2017年10月29日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(6)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)
麻植の系譜:願勝寺編(5)

★ご注意★
以下の記事は実際の資料に基づいて記載しておりますが、内容はあくまで私見であり、当記事の内容に基づいた見解について、当方は責任を負いかねますのでご了承願います。
また関係者への影響を鑑みて、この記事の内容の転載、引用による記事や動画の作成についてはお控えいただけるようお願い申し上げます。
特に、極端に内容を曲解された記事・動画等については直接指摘させていただく場合もあります。

ごめんなさい、固苦しい注意書きを書いてしまいましたが、関連の方々に心ない照会が入ったり、変な記事や動画が流布されるのはワタクシめのもっとも嫌うところなんで、ご理解願います。


と、言いつつ今回の記事は実は書きたくなかったんです。
前回までの系譜(一部)を見てください。

初代福明律師
朱鳥元年(686)三月十日律師遷化しよつて律師の名を後代に伝えん為め維摩寺を改めて福明寺と号す

三代大福上人
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年(724)秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り

四代実厳法師
外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり聖武天皇の朝天平十三(741)辛已年八月部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す

五代実念法師
伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年(803)八月四日行年五十一歳にて寂す

七代智鑑
春秋八十二才にして天元四年(981)三月十日寂す

と年号あるいは日にちまできっちり記載されております。
以降、日本史のブラックホール南北朝期においてもなお記録は続きます。
こんな、貴重な史料があるいは興味本位にしか見られないかもしれないので、あまり書きたくなかったのです。
と言っても、結局書いてしまうんですけどねぇ。
では。


十二代了海上人

随伝上人の譲りを受け当院の主となり益寺門繁栄の処源平両家の争ひによつて諸国大乱の世とちるうちに此阿波國は平家の領地として阿波民部守護する処

平家一門衰運あたって東国所々の合戦敗軍となり遂に安徳天皇を守護し平安城を落て西海の浪に漂ひ九州にも安堵ならす

長門の守護代紀の民部大輔光季阿波民部大輔紀の成長と心を合せ讃州屋嶋に大城を築き智術を以て四国中国を打従へると雖

所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ

共真の安徳帝は麻植正高の末子也と世間を欺き 此阿波の奥山に無恙在 御生長の後正高の智君とし御子迄誕生有りしかと九州より御迎の使毎々に及ふによつて 御病死と偽り御出家となつて義法坊一人御供にて彼国に赴き玉ふ

此阿波の奥山に隠れ居玉ふ人々には越後守国盛郷小松少将真盛郷の御に方也年月を経て真盛郷の御子真盛入道して真盛法師と云

上京して北野に一字を建立して真盛寺と云一門の亡魂を弔ひ玉ふ阿波國にも願勝寺に阿弥陀堂を立てて平家一門の菩提とす

国盛郷の御子孫は地名によつて阿佐氏又は脇氏と号し直盛郷の御子孫は小松家なるによつて松本氏と号し後は松永氏と改め玉ふ其未々の平家此国に跡を隠すの輩数々なり

皆々阿波民部の計議によつて忌部神領の内麻植の奥山にかくれて時運の開くを待玉ふ又所縁によつて四国中其外他国に赴く族も多かりけり就中阿波郡朽田庄青蓮院は直盛郷御出家の後御住居ありし旧寺也


あーあ、出しちゃったよ。

所詮聖運の開かさるを知て 阿波民部成良忌部大祭主麻植邦光ら頼みて 寿永二年の奉 帝王を麻殖の奥山に隠し 門脇中納言教盛郷の御子 越後守国盛の嫡男国若丸 安徳天皇と御同年の故に是を安徳天皇と称し 平家一門守護すれ共運の極めには長門国壇の浦にて入水し果玉へ

「国盛」は「平 教経(たいら の のりつね)」の幼名であり、いわゆる「平教経生存説」において阿波国の祖谷に遁れた後、「国盛」と名乗った件にもよります。

平教経

「寿永二年の奉」というのは、いわゆる「寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)」のことで、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した宣旨といわれており、朝廷が源頼朝の覇を実質的に認めたもので、この報を受けた平家一門は「所詮聖運の開かさるを知て」終末への途を辿っていくのです。

この「国盛」嫡男「国若丸」が身代わりになって壇ノ浦で入水し、安徳帝は「麻植正高の末子」として「阿波の奥山」で成長し、後は病死とし出家となり「義法坊」と供にして「彼の国」に赴いたとの記載であります。
残念ながら「彼の国」がどこなのかはわかりません。

しか〜し、安徳帝替え玉説は数々あれど、ここまで詳細に仔細を記した史料が他にありましょうか?(あったらすいません(笑))



