2010年2月24日水曜日

阿波国風土記について




風土記については、有名な『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残っているという事で往事の貴重な資料となっています。我、阿波国については現存する「阿波国風土記」はないという事になっております。
明治の初年まで阿波藩にも所有し...云々と「道は阿波より始まる(岩利大閑著)」などと言われておりますが実際には無い物は無いとしか言えないということですね。
で、あるのは逸文のみと言う訳で、興味本位で探しておりましたら
まず、逸文として記載があるのは「万葉集注釈」いわゆる「仙覚抄」ですね。
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阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇(崇神天皇)朝庭云、或ハ難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇(仁德天皇)云、或ハ檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇(宣化天皇)云。

萬葉集註釋 卷第一
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中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナトト)ノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。阿波國風土記ニ見エタリ。
萬葉集註釋 卷第二
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湖ノ字、訓ウシホ。不審ナリ。ミナトニツカヘルコトハ、阿波國風土記ニ、中湖・奧湖ナドニモ用之(モチヰ)タリ。
萬葉集註釋 卷第三
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阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。
萬葉集註釋 卷第三
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阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水(しみづ)。此より出づ。勝間井と名づくる所以(ゆゑ)は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。已上。
萬葉集註釋 卷第七
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と「万葉集注釈」には多く出典されております。念のため画像を掲載いたします。



上の画像右ページが「萬葉集註釋 卷第三」の「阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。」の部分です。

そしてもう一つ
『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條に
大門ナタセト,阿波國風土記曰,波高云云.明石浦セトナシ.ナタナルヘキヲヤ

と、あるそうですがこちらの方は原典が確認できてません。
つまりは「阿波国風土記」について過去に存在していた事は間違いなさそうです。
無論内容については、上記逸文だけでも「一般の」古事記解釈をひっくり返す内容満載ですね。

なんで、こんな事を書いたかと言いますと
「阿波郷土会報」なる文書を集めた「ふるさと阿波」っていう書籍を見つけてしまいました。
その中に「阿波国書誌解説」なる一文がありまして
昭和8年12月の後藤尚豊翁手記の記録が後藤捷一氏の書簡として残っているという記載です。
その内容は「風土記編纂掛名面」。
明治初年の頃、藩庁(阿波藩ですね)にて「阿波国風土記」が編纂されていた時のメンバーの一覧です。

一部転載します。
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風土記編輯御用掛  長久館出仕  松浦宗作
末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持
常三島   渡辺 圓
同     八木 正典
御弓町   郡 一郎平
佐古 椎宮下神職 生島瑞穂
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等々とあります。
なお、松浦宗作氏については補注として

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松浦宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」
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と、あります。
なーんでしょうね、これは。
明治初年の頃「阿波国風土記」が数人の手によって編纂されていた?(再編纂?)
それを後藤尚豊翁の手記を基に誰かに手紙を書いた?
後藤捷一氏の書簡?後藤尚豊翁のご子息?
なんで昭和8年?
岩利大閑説では明治5年まで「阿波国風土記」が現存していた?
風土記編輯御用掛(!!!)の松浦宗作氏にしても著書が「阿波国御風土記」(!!!!!)
で、松浦宗作氏は明治十年歿

これってすっごくヤバクないっすか?
なんかとんでもない所に足を突っ込んでしまいそうな.....。
でも「佐古 椎宮下神職 生島瑞穂」なんて方のお名前がある所を見ると
これは絶対「近くに」残ってますよね。全文でなくても。

ま、それにしてもこの「阿波郷土会報」の面白い事。
”あの”応神天皇の陵(みささぎ)ではないかと言われている徳島市八万町の恵解山古墳を
昭和30年に発掘したときの記録なんてもう、しっちゃかめっちゃか(死語)
古墳の発掘に発破は使うは、発掘物はドラム缶に放り込んだままにするは、極めつけは
発掘物を作業員が持ち逃げして、後でそれを見つけて買い戻すなんて、目が点になるよう
な話が満載です。
いくら戦後間もない昭和30年だからといっても、これはないでしょうという有様です。
でも、最近にしても南環状線工事の時、似たような事をやってるんで笑いもできませんよね。

