2009年12月27日日曜日

日向国についての備忘録

古事記に曰く、伊耶那岐命が黄泉国より帰ってきて禊を行ったのが有名な「日向の橘、阿波岐原」という所ですね。原文では「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而。禊祓也。」の部分です。
「道は阿波より始まる」1巻には日向国は「風土記」には一切登場しない、「釈日本記」に景行天皇が名付けた云々の記載があったので、疑わしくも思い調べていましたらこれがあるんですね。
ちなみに古事記原文が下図。

で、「釈日本記」が下図。左から3行目以降に
「景行天皇紀日十七年春三月.......」とあるくだりです。
たしかに「日出方故號其國曰日向成」とあります。
景行天皇は12代目、いくら後年に見積もっても4世紀以降であるとは考えられず
太安万侶が編著中に8世紀当時の地名を当てはめない限り伊耶那岐命の往事九州には決してあり得ない地名だったということでしょう。




ブログの趣旨とは違いますが備忘録代わりに記しておきます。

2009年12月13日日曜日

雨降神社(その2)

性懲りもなく雨降神社周辺を廻ってきました。
と、いうわけではなく藍住のK's電機へ行こうとしてたんですが
この付近を通ってて気になるのでちょっと寄り道をしてたら
もう着かない着かない。
という訳で、神社の東に位置する鳥居を発見しました。
場所は不動小学校脇、木造でだいぶ痛んでおりました。





扁額にはご覧のとおり「雨降神社」と。
場所は最後のGoogleEarthの写真をどうぞ。



続いて?神社の西北西、雨降神社に関係あるかどうかは不明ですが、うろうろしてたら
こんな碑がありました。左の碑です。




だいぶ 見にくくなってますが「船戸大明神」と刻まれています。
雨降神社が水を祭る神社なので関係があるのかな?とは思うんですが
なにしろ今日写真を撮ってきたばかりなんで。
どなたかご存知ならご教示願えませんでしょうか。


そしてこの灯籠。ここが神社の西の社領境かな?と思うんですが。
またしてもホテルの隣。
まあ、いいんですけど車を止めて写真を撮るのが非常に厳しい場所でございます。




灯籠の台には「水神宮」の文字が刻まれてます。




北方向を望むと小さいお社と手水鉢?
場所としては地図を見てみてもこの辺りが境界だろうなという感じです。
それにしても、荒れていても、崩れかけていてもとにかくこのような遺物が
捨て去られずにそこに残されていること自体が感激です。



代わり映えもせずGoogleEarthの写真を載せときます。
あと北に社領境があるはずなんでしょうが今日は見つかりませんでした。
改めて探してみます。(いつになることやら)

2009年11月23日月曜日

多祁御奈刀弥神社(石井町)へ行ってきました

多祁御奈刀弥神社(石井町)へ行ってきました。
小学生の作文ですね。こりゃ
いまさら解説することもないでしょうが徳島市佐古3番町の諏訪神社の元宮ですね。
徳島市の諏訪神社は諏訪山にあり、多祁御奈刀弥神社は石井町浦庄の「諏訪!」にあります。
手前の鳥居の前には鎌の紋が入った塚?があります。
「鎌の打ち合い」と言うそうです。
そして立派な鳥居が。
扁額には「式内郷社 多祁御奈刀弥神社」とあります。
「諏訪本宮」の文字が見えますね。




石碑がありましたが、なんと刻んであるのか読めません。穴があけてあるので幟などを建てるのではないかと思うんですが、その場合文字は刻まないですよね。

五角形の地神塔もありました。
御祭神は「建御名方命」ですので父親である大己貴命の地神塔があってしかるべきなんでしょうが
そういうもんじゃないですよね。(文章意味不明か)
注連縄に「鎌の打ち合い」の神紋が編み込まれているのが分りますか?
写真を拡大すると見やすいです。
これはだいぶ痛んでました。
阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、「この地に産まれた」という建御名方命を祀ったもの。という記述があるそうです。