祖谷の伝承では
 讃岐屋島の合戦で敗れた平家の門脇中納言教盛の第二子従四位越後守平国盛は,手勢百余騎をもって,安徳帝を奉じ讃岐白鳥から大山を越え,三軍に分かれ一軍は安徳帝を奉じ,一軍は先頭,一軍は国盛自ら率いて追っ手の敵を防ぎつつ,重臣32人を連れて,寿永2(1183)年吉野川を遡り,旧三好郡井内谷と東祖谷の境にある寒峰の峻険を越え,東祖谷に入り,大枝岩屋に身を隠した。
 その時は12月大晦日であった。
 翌朝,名主喜多氏の宅へ行くと,元旦の酒宴を催していた名主は国盛の立ち入りを拒んだので,ついに合戦となり,喜多氏は滅ぼされた。国盛は大枝にしばらく滞在していたが,阿佐常陸守の招きにより阿佐に引き移り定住した。
 安徳帝を奉ずる人は,麻植郡より石立山へ護衛して行き,そこで暫くいたが,国盛が祖谷を平定したことを聞いて祖谷に入った。久保大宮の下に樹木が茂っている処を通るとき梢倒(しょうたおし)しにして通ったので「鉾伏せ」という。
 帝が石の上に立ち装束を着替えたので,その石を「装束石」という。谷を渡るとき,帝を手から手へ移したから,そこを「皇上の手橋」という。
 これは久保の墓層にある。これより字中上に移り暫く滞在しているとき,不思議なことに寒中蛙の啼く声を聞いたので,「朕の住むところは蛙の鳴く所なり」と仰せられた。
 そこより川下に下り栗の枝を切り,橋として渡ったので,その付近を「栗枝渡」と呼ばれるようになった。
 その後,川下の京上の平地に宮殿を造っていたが,大水のため崩壊し,再び栗枝渡に移り,間もなく崩御した。
(「日本伝説大系第十二巻」)
ということです。

実は、土佐にも安徳帝生存伝説がございまして、「横倉山自然の森博物館ニュースvol.19」によれば

安徳天皇陵墓参考地
 『平家物語』によれば、安徳天皇を率いる平家一門は、文治元(1185)年3月源平最後の合戦である長門の「壇ノ浦の戦い」に敗れ滅亡したとされるが、天皇の御遺体が行方不明であることから“天皇生存説”が持ち上がり、各地に安徳天皇潜幸伝説が残っていて、「安徳天皇陵墓参考地」(宮内庁所轄)と称されるものが全国に5ヶ所存在する。
 ここ高知県越知町に伝わる伝承では、1185年2月の屋島の「檀ノ浦の戦い」の段階で、合戦の最中に天皇の身代わりを立て長門へ向かわせ、本隊は阿波の豪族・田口成良に導かれて四国に上陸したとされている。
 天皇一行は、「かずら橋」で知られる阿波国美馬郡東祖谷山に最初の行在所を造営し後、土佐国に入った。その後四国山地を横断するように、西熊山・御在所山・稲村(稲叢)山・宮古野(都野)・越裏門・椿山・別枝都と行在所を構えながら潜幸し、最終的に横倉山に辿り着いた。
 横倉山は要害の地であり、この地方を治めていた修験道の先達・別府氏の支援もあり、ここを終焉の地とした。
横倉山の行在所跡は、陵墓(参考地)と随身たちの屋敷25軒のあった「天の高市」(“別府の都”)のほぼ中程の、天皇が京の都の平安宮を拝したと伝えられる「平安の森」と小沢を隔てたすぐ南の小高い丘陵にある。
 当初300余名いた随身たちも、横倉山に来た時は80余名にまでなり、天皇が崩御された後、天皇の陵墓を取り巻き護衛するように、天皇に随行した平家一門と随身たちの墓が築かれた。
横倉山の山中にはそれら88社があると言われ、うち77社が確認されている。
 安徳天皇は、正治2(1200)年8月8日、病のため御歳23歳で崩御され、御遺体は生前天皇が従臣たちとよく蹴鞠をして遊ばれた想い出の地“鞠ヶ奈呂”〔字名:「鞠ノ場」〕に葬られた。
陵墓は、幅約3.7㍍、111段の途中で緩く「く」の字状に折れ曲がった石段を登り詰めた所にあり、御影石(花崗岩)製の二重の玉垣が巡らされていて、全国に5ケ所ある陵墓参考地の中でも一際規模が大きく荘厳なたたずまいを見せている。
地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」(正式には「越知陵墓参考地」)と呼ばれ、以前は25㍍四の隅に“鞠掛の木”“神かけの木”が植えられていたという。
 “鞠ヶ奈呂”は、山頂部の広大で平坦な地で、すぐ西隣には、天皇が乗馬を練習されたといわれる“御馬場跡”がある。
 現在は推定樹齢数百年のアカガシの原生林に覆われ、陵墓一帯は県内唯一の宮内庁の管轄下にある。