また、石井町中王子神社の事とかが書けなかったよお。
でも、今月はちょっと書き過ぎですね。ぐーたらになってないじゃん。

2010年2月22日月曜日

下加茂神社と鴨神社と加茂神社

唐突に今日仕事が休みになってしまいました。
家には犬しかいないし、図書館は休みだし、と言う訳で以前から一度はと思って
いた下加茂神社と鴨神社へ行って参りました。
残念だったのは町立図書館も休みだったのです。詣でた後で郷土資料など調べようと
目論んでたのに。
高速を使わずにとぼとぼと1時間何十分かかけてまずは下加茂神社へ
天気はどピーカン(最近あんまり使わないかな。おじさんですから)

えー、思ったより小さなお社でございました。
無論、お社の大小と神社の由来とかには何の関係も
ありません。

他のブログで最初にこの扁額の写真を見た時は
まさか徳島に「下加茂神社」とは!と本当に驚いてしまいました。
京都のほうは「下鴨神社」でしたね。



二つ葵だったかなこの御紋は。



ご祭神は玉依姫命
で、例によって「徳島県神社誌」では

創立年代不詳、山城国下鴨神を遷祀せしものと伝える。
明治五年郷社となる「阿波志」に「加茂祠鴨宮に在り」と記し「寛保改神社帳」には
「加茂野宮村賀茂大明神禰宜加茂宮村佐藤遠江」とある。


昭和四十九年発行の「三野町史」をみると
由緒によると、往昔京都下賀茂神社の分霊を奉遷し、当村へ勧請したと言い伝えている。
その後文化8年春、京都から従三位上阿部加賀守が社参として下向し、旧い記録をそれ
ぞれ改め京都賀茂宮より勧請したに相違ないので、葵祭やその外の諸神事など京都と同様
に執行するようにとのことだった。

平成十七年版の「三野町史」では
古書に延暦13年(794)平安遷都を加茂社に報告とあり王城鎮護の神として確立する。

とあるだけ。


さて次に「鴨神社」へ「下加茂神社」からは車ですぐ。
東みよし町役場の前を通って1キロほど。

鳥居の前に立っただけで立派な造りが実感できます。


由緒書きです


これも立派な石段


本社


弓射りっていうのかな?神事を行っていましたので
そそくさとお参りを済ませて退散いたしました。


昭和48年の「三加茂町史」に
当社より一里川上に貴船神社、村内に奈良神社、沢田神社、民神社、若宮神社、新宮神社、
大田神社、片岡神社 以上八社があってこの地を京都に因んで創建されていた。

とあったので貴船神社には行きたかったんですが、土地勘がなくてしばらく探してみましたが、ぶらっと出てきたこともあって場所も調べてなく、迷子になりそうだったのであきらめました。

ご祭神は上の写真にもあるように「別雷神」
由緒として

延喜式内小社、往昔此の地は京都加茂別雷神社の社領で守護神として、同社の分霊を奉斎
したものである。
当社の祭式は壮厳を極め奉仕の神主三人と十人の社人により行われて、福田庄時代には
京都上賀茂神社摂社の神官毎年出張神事を奉掌していた。
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。
また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。
鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」

京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば勧請した時より創立が古いと
いうおかしなことになりますね。
上の写真の由緒書きでは貞観二年以降の創建となってますので861年以降でこの場合年代
に関しては合います。

京都下鴨神社は鎮座年代がよくわからなく、一説には崇神天皇7年(紀元前90年)、また
一説には天平の頃(729年から749年までの)京都上賀茂神社(あー、京都だの三加茂だの
ややこしい)から分祀されたとのことです。

で、要は鴨神社、下加茂神社とも京都から分祀されたということらしいんですが、ここに
それは逆ではないかとの説があるようです。
つまり「鴨神社」「下加茂神社」が京都「上賀茂神社」「下鴨神社」の元宮ではなかった
かとの説です。
少し上に書きましたように京都上賀茂神社の創建より鴨神社の創建が古いかもしれないと
いう事、また「阿波志」にある「旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」の伝でいえ
ば「事代主の神孫、鴨王是也」鴨族の王の祀られている所がいわゆる本家、本元といえな
いでしょうか?
もうひとつ、これには異論があるでしょうが、まず京都上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)です。
Wikipediaなど見てますと「賀茂別雷命」の「別雷」について「『別雷』は『若雷』の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である。」となってますが、見方を変えれば「賀茂から別れた」つまり賀茂族(鴨族)の分家の意味にとれないでしょうか。

