呼ばれるものだが、笠井倭人が論じたように、欽明朝以降に現出した婚姻形態で、それ以前のものは造作されたと考えられる。すなわち、若野毛二俣王と百師木下呂弁の婚姻関係は後代の創作といえる。

「上宮記」逸文系譜の作成に三尾氏が何らかの関与をしたことは間違いなかろうが、『記』王統譜の改作に携わったことも考え得る。図10を御覧頂きたい。注視すべきは、三尾氏の氏祖とされる石衝別王の妹・石衝毘売命(単名・布多遅能伊理毘売命)が、ヤマトタケルと婚姻関係を結び仲哀を儲けることである。これについては、垂仁孫と垂仁皇女の婚姻
という世代的不自然さ、ヤマトタケル・仲哀の非実在性から、後代に造作されたと断定してよいが、三尾氏の血が継体母系だけでなく、応神に到達することでその父系にも及ぶこととなる。三尾氏は継体に妃を二人出しており、継体擁立氏族 のなかでも主要な位置を占めていたと目されるが、前節で指摘したように、同様に継体を支持した息長氏もまた、継体との結び付きを強固にするために種々の系譜を造作しているのである。

上記(一部)、諸々の検証より、息長氏・和珥氏(わにうじ)等の記紀および「帝紀」・「旧辞」への関与を主張しております。

この息長氏関連の件については「古田史学会」も

景行記には不思議な系譜が載る。景行帝が倭建の六代目にあたる訶具漏(カグロ)比売を娶り、大枝王をなした、とある。これまでの通念では、倭建は同帝の息子の小碓命のことと思ってきたのだが。なぜ、その息子の玄孫の子が親の妃に。

また

カグロ媛の系図は同じ景行記中の倭建の系譜に載る。同媛は走水で倭建の身代わりになって入水した弟橘媛との子・若建(ワカタケル)王が飯野真黒比売を娶り生んだ須売伊呂(スメイロ)大中日子王の娘である。が、その飯野真黒比売の祖父は息長田別王、この祖父は倭建と一妻(アルツマ)との子とも記す。となると、カグロ媛が六代孫と記す倭建は、この一妻を娶った倭建である。ならば、この一妻を娶った倭建は、カグロ媛の祖父である若建王の親で弟橘媛の夫の倭建、つまり媛から三代前の倭建とは異世代の人物なのだ。

と、全く整合性が取れないことに関して言及しております。
その理由については前述したように複数の人物の業績を一人の「ヤマトタケル」に当てはめたからだというのですね。

それはそもそも倭建なる名称が役職名であり、何代も何人もの人物が交替してその職位についていたから、だろう。

つまり『「倭建」は職位名』であるとの見解であります。
それに対して京都大学は、息長氏による「古事記」への関与を主張しているのです。

じゃあ「お前はどう考えるんだ?」と問われれば、上記の京都大学説についてワタクシめは「関与」と書いてきました。
「改竄」「介入」とかの言葉は使っておりません。
ある種の有力豪族に対する「忖度」ではなかったかと考えております。
また、複数の「ヤマトタケル」の存在についても「一部」肯定いたします。
「ヤマトタケル」→「息長田別命」の部分については、カグロ媛と三代前の「ヤマトタケル」との婚姻を考えても、後世の挿入であると考えざるを得ないと思っております。

つまり、「旧辞」「帝紀」の成立したと考えられる七世紀中頃に息長氏の関与により「息長田別命」が何らかの理由で挿入されたと思うのです。
そして「息長田別命」にはモデルがあり、それは阿波に存在していたからこそ『「阿波之君」等の祖』と呼ばれ、上記「海部城」伝承が残り、式内社 建神社、が残ったと考えるのです。

話がクドくなりすぎました。
では七世紀中頃で阿波國の国司クラスの人物を考えれば、出てくるのは一人だけ。

「阿波真人広純」

国司は一定の任期(大宝令では6年、のちに4年となった)で中央から派遣され、任期終って交代し都へ帰るのが普通であったが国司の中には任期終っても中央に帰らず任地にとどまって豪族となる者もあった。武内宿禰の末裔の阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。
阿波学会研究紀要


阿波廃城考より

阿波國(続)風土記より

真人の末裔の田口(たのくち)氏が阿波に住みつくようになったのはいつの頃かわからないが田口息継は大同3年(808)5月に阿波国司に任ぜられている。田口氏は桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り、息継の何代か後の阿波介国風は桜間にいて、阿波国統治につとめ、その子文治直行は桜間の防備を整え、承平天慶(931~947)の頃、西海を乱した藤原純友が讃岐・阿波に侵入したのを迎え撃ったといわれる。直行は桜間を名乗って阿波を統治し、その子孫も代々その職を継ぎ、それより十代の桜間外記大夫良連まで桜間を名乗ったが、良連の跡を継いだ良連の甥成良(しげよし)は田口を名乗り武威を誇った。

ただし
阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。
この部分の確たる史料は、ワタクシ現在のところ見つけられておりません。

武内宿禰の末裔ということで
『新撰姓氏録』では、左京皇別 - 田口朝臣・紀朝臣・林朝臣・雀部朝臣・生江臣・布師首
が末裔とされているので、息長氏の末裔と言えないこともないんですが、武内宿禰が許勢臣(巨勢臣)・蘇我臣・平群臣・木臣(紀臣)を始めとする27氏の祖とされており、範囲が広すぎるってこともありますです。

で、
「阿波真人広純」の末裔
「田口息継」は国司として、桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り
「田口息継」の何代か後の「阿波介国風」は桜間にいて
その子「桜間文治直行」も桜間におりました。
「桜間文治直行」の祠は現在も石井町某所に存在しております。


ちなみに現在「桜間」の地名は国府町と石井町に跨っております。

王統譜を中心とする「帝紀」、伝承類を主体とする「旧辞」は、六世紀半ばに最初に筆録されたとするのが通説的理解だが、両書は以後、書き加えられ書き変えられたことは確実である。
との説、
景行記には不思議な系譜が載る。景行帝が倭建の六代目にあたる訶具漏(カグロ)比売を娶り、大枝王をなした、とある。これまでの通念では、倭建は同帝の息子の小碓命のことと思ってきたのだが。なぜ、その息子の玄孫の子が親の妃に。
との「古事記」記載の齟齬、
「息長田別王」伝承、
これも「息長氏」説もある「桜間氏」の石井町(国府町)の痕跡。
以上より
「息長氏」は「阿波真人広純(白雉四年(658)に阿波国司として着任)」を「息長田別王」として

息長氏は「上宮廻」逸文系譜あるいはそれと同系統の資料を参照し、嬢・甥の異世代婚の原書に依拠して『記』系譜を造り上げ、且つヤマトタケルの子として息長田別王を挿入し、逸文系譜とヤマトタケルとを接合させたと推測される

のではないかと考えるのです。

続く(かな?)