微妙な差異と、微妙な一致が見られるようです(笑)。
あるいは、阿波出国後の後日談でしょうか?
ただし、書いておかねばならないこととしてこの安徳帝一行を先導した「田口成良」、
「平家物語」によれば、嫡子・田内教能が義経に投降したことにより成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返ったとのことであり、これが寿永4年の二月。
その五月に田口成良と教能親子は、平宗盛と共に鎌倉へ護送され、処刑されております。
あくまで「平家物語」によりますので、史実との正誤は確認し難いのですが、この通りであれば、安徳帝の先導は到底不可能であると思われます。

ちょっと話が外れてきたようですが、あと一つだけ
宮内省(当時)が定めた安徳天皇の陵墓参考地は以下の通り。
鳥取県鳥取市国府町岡益    安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地)
山口県下関市豊田町地吉    安徳天皇陵(西市陵墓参考地)
高知県越知町横倉山      安徳天皇陵(越知陵墓参考地)
長崎県対馬市鴫原町久根田舎  安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)
熊本県宇土市立岡町晩免    安徳天皇陵(花園陵墓参考地)
となります。

では麻植氏系図では
寿永二年阿波民部成良長良ノ瀬ニ依テ麻殖内山ノ奥ニ丸木ノ御所ニ造リ帝王ヲ置奉リ
其後元暦元年ノ春成良ノ子田内左エ門成直源氏ニ降リ本國ニ安堵スル事ヲ得テ益帝王ヲ尊崇シ奉リケレバ共ニ源家ノ後難ヲ恐レ帝王守護ハ邦光受持トナル
帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ甘一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前の国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ
供奉ニハ義法坊ナリ是九州尾形原田等御迎ヲ奉ル故ナリ
帝王崩御ノ後ハ一寺ヲ建テ神重社ト云帝王ノ御跡ヲ慕ヒ僧トナリ菩提ヲ弟ヒ奉リ平家一門ノ公卿ニハ越後守國盛小松三位直盛御両所ナリ
此御両所ノ子孫麻山ニ止リ表ハ麻殖氏ノ一族ト唱へ帝王ノ王子ハ猪内氏ト改此山奥ニ住皆麻殖氏一族氏一族ナリ
後ニ小屋平ト改國盛卿御子ハ阿佐氏ト改直盛卿御子ハ松永氏ト改北山奥ニ住皆麻殖氏一族苧山苧野原等ノ一累ナリト唱フル故源家ヨリ何障モ無ク目出度栄へ玉フ
王子御剣ハ麻殖内山ノ奥石立山神社ニ奉納シ後ニハ御劔ノ宮ト称シ神トシ奉祭其式ハ内裏古例ヲ用ヒテ退轉ナシ

阿波民部(田口)成良の子「田内左エ門成直(多分「田口教能」のこと)が源氏に加担したことで安徳天皇を守れないとし、麻植氏五十代当主「麻植邦光」に守護を任せた。
安徳天皇は21歳の時九州豊前に移り、その後肥後に移り、その共は「麻植邦光」嫡子「義法坊」であった。

祖谷の伝承、「願勝寺家系譜」「麻植氏系譜」を併せ読めば、およそこういうことでしょうか。
当然ながら上記三つの史料は齟齬なく読むことができますが、土佐の伝承はこれらとは少し違ってきます。
判断は、拙文を御読みになった方にお任せするとして、次回に続きます。

ふえ〜、今回はこんなになっちゃたよぉ

2017年10月22日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(5)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
麻植の系譜:願勝寺編(4)

そろそろ盛り上げないと、苦情がきそうなんで頑張ってみます(笑)
なのですが、
★ご注意★
以下の記事は実際の資料に基づいて記載しておりますが、内容はあくまで私見であり、当記事の内容に基づいた見解について、当方は責任を負いかねますのでご了承願います。
また関係者への影響を鑑みて、この記事の内容の転載、引用による記事や動画の作成についてはお控えいただけるようお願い申し上げます。
特に、極端に内容を曲解された記事・動画等については直接指摘させていただく場合もあります。

ごめんなさい、固苦しい注意書きを書いてしまいましたが、関連の方々に心ない照会が入ったり、変な記事や動画が流布されるのはワタクシめのもっとも嫌うところなんで、ご理解願います。

ではでは。


十一代隨伝






板野郡田上の人なり即ち其姓も忌部氏なるによつて德光上人後住下定む此隨伝代中板
野郡大麻の宮に神宮寺を立つ
霊山寺と改む此随伝長寿して百歳に余れるの故に世の人長寿上人と云

当今後冷泉院の勅命として永承四年仏舎利二粒を忌部八倉の両者へ奉るの大祭主麻植
正光随伝をして舎利堂を建しめ其身も感得の事有るによつて、神務を其子正光に譲り
仏門に入刺髪して実名を其儘正光法師と改忌部十八坊の貫主となり法福寺に住す。
上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり

麻植忠光も亦壮年にして父の志を嗣神務を其子為光に譲り入道しら蓮光法師と号し上
京して仏道を修行し諸国に巡り後は紀州高野山に草庵を結ひ住せしか
久寿二年乙卯二月十五日寂するの故に世の人涅槃坊と云父正光法師是を聞此菩提とし
て忌部郷麻植の地に蓮光寺を建立して其名を伝ふ
此正光蓮光共に皆随伝の門弟なり

七十七代後白川院の朝保元の乱に新院の軍破れて讃州に遷され玉ひ藤原頼長家司藤内
左衛門範景入道して蓮心法師と号讃州に来り
白峯の御墓を拝し草庵を結御菩提を弔ふ処阿野大領高遠より障るの義あつて阿波へ移
り当寺に寄宿し三ケ峯の神社に新院の御霊を神と仰き祭るの所
是亦讃州に近きの故に禍の来たれる事を恐れ麻植の宮内に至り麻植為光を頼して此社
地に新院の御霊を白人宮と称し祭るの所鎮西八郎為朝も伊豆の大嶋より遁れ来り此白
人宮を拝し永代の祭りを為光に頼み置予州へ立越え三つが浜より九州に渡り後は琉球
国に至ると云

新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云
天皇讃州白峯にて崩御の後よつて天皇の志を汲んて大に慣り法体して天円法師の弟子
となり内心には天皇の恨有悪人共を蹴殺し玉へと、天竜八部を始め日本国中の霊神に
祈りけれども表は天皇菩提の為と披露しければ当今の帝愍(びん:あわれむ)之一宇
の堂を創立して内侍尼を置奉る

其後崇徳院の神霊内裏に現はれ御身に仇をなせし人々皆恐怖し遂に悪死しければ天皇
の罪なき事顕はれ宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを内侍尼聞賜ひ大
に喜ひ我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号すれ其元と四国より光物都の方
へ飛来りしより起りたる堂ちれはとて飛来山光り堂と京中の貴践名付ける故光り堂と
いふ世間に広く聞へけり
此願勝寺の名都近くしては忌憚の義も有とて内侍尼の母儀出世の地阿波国へ移し天円
師の弟子了海上人を開起として阿波上郡に一宇を立願勝寺と号すべしと内侍尼の頼に
より了海上人は即麻植正遠の二男なれは此国は本国なる故大に喜ひ一宇ら建立せんと
皈国し国中を勧化し此計義をなすと雖此事朝廷への恐れありと訪くる人も有故無拠福
明寺に来り随伝上人に談しけれは上人曰
此福明寺は其名俗なり旦つ弘法大師留錫の後は真言宗なれ其元とは三論法相兼学の寺
也今真言宗と決定せし上は兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へ
り且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍
其菩提を用ひ奉る
爾時仁安三年三月の比西行下云大德讚州三斗數し来り白峯の御墓を拝し是亦御菩提の
為松坂と云所にて草庵を営み朝夕天皇の冥福を祈りけるか内侍尼の由縁なりと阿波へ
来り此願勝寺に寄宿し数日法話の上庭前の松に題して一首の和歌を読す其歌云ふ

  いつまでも年ふる寺のさかへをは
        軒場の松の色に見すらん

内侍尼も亦讃州に来り霊夢によつて白峯の御陵を三ツ峯に移し範景入道の本意の如く
比処にても神と仰き宮殿らしつらひ願勝寺を以て別当に定む内侍尼は老年に及ひ皈洛
し玉ひ醍醐に一宇を建一言寺禅那院と号し同しく崇徳天皇の御菩提を弔ひける


有名な「阿波内侍」関連がつらつらと書かれた段となります。

建礼門院御自作阿波内侍張子の像

阿波内侍 あわのないし
?-? 平安後期-鎌倉時代の女官。
建礼門院の女房。藤原通憲(みちのり)の娘とも孫ともいわれる。壇ノ浦の戦い(1185)のあと,京都大原寂光院で女院とともにすごし,最期をみとったといわれる。大原女(おはらめ)の装束は内侍の服装をまねたものという。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus


頭に荷物を乗せて運ぶ大原女

阿波内侍
生年:生没年不詳
平安末・鎌倉初期の女性。『平家物語』に登場する建礼門院徳子の女房。『平家物語』の中でも信西(藤原通憲)と紀二位朝子の娘とするものと,信西の子藤原貞憲の娘とするものがある。信西の孫真阿弥陀仏などの説もあるが,実在は確認できない。文治1(1185)年平家滅亡後剃髪し大原寂光院に遁世の日々を送る建礼門院に,大納言佐と共に尼となって仕え,女院の最期を看取ったという。文治2年の後白河法皇の大原御幸で両院の対面の司会者的役割を果たし,信西の縁者ともされるため,『平家物語』の成立との関係,醍醐寺および安居院流唱導との関連などが指摘されている。
(櫻井陽子)
出典 朝日日本歴史人物事典