下の写真は詣でてみたものの詳しい資料がなくて
そのままにしていた、徳島市加茂名町の
「加茂神社」です扁額は「加茂宮」となってます。


由緒書です

ここも加茂族(鴨族)の居地であった加茂名であり「別雷命」を祀った神社でありますが
京都から出張神事を行ってたなんて話聞いた事もないです。
ほんとに京都の上賀茂神社、下鴨神社が本家本元なら全国の加茂社へ毎年毎年「出張神事」
を行ってなくちゃおかしくないですかね。
「鴨神社」「下加茂神社」に何かがあるからこそ「出張神事」を行ってきたんじゃないでしょうか。
ただ、本当に「鴨神社」が京都「上賀茂神社」の元宮だったかどうかといえば「?」
としか言えないでしょう。状況証拠だけですからね。
特に京都「下鴨神社」の鎮座が崇神天皇7年(紀元前90年)で正しいということになれば。
でも、かなりワクワクする説ではありますね。

ワタクシゴトではありますが、学生の時、京都上賀茂神社の近く(50mくらい)に下宿
しておりました。(うわ、学校がわかってしまう)
校歌も、なんと「天地の開けし時由....」で始まってしまうんです。
学校のある場所も「神山(こうやま)」なんですね。

偶然か否か。いやいや「奇縁」と思うばかりです。




2010年2月19日金曜日

御瀧神社と尼寺古墳群(追記)

2010年2月5日の記事で御瀧神社と尼寺古墳群について、海城が徳島市の加茂名だったなどと
世迷い言を追記してございましたが、その後に「道は阿波より始まる(その3)」を繰って
おりますと

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気延山の北端に茶臼山と記された右側に「尼寺(にじ)」の地名がのって
いますがこのたりが有名な阿波国一の城海城(あまぎ)のあった所で、阿
波国古城記で倭建命の皇子長田別王より以後代々国王の城とせし古城跡と
記されていますが......
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とあり、この伝でいえば、先の記事もあながち間違いではないのではないかと、もうすこし
言えば結構当たってるんじゃないか、さらに言えばかなりいい線......
という訳で、古代史は難しいということですね。



で、おまけとして「続 石井昔話と藍の歴史」なる冊子をを繰ってみると
(「続」しか見当たらないんです。先の「豊玉姫の機織り」の参考書は
「いしい乃昔話藍と農業史」だったし、なんでかな?)

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鳥坂辺りの昔話   坂本 新太郎
御瀧神社の石段は尼寺の地盤石を使用した気延山上の駒撃松を切り倒した
時に根基が雨で洗い出して義経の守本尊観音さん一寸八分が露出していた
ので........
(以下ちょっと差し障りがありそうなので略)
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変な文章でしょう?
神社の石段が何なのかさっぱり分りません。
(じゃあ、書くなよって?)
御瀧神社の名前が出てきたのでちょっとだけ紹介してみました。
写真はないし、後半は訳分んないし、いよいよ痴呆症が始まってますね。
単に材料がないだけかも。

2010年2月14日日曜日

「烏の森」と「天皇さん」

昨日に引き続いて「烏の森」についてです。
調べてみたら(この書き方はよくありますが、何を調べたか全く分らないんで意味がないですよね)
それで「高川原村史」等を見てみると「烏の森」は石井町高原の「王子神社」境内のことでした。いくつかの遊具もあり「烏の森児童公園」となっているとの記載がありました。
GoogleMapで場所を調べていても「豊玉毘売神社」としか表示されないので、とにもかくにも行ってみると「王子神社」でありました。
主祭神はもちろん「豊玉比売命」
由緒として
延喜式内の神にして、もと王子権現と称す。「名西郡誌」に「社殿宏壮千歳の神樹は鬱然として森厳を粧いしが大正二年五月焼失し再び新築を起工同四年一月竣成、廟貌厳然旧時に増す」と見える。俗に「からすの森」と称す。飛地境内社に野神社(桑島148)野神社(池北107)山神社(池北186)八幡神社(桑島6)幸神社(池北64)の五社がある。