社伝では「信濃諏訪郡南方刀美神社」は宝亀10年(779年)当社より分祀されたとのらしいです。
自分としては出処が未確認なんで書きにくいんですが、複数のウェブサイト(県外の方の)でも
同様の記述を見かけたので記しておきます。
また建御名方神の「名方」は、本居宣長「古事記伝」によると、 阿波の名方郡名方郷に由来するとあるそうですので。


何にしても見かけとは裏腹の(うわ、失礼な書き方)すごい神社ではあります。
県内の人(あるいは石井町内の人)も知らないんじゃないですか。








2009年11月7日土曜日

王子和多津美神社に行ってきました

王子和多津美神社に行ってきました。
と、その前に雨降神社を参ってから。

まず家からですと国府のゴミ処理場の所から入って1キロほど手前の雨降神社の再建された鳥居の横を通っていきます。


それで、雨降神社に参拝。
それにしても隣はホテルって.....。



その後、同じ道を引き返して王子和多津美神社に国府町和田田蒔病院の裏(北側)になります。手前には立派な参道があります。



桃の実かな?と思ったけど橘みたいですね。
雨降神社との位置関係はこうです。
どうも雨降神社の遥拝所らしいと言う説を見かけたので行ってみたのですが
下のGoogleEarthの写真どおりです。方向、位置関係は間違いなさそうです。
なにより行ってみれば解ります。正しく遥拝所だなと感じられる場所です。
どちらも豊玉姫命をお奉りしているのであながち間違いではないでしょう。



2009年10月12日月曜日

山行してきました

散歩がてら八倉比売神社から石井の農業大学まで歩いてきました。
阿波史跡公園の入り口にはこんな看板が。
はい、出没いたします。タヌキやハクビシンはたまに見かけます。
まだ見たことはないですが、猿も時々遊んでるそうです(近所の人談)


おっとピンぼけ写真。
神社の入り口です。神社を通らず登る道もありますが、ここは参拝してから進むのが筋という物でしょう。


登山道自体はほぼ一本道なんですが一カ所三叉路があります。
下の写真の所です。ここは真ん中の道が登山道です。


写真では解りにくいけど道々に古墳の石組み跡が見えます。


山頂です。見晴らしは樹木が生い茂っていてあまりよくないです。
左に埋めてあるのが三角点ですね。


山頂脇にはお社が。


おっと草イチゴ見っけ。ちょっと小さいかな。
コゴミもシーズンにはよく見かけますが、家じゃ食べないんで採りません。


少し歩くと四国電力31号鉄塔のある場所に。
ここは見晴しがすっごくいいです。広くなってるので休憩もできます。
写真は徳島市内方向を向いています。
何年か前はタラの木がたくさんあったのですが。いまは少なくなってます。


おっと、栗みっけ。場所は内緒、っていうか説明できません。


これも写真では分かりにくけどイノシシが地面を掘った跡ですね。


山頂お社のある古墳の石組みです。カメラが悪いので(笑)きれいに写ってませんが
見事な石組みです。

これも同じ場所からの写真です。
あとは農業大学側におりていくだけですが、その途中にもたくさんの古墳の石組みが見えます。これは!と思う所も多々ありますが、少しずつのぞいてみたいということで。





2009年10月11日日曜日

矢野古墳の隅

古墳祭りの後「矢野古墳」近辺をちょっと歩いてきました。
考古資料館の裏からこんな石段を上って、

道しるべの所を曲がると


地味な看板が。

有名な矢野古墳の石室ですが、ここで帰っては重箱の隅をつつけないので山沿いにもう少し進んでみます。
道は崖状に崩れてる所もあるので注意!
とは言ってもほんの100m程度進むと。

おや、こんな石室が。高さ1mあるかないかの大きさです。
上の写真の石室から比べると30分の1の大きさもないくらいです。
もしかしたら子供用?


まだ図書館とかで調べてはいませんが。調査してるんでしょうか?
でも、最近県立図書館に入り浸りです。
ある程度まとまったら書きたいことが色々あるんですが。


古墳祭り

「古墳祭り」が考古資料館でやってましたので行ってきました。


ミニ古墳(前方後円墳)が完成したということで除幕式です。