と一般的な記載はこのようでありますが、系譜を見れば「紀伊の二位」の娘であることは明白でしょう。
で、「紀伊の二位」は

上京の節長女麻と云を件ひ大内の官女として名を麻の前と云後は藤原通憲入道信西に
思はれ妾となる、是阿波内侍の母なり
      (中略)
新院の皇妃阿波の内侍は藤原入道信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘
たるに阿波内侍と云

の部分を見れば
麻植の系譜(追記)
で「阿波名勝」に記載のあった「麻植忠光」の娘ではなく「麻植正光」の娘が正しいのですね。
なお、史書に残る「紀伊の二位」は「藤原朝子」、「麻植正光」の娘は「」、官名は「麻の前」うん、そうなんですね。(笑)
麻植氏系図によれば
「女 上京して禁裏に仕え後藤信西入道の妻となり阿波の内侍を産」
とあるままです。

また、「願勝寺」の寺名の起源については、これも一般的には
由来
宝壷山・真城院「願勝寺」<真言宗・御室派>
 奈良時代に忌部五十麿(いんべいそまろ)が祖父の菩提を弔うために、阿波上郡に方壷山維摩寺(ゆいまじ)を建立しました。
 平安時代 藤原信西(しんぜい)の娘 阿波内侍(あわのないじ)が崇徳天皇に仕えてたいへんかわいがられていました。
願勝寺
たまたま 第77代 後白河天皇(崇徳天皇の弟)の御代(みよ)に、 保元の乱〈上皇と天皇の対立による戦い〉が起り、崇徳上皇側が破れ、 崇徳上皇は讃岐に流され、1164年の8月 讃岐の地に崩御されました。 46歳でした。
 阿波内侍は、これを聞いて悲嘆にくれ、仏門に入り比丘尼(びくに)となり、館(やかた)を改め寺とし、上皇のご冥福を祈りました。その寺が京都の願勝寺でした。
 はばかるところがあって、内侍尼は了海上人(りょうかいしょうにん)に託して京の願勝寺を母の生国の阿波に移し 維摩寺 改め願勝寺としました。
 これが現在の願勝寺のはじまりです。
美馬市観光情報HPより

これが違ってるということは上記を見ていただければ、わかっていただけると思います。
「天皇の罪なき事顕はれ、宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを、内侍尼聞賜ひ大に喜ひ、我禱る所の願望彼に勝たりと其堂を願勝寺と号す」
その後
「兼て寺号を改めんと思ひしなり幸哉願勝の二字我心に叶へり且本尊弥陀の本願の勝れたるにも相応せりと夫より福明寺を改め願勝寺と号し内侍其菩提を用ひ奉る」
としたのが寺名の起源です。

それと、上記を読んでみれば、なんと源氏のターミネーター(笑)「鎮西八郎為朝」が立ち寄っているではありませんか。
4歳で牛車をひっくり返し(笑)、成人後の(と言っても17歳の時)身長7尺(2m10cm)、左腕が右腕よりも13cm長く、3尺5寸の太刀を提げはき5人張りの強弓を持っていたと「保元物語」に記されています。
琉球王国の正史である「中山世鑑」では為朝は琉球へ逃れ、息子が初代琉球王舜天になったとされていますが「系譜」では琉球までの道筋には「三津浜」を経由したと記載されています。(ここら、面白すぎるんですが涙を飲んでスキップ)



この件については「麻植氏系図」に四十九代「為光」の項に
「鎮西八郎為朝モ伊豆ノ大島ニ移サルモ遁レ来テ・・・」
の記載を見ることができます。

だいぶ面白くなってきましたが、長くなりすぎたので一旦切って次回へ続く。

いっぱい書いて疲れちゃったじゃねーか

2017年10月21日土曜日

麻植の系譜:願勝寺編(4)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
麻植の系譜:願勝寺編(3)
の続きです。


ちょっと先を急ぎますので、今回も翻刻を載せるだけでお願いします。
(少しだけ説明もありますけど)