立派な鳥居と広い参道があります


いかにも「森厳を粧いしが」という雰囲気です。


ここ(境内入ってすぐ左)に「豊玉毘売神社」の碑が。


神殿はこの奥にも二つ


「社殿宏壮」「廟貌厳然」のままです。


見てください。いかにも「烏の森」ですね。
写真を撮ったときも子供たちが遊んでました。



この地で豊玉姫が機を織っていたなんて想像すると、わくわくしてきますね。

さて、今回はもう一つ。
これも昔話からですが
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天皇さんの由来  笹田 嘉吉

天皇さんと呼ばれる所は各所にあるが、この天皇さんは外の所と違う。
桑島の南端から南島の二ツ森神社東側に通じる道路の南側、すなわち桑島の最南端に木立があり昔は塚や五輪塔があった。
この塚が天皇さんである。
この天皇さんは、神功皇后が三韓征伐のみぎり、阿波に立ち寄ったとき、しばし留まった所である。
祖先、豊玉姫神社に詣で、ここで休息したのであろう。
人呼んで天皇さんという。
歴史家や村長森氏が調査をしたが資料となる物は何一つ出なかった。
老樹が二、三本あったが伐採されて残っていない。
伝説として子どものころよりよく聞かされていたので記しておこう。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著

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「神功皇后」と「豊玉姫」がここにも登場します。
「しばし留まった所である。」と断定しているのがうれしいですね。
位置関係としては、南から北へ「二ツ森神社」「天皇さん」「豊玉姫神社(王子神社)」です。下の地図を見てください(クリックすると拡大します)。



「天皇」の文字と赤い枠は後から付け足しました。


こんな所です。



これが五輪塔跡かとも思いましたが跡はないようです。



小さな鳥居と祠があり覗いてみると「大山祇命」が祀られておりました。
調べていると(いけね!)次から次へと新しい材料が出てきてキリがありません。
石井町はどうなってるんでしょうか。
中王子神社、神宅神社等々のことがいつになっても書けないじゃないですか。
(ほんとは喜んでる)



2010年2月13日土曜日

豊玉姫の機織り

むかしばなしを聞いてください。
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豊玉姫は海神なりという。
高千穂より海路浪速へ行く途中なるとの沖で暴風雨に遭い橅養の地に流れついた。
道を北山山嶺に沿い西へ西へ。
「わらわ」が住み心地よき土地を求めんとしてこの地かの地をさまようこと幾歳月。
ようやくにして見付けし所現在の石井町高原の地なり。
ここに庵を建て、わが住居とす。夫君「火子穂々出見命」も来たりてしばし安住の地とせん。
庵の西側に機織屋を建て養蚕を行い糸を引き教え機織を織りて日々を送る。
附近の人々に養蚕を教え機織を織らしむ、そうして暮らしの助けとせん。
人は豊玉姫様と尊敬し奉り、珍しき物あらば献上す。
いつしか歳も過ぎ、大和の地へ出発の日が来りたり。
人々は別れを惜しみ海辺まで見送りたり。
夫君「火子穂々出見命」とともに船に乗り、浪速津より大和へ。
しかし賊多く大和への道険悪となりて引き返し淡路一宮へ戻りたり。
祖先が伊ざなぎ、伊ざなみ命の過ごしたる土地と、多くの人々大いに歓迎せられたり。
その後、豊玉姫一人再び阿波へ来たり、先の地へ永住を決意したり。
以来「火子穂々出見命」たびたび来駕し、夫婦ともに幾歳月を過ごし、養蚕を始め、粟・ひえ等の農業を興し、国利民福を図った。
病を得て八十二歳を一期としてこの地で亡くなられたという。
後に遺骸を他の地に移し奉ったので、今は社があるだけである。
はた織りの神様として知られている。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
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驚きました。このブログを読んでくれるような人には、阿波に来るまでの経緯には異論があるとは思いますが、石井町高原に住み、82歳で亡くなられたとまで書かれています。
「『火子穂々出見命』たびたび来駕し、夫婦ともに幾歳月を過ごし」
おいおい豊玉姫の夫君「火子穂々出見命」ってこの本では一部字が違うけど火遠理命(ホオリノミコト)じゃないですか。つまり山幸彦。

ホオリ(火遠理命(ホオリノミコト))は、日本神話に登場する神。別名 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみ)、日子穂穂手見命(ひこほほでみ)、虚空津日高(そらつひこ)。山幸彦と海幸彦の説話に登場し、一般には山幸彦(山佐知毘古、やまさちひこ)の名で知られる。 神武天皇の祖父。 Wikipediaより

こ、これって。

さて、もう一つむかしばなしを。
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二ツ森神社
高川原村は東西に長く、西は高原、浦庄に接している。
西の端が南島で、村外れ近くに神社がある。
この社は東向きでたいていの神社なれば南向きである。
一社であるが人呼んで「二ツ森」さんという。
北と南に森があって、社も二つあったがいつのころからか一社になった。
古老いわく、藩政時代からであるという。
一説には豊玉姫阿波入国のみぎり、この地に滞在したということを聞いた。
烏の森が近いので、なんだかうなづける点もある。
二ツ森さんの北側に川が流れ、いったん雨が降ると川は氾濫し住民が困る。
二ツ森さんの住民集まりて土袋を作り、関をしたりして防水につとめた。
川の北側に低いながら土手が築かれたが、南側には土手がなかった。
郷の守り神として古くからあった。
その中で以上のことを伝えるため一項を書いた。
森の中に楠の木があり、その木に大蛇が住み男に化けて村の女の所に来るので、村民が相談して殺そうとして、山分より薪材を買ってきて山積みにして楠を焼き大蛇を殺した。
大蛇の首は東禅寺に葬ったが、火災に遭い焼けてしまった。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
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ここにも「豊玉姫阿波入国のみぎり、この地に滞在したということを聞いた。」と
ありますよね。うーん。「二ツ森」さん、もしくは「烏の森」のところですか。
では、「烏の森」って?と、思ってましたら.....。

三つ目のむかしばなしを。
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烏の森の起こり  元木 國太郎
豊玉姫のはたおりは、この烏の森で行われていたという人と、その西に寺の跡(宝光寺)であったという人の二説あって筆者もいずれが真実であるのか判断に苦しんだが、いろいろ調べてみると宝光寺跡も烏の森も地域が一つで境内の中であったことがわかった。
神仏混合の時代、宝光寺が豊玉姫神社の別当であり、その同一境内であったので今さら区別する必要がなかったのである。
杉、桧、椋、榎、銀杏、樟生え繁り昼なお暗い神域でここに烏が集まり、巣を作り、ねぐらとして生活し、四六時中烏のなき声の聞けないときはなかったので、人呼んで「烏の森」というようになり、遠隔の地の人々も知らぬ人はいない。
これもはた織りや農作物の守り神として尊敬され、参詣に来られる人が多かったので自然に名前が伝わったのであろう。
明治四十三年頃、高原東小学校があった。

いしい乃昔話藍と農業史 上田利男 著
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もうここまでくると、豊玉姫が石井町高川原に住んでいたことは既成の事実となっています。
住居が「烏の森」か「宝光寺」の考察に至ってます。
愕然といたしました。
「今さら区別する必要がなかったのである。」などと、すらっと流してますが「えらいこっちゃ」じゃないでしょうか。
豊玉姫が石井町高川原で機を織って暮らし、八十二歳で亡くなったなどと書かれている史書を何かご存知の方があればぜひぜひ教えてください。
自分としてはとにかく驚いてます。
でっちあげとかにしては話が具体的すぎますよね。
むかしばなしって言うには余りにもってという内容じゃないですか?
それともみんな既に知っていたとか。

それでは、とにもかくにも「二ツ森神社」へは行って参りましたので写真など。



境内外に地神塔がありました。

で、地神塔のとなりに「日枝神社」です




二ツ森神社 旧村社
名西郡石井町高川原
主祭神 大己貴命
由緒  創立年代不詳。もと大万村に在ったのが洪水のため社殿流出現社地に遷る。
飛地境内社として日枝神社がある。  徳島県神社誌