六代智由上人





幼名は虎童と云讃州山田郡殖田上村の人なり
父は殖田高麿と云母は阿波忌部石勝の女なり幼にして父に後れ母諸共家難によつて阿波へ引取り石勝の養ひを受るの処七歳にして復母に後れ孤となる
薄命故外祖父石勝乞ふて福明寺の弟子となし名を智由と改生得英敏にして童歳の時内外両典に通し且つ上京して空海上人の上足智泉法師の弟子と成真言律を兼学す
故に空海上人四十二の厄払として京都西加茂の宮に参籠の節一仏を自作し祖神本地仏と崇めて祈念しけるに此木像遥阿波の忌部由布山に飛渡る其仏より光明を出して南海四州を照す
智泉法師追来り此地我師の由縁なりと一寺を建つ所謂神光寺是也、後空海上人も阿波に来り当福明寺に留錫して護摩堂を立て本尊不動明王を自作爾来真言密宗に改むと云
其比空海上人阿波と讃岐中山なる大滝の峯に登り国土安全の祈をなすの処に不思議の老翁忽然と現れ我是汝が遠祖天忍日命の神使也と空海曰其神跡いづれなるや
翁曰即此処也と古塚を教へて其形の古き蟇蛙と変して古塚に入て身を隠す扨こそ故あらんと此処に草庵を構へて其霊を祭る其草庵後に大滝寺と改其神を西照権現と号す
智由の弟子智信坊を以て此寺の法燈を続かしむ此時忌部神社大祭主麻植の由良淵空海の名筆を聞及び忌部神宮の鳥居に大額を掲て此書を空海上人に乞ふ上人も亦応諾して我望む所なり。
抑々比社は我祖先由縁の神なりと快然として書す、時の国司藤原道雄西照宮に神田を寄附すと云

青字にしたところがいわゆる「西照神社」開基の経緯と言うわけですね。
で、空海の祖神が「天忍日命」と記されており、天忍日命→→→大伴室屋→大伴連談、で佐伯日奉造は大伴氏(天忍日命の後裔氏族)と同祖で九代(か?)裔が空海となり、ちょっと面白いんですが、今回は華麗にスルーいたします。

七代智鑑


俗姓阿波郡秋月郷の人なり
父を服部良麿と云十四才にして先住智由を師とし出家を遂受戒の上都に上り三輪、法相、天台、真言、其宗々の奥義を探り其淵底を極め帰国の後は国司従五位上菅原清公の祈念師とな春秋八十二才にして天元四年三月十日寂す
此智鑑師は京都醒訓寺の聖宝僧正と知己たるによつて僧正を阿波へ迎へ新寺新仏の為め供養と号し大会をなし時の国司の帰依僧となる


八代智光

       

俗姓は忌部高光の庶弟なり
福明寺の住職となつて兄高光の為に承平四年伊予椽藤原純友の逆乱鎮撫の祈をなし逆徒滅亡の後は忝くも朝延へ徴庸せられ御震感の賞典に予り阿波上郡にて方十町の采地を賜ひ僧正に昇進入天曆四年高光の長子定光子州の逆徒唐戶丸退治の頃賊矢に当り久米山にて病死す
此時父高光悲に堪へす刺髪して仏門に入亡子定光菩提の為智光を開起として一寺を建つ定光寺と号し忌部麻殖氏歴世菩提寺と定む
是迄は麻殖氏数代神官務の職掌と云且つ此麻殖郡忌部郷内は三里四方の神地なれは民家も皆神戸なる故仏法を信するの徒有りと雖自己内分の皈依なりしに此時より公然として仏葬を営み僧尼を供養し追福作善の祭りをなす民家も亦是に仿ひて追々仏寺繁栄す是皆智光の勧化也
天喜四年七月四日寂す


九代智覚



俗姓は忌部氏人麻殖正種二子也
此時人皇六十三代冷泉院の朝安和二年已已九月十九日忌部十八坊を定め忌部氏族三十六家の社司ら置き未代不易の憲法を立大祭主麻殖基光勅命を奉して忌部神社祭○奪厳重に執行なふ時福明寺智覚読経の長老たりしが、爾来大祭毎に福光寺へ福明寺より出勤して忌部神社法楽の例となる


十代德光

       

忌部大祭主信光の二弟なり
初め福光寺住持の所我名徳光にして福光寺に住する時は徳光と福光と其光り争ふ事あらんかと福光寺は徒弟随伝坊に託し其身は麻殖下郡なる射立の郷に一寺を造立して我名を其儘に徳光寺と云
承徳二年戌寅年八月大洪水にて忌部の摂社末社共多く山崩れして大川に流失し川筋処々に留る。
其里人流宮を其儘其処に社を定めて祝ひ祭る徳光上人彼地処々の神社に一寺を建て其神を祭り法楽の経を説誦し其神意を慰め奉る是下郡なる川筋処々神宮寺の元由也



すいません、ほとんど解説なしで十代まですっ飛ばしました。
けど読めばほぼ、分かるんじゃないでしょうか。

さて次回から「願勝寺歴代系譜」ある意味、深淵に入って参ります。
心穏やかにしてお待ちください。
続く

急ぐんだニャー

2017年10月15日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(3)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
麻植の系譜:願勝寺編(2)
となるような気がする今日この頃です。
続いております「願勝寺歴代系譜」。
分かりにくいところと、一般に興味がなさそな部分もあるかと思いますので(いいのか?)三、四、五代と続けて書いていきます。


三代大福上人

是亦忌部大祭主玉淵宿禰第三の庶子なり



此上人本名は智教なれ其生涯国中を勧化し百三十余箇寺を建立し且つ義淵上人上足の内
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り其上父玉淵宿禰をす﹅めて忌部神社法楽として法福寺の大伽藍を創立す

後此寺を本福寺と改め又は忌部神宮寺と号し別に二寺を建て、弟子に附属す是所謂東寺西寺也
此亦後は改めて東福寺西福寺下云如此大功徳なすか故に国人の尊敬一方ならす仏菩薩の再来ならんと称せらる﹅の故に朝延より大福上人の美名を賜ひ果報目出度上人なり


四代実厳法師


外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり

聖武天皇の朝天平十三辛已年八月忌部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す
此時阿刀弗の招によつて福生寺に転住し当福明寺院は弟子実念に譲る




五代実念法師


実念師は讃州綾の郡林田荘司景任の未子
先住実厳の嫡弟にして都に上り勤学累行の功を積み一時大徳の名を得て国に帰り忌部神社を下郡なる伊須の里に遷すの時三福寺福生寺其他寺院別れて彼地に移り共に忌部下宮を奉祠するの処神託によつて社地近傍の路辺に桜を植へて忌部山植桜の宮と称し追々繁栄するによつて実念植桜の神社の為伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年八月四日行年五十一歳にて寂す


さらさらっと流そうとも思ったんですが、第三代大福上人の項で行基についての記載が出てきます。
一般的には行基とその三千人にも及んだと言われる支援団体が次々と寺院を建立していったと言われておりますが、系譜の『大福上人が建立し、「行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ」た』、の記載を見ればあながちそうでもなさそうに思えてきます。
ちなみに行基ゆかりの寺院を下に記載してみますが、資料はあるものの転記するのがめんどくさいんで今回は徳島県の分だけね。(ごめんね)

密巌寺
徳島市不動本町

薬王山 国分寺 金色院
行基の開創で本尊の薬師如来も行基作。明王堂には偸伽大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られている。

井戸寺
聖徳太子作の本尊七仏薬師像の脇仏の日光・月光菩薩像は行基作とされている。

大栗山 大日寺
徳島市一宮町西丁263

八葉山 東林院
天平5年(733)行基菩薩を開基にして、高野山真言宗八葉山東林院と称した。

竺和山 霊山寺
天平年間(729~749)聖武天皇の勅願で行基が開創。(729~748)

極楽寺
行基の開創。

立江寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。皇后の安産祈願として小さな金の地蔵菩薩(本尊)を安置。

恩山寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。本尊の厄除けの薬師如来も行基作。

願成寺
阿波市(旧阿波郡)阿波町字山ノ神

真楽寺
美馬市(旧美馬郡)脇町

大瀧寺
神亀3年(726)行基菩薩が塩江より登山し、阿讃山脈秀峰に一寺を建立し、阿弥三尊を安置。

最明寺
美馬市(旧美馬郡)脇町猪尾字西上野

観音寺
美馬市(旧美馬郡)穴吹町三島字三谷

蓮華寺
三好市(旧三好郡)池田町ハヤシ 奈良時代に行基が開創したとされている。(708~749?)

長楽寺
三好市(旧三好郡)井川町辻中岡

多聞寺
阿南市福井町字宮北 毘沙門堂に行基作という毘沙門天像がある。

神宮寺
阿南市福井町字大宮 大宮八幡宮の元別当。もと小谷にあり、一の谷寺と称した。行基菩薩の開基で、弘法大師が再建したといわれる。長宗我部氏に焼かれ、正保年間(1644)に天神坊が移転再建した。御本尊は不動明王。

千福寺
見能方八幡社の別当寺。神亀元年(724)に行基が薬師如来を彫って創建したという。御本尊は薬師如来。

童学寺
行基の開山とされている。弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されている。弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置。

薬王寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。(726)

八坂山 鯖大師本坊 八坂寺
行基の開基。

金泉寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。

にしても、なかなか出てこない寺院の由緒とか時代が垣間見られて、興味のある方には堪えられんのではないでしょうか。
ではでは、ここいらはさらっと流して次へ進みます。
続く
今回は甘口で


2017年10月13日金曜日

麻植の系譜:願勝寺編(2)

麻植の系譜:願勝寺編(1)
の続きです。


ここら書いてると仏教についていかに疎いかが実感されて辛いのなんのって、書くの止めよかなって思ったりね(笑)

えーと、
ご覧の通り元文書はカナ混じり文で書かれていて、ひじょーに読みづらいので勝手にひらがな変換して、ついでに改行までしちゃいました。
例によって、「些細な」入力間違いや改行が変だとかいう指摘は、心のうちにそっとしまっておいてください。(笑)

二代福淵僧都


俗姓は麻殖忌部布刀淵の三男にして幼名淵麿と云福明師の弟子となって師名の一字福の字を嗣て名を福淵と改め諸国修行して其名世にしられ後帰国して師跡を嗣き且つ福明寺の上に方壺山と云山号を冠らしむ

此時天笠(まま:天竺か?)国より法道仙人と云者釈尊の御母摩耶夫人菩提の為鋳玉ふ所の観音大士なりと閻浮檀金の一像を将来して仏母山卯利天上寺を建立す爾時比観音より光明を放ち南海一面の地を照す

法道仙人是有縁の地なりと先淡路国津名郡に摩耶山仏母寺を立て次に阿波国に渡り来て伊宇山を見て足仏母前出世の地なりと一宇を立て、伊布摩耶山仏母寺と号す依之下方淡路阿波の三寺を三摩耶山摩耶参りと云諸国参詣の人群をなす盛んなりしこと其也



福淵僧都聞之比法道仙人とは何者なるか夫れ本朝の仏法は推古天皇の三十三年乙西正月高麗国の恵灌法師大唐の三蔵法師より三輪宗を受て我朝へ来り元興寺に住して始て仏法一宗の明説を啓けり

飲明帝の御宇百済国より始めて仏法渡来すと雖只仏像のみにして未た宗旨を聞かす故此宗は日本最初の宗也此乙酉は大唐の神堯皇帝の武徳八年に当れり中論百論十二門論を主とす

此三論は諸法蕩滌の深理なれは竜樹玄旨を吐き羅什所述の真伝を唐朝より三韓に伝へて西蕃の諸国弘く尊信する所なれは我朝独り受さるの理あらんやと

推古天皇以来皇家の皈(帰の異体字)依し玉ふ所なれは道昭法師入唐して慈恩と共に玄奘三蔵を師とし此法相宗を受け皈(帰)朝の後元興寺の東南の隅に別に一室を営み頻りに此宗を説き法相大乗応理円実宗と唱ふと雖来た一宗の規則立す

其後追々智通智達の両法師入唐して慈恩大師の直教を受嗣てより弥其宗法盛んになるもよって三論宗よりも比宗旨を兼学するの例とはなれり


今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

此変によって其跡大混雑の事あって上京議論の沙汰は其尽となる鳴呼可惜遂に其事を果さす残念なりき事共なり


これを麻植氏系譜と見比べてみますれば

三十二
玉淵
布刀姫
布刀淵
      天智天皇朝玉淵ヲ大錦上トシ忌部大祭主トス天武天皇朝再同郡明定トシテ
      伊勢王大綿下羽田八田来リテ阿波十郡ヲ復古シテ十三郡ト定メ麻殖上郡
      阿波上郡ヲ合シテ美馬郡トス麻内山ハ神領ナル故麻殖中郡トシテ之ヲ別
      朱鳥元年康成三月天日鷲神社修理造営ヲ加フル時天笠ヨリ法道仙人ノ母
      摩耶夫人菩提ノ為ニ鋳玉フ門浮標金ノ観世音ヲ将来シテ仏母摩耶山忉利
      天上寺ヲ建立シ玉フトキ比金像ヨリ光明ヲ放チ通ニ南海ヲ照ス法道上人
      先談路山ニ登リ摩耶山ヲ建立シ夫ヨリ阿波ニ来リ伊宇山ヲ具テ比山ハ仏
      母前世出生ノ地ナリト云テ一宇ヲ建立シ伊宇摩山仏母寺ト号ス
      天武天皇朝役小角大和ノ吉野蔵王権現ヲ高越山ニウツス

布刀淵の名はちゃんと記載されております。
また法道仙人(上人)の記載についてもほぼ同じくして見ることができます。
で、「法道仙人」って誰だ?って話になると思いますので、簡単にご説明をいたしますれば、

ほうどうせんにん【法道仙人】
播磨国の法華山一乗寺(加西市)を中心として十一面観音信仰を伝えたという仙人。天竺の霊鷲山(りようじゆせん)の五百持明仙の一人で,孝徳天皇(在位645‐654)のころ日本に渡来したという伝説上の人物。〈飛鉢の法〉をよくし,空鉢仙人ともいわれる。御嶽山清水寺(加東郡社町)の平安末期の文書が文献史料として最古のものである。鎌倉末期から南北朝期になると播磨の有名山岳寺院20ヵ寺を開いたという伝承が成立し,江戸時代には,播磨はもちろん,但馬,丹波,摂津にいたる諸寺の縁起類に名前がみられる。
法道仙人
とのことでございますね。(引用だけかよって?(