下2枚の写真が飛地境内社の日枝神社です。飛地と言っても数十mですが。
また、「高川原村史」には境内石碑に関する記載が在りましたが、内容はほぼ上記2話
目の「二ツ森神社」に書かれてある内容と同じ物でしたので割愛します。

「烏の森」、「宝光寺」についてはまた改めて書きたいですね。


前の記事(2月11日)では、ちょっと分けの分らないことを書いてしまったので、そのことはとにかく忘れてしまいましょう。










2010年2月11日木曜日

豊崎八幡神社

徳島県徳島市名東町1丁目の「豊崎八幡神社」です。
先に書いておきますが、この神社よく分りません。
バカヤローな宣言ですが、私めの調べた範囲では
ほんとによくわからないんです。
もちろん調べ方が足りないんでしょうけど。

で、ご祭神が誉田別命(応神天皇)、天照皇大神、菅原道真公。
そうですよね、前に書いた「産八幡」の近くです。
ここにあってもなーんにもおかしくないですよね。

由来です。
神社明細帳に、当社は往古筑前宮崎より勘定したるよし、年歴不詳
鮎喰川当山麓を流れて渭の津に通ず。天正年中蜂須賀公渭の津城を営み
市郷の水災のため大手囲堤防を築き今のごとく水流す。古の川筋皆田面
となる故に字豊崎と称す。よって豊崎八幡宮と称す。

大阪の豊崎宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があって、「大化改新」の舞
台となった有名な場所ですが、この神社を勧請したのは大阪からじゃなく
宮崎から。宮崎のどこから勧請したのかは、よくわかりません。
年歴不詳なのでよけいに見当が付けにくいんです。

また、ここは国府町西矢野の八倉比売神社と国府町早渕にある一の鳥居
あとを結ぶ線の鮎喰川を挟んだ対岸にあります。
まあ、それで行ってみた訳なんですが。
ぐだぐだ書かずに写真を載せます。


入り口鳥居です「豊崎八幡宮」碑がみえます。
地神塔があります。(地神塔って憶えましたよ)



とにかく、こんな所にこんな大きな神社がと、驚くほどの規模です。



延々と石段を上っていきます。



ご本殿です。

境内社として天満神社、神明神社がありました。
鮎喰内にこれに対応する三社があり、豊崎八幡宮の飛地境内となっている
そうです。

で、孝徳天皇の宮殿跡があるそうなんですが、よくわかりませんでした。
地蔵院近くに神明神社があり、地蔵院庭の「穴不動古墳」は孝徳天皇墓
ではないかとの記述も別に見かけたのですが。出典がやはり分りません。

Web上で見かけた「鮎喰•人権サイト」には「だんじり差別事件」なる記事
も載っていて、いよいよ分らなくなってきております。

なんか今回は不完全燃焼もいいとこです。
もっと調べてから書けばよかったかな、なんて思いながら....


2010年2月7日日曜日

産八幡神社

徳島市の南蔵本町1丁目1にある産八幡神社です。
「海の宮」にあります。もちろん古からの立派な地名です。
元は「宇弥の宮」といっていたそうです。
GoogleMap、YahooMapで見てもちゃんと表示されます。
御祭神は誉田別命、息長足比売命となっております。

息長足比売命については

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。 父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。彦坐王の4世孫、応神天皇の母。Wikipediaより


徳島県立中央病院の東からまっすぐ南に突き当たると、上の写真の神社の入り口が見えます。


このように立派な灯籠も建っています。入り口から少し右(西へ50m)に駐車場もあります。

で、鳥居を潜って登っていきますと、


うーむ、これはないでしょう。神功皇后をお祀りしているんですよ。
と、思って裏を覗くと。


おお、神々しいお社が、いや逆光になってるだけですが。
でもこのご本殿もだいぶ痛んでおりました。



灯籠には「宇弥八幡」(弥の文字にさんずいがついている)と刻まれてます。


さて、「徳島県神社誌」にて由来を見てみると。(長いぞ、入力めんどくさい)

創立年代不詳「阿府志」に「宇弥祠荘村にあり、宇弥すなわち海也。三代実録に従八位
上海直豊宗、外少初位下千常等あり蓋し遺廟也、或は曰く日本書紀に足仲彦天皇九年皇
后新羅に従い帰り十二月朔誉田天皇を筑紫に産む、時人其所を号て宇弥と曰う。恐くは
迎えて之を祭る也」とある。

「筑紫に産む」この部分さえ解れば何のことはないですね。
筑紫は地名ではなく、形容詞です。いわゆる「櫛でといたように(日の光が)さんさんと」降り注ぐ様を表してます。ちなみに日向は「日当りがよい」ことを示します。
もちろん「ひむか」と読む時はです。
そして「時人其所を号て宇弥と曰う」の部分、最初に書きました。ここは「海の宮」
もとは「宇弥の宮」、「宇弥すなわち海也」
ここじゃないですか。この地じゃないですか。応神天皇がお生まれになったのは。
こんなに分りやすい説明ないですよね。どうですか。

「徳島県神社誌」もこんな記述を載せている所を見ると、このことが言いたくて
仕方なかったように見えるんですが、多分当たってますよね。

福岡県の宇美八幡宮じゃありません。いずれ詳しく調べて書きたいと思ってますが
応神天皇は徳島市の応神町で幼少の時期を過ごし、眉山近くの恵解山古墳に葬られ
ています。
また、応神天皇の3人の妃は石井町の東王子神社、中王子神社、西王子神社に祀ら
れております。こんな場所が他にありますか。
(この三社については何度か詣でてます。もう少し調べてから書きたいですね)

そして三韓征伐の帰りにとのことですが、どうも仲哀天皇は新羅に行っていないとの
説もあり宇美八幡宮でとの通説は個人的に怪しんでおります。
(あくまで個人的にね)







2010年2月5日金曜日

御瀧神社と尼寺古墳群

石井町尼寺の御瀧神社を参拝しました。
いつも横の道を通ってるんで気にはなってたんですが、ここも駐車場がないので
行きづらいこと、行きづらいこと。
で、祭神は国常立尊。石井町史および徳島県神社誌には
「明治43年同地鎮座の稲荷赤馬両神社を合併」
と、これだけ。なんのことやら。
例によって(よらねーよ)石井町公民館で白い目で見られながら(変なおっさんなんで)
資料を繰ってたんですが、どうにも見つからなかったです。
どなたかご教示ください。(こんなのだれもみてねーよ)
まあ、自虐の詩はこれくらいにして、気になるのはここが尼寺古墳群の一部であることと
白鳥宮の東であるらしい海城がここらじゃないかなと思ってみた訳です。

手前の鳥居より。

二の鳥居






お社。裏はすぐ切り立った崖です。


で、下の写真はお社のすぐ南側の崖です。
見にくいですが立派な石垣が組まれています。
ここまでが御瀧神社。そしてこの小山の西へ廻って。
尼寺古墳群の表示のある登り口。
すぐ西はかの鳥坂城跡

尼寺古墳群の表示から登っていった所。
この写真で分りますか?
古墳といえばそうなんですが、どう見ても山城、下の写真、こんな感じの石組みが
びっしりと。
この付近の国道192号線沿いを見てください。
「仏壇のもり」手前から喫茶「花杏子」を過ぎるあたりまでずっと石組みが残ってます。



で、ここからは勝手な想像です。
下の写真の青く囲んであるあたり
もし海城が実際に存在しこの辺りであったなら
城跡の範囲はこうでなければならないと考えます。




(訂正)後で分りました。海城は加茂名なんですね。「海の宮」の地名があることを知ってながらこのていたらく。ああああああああああ。
でも、下の文は残しておきます。この範囲が意味持つ可能性もなきにしもあらずということで。





鳥坂城は多分古墳の石組跡を利用して作られたはずであるし
2つの山の北側にずっと石組みが残されているのを見ても
この範囲でなければならないと(個人的に)考えます。

あくまで私見(妄想とも言う)ですが。

ちなみに上の写真の尼寺古墳群のピンを立ててある場所の少し北側に
こんな石室が祀られておりました。



ああ、今日は長編(ワタシ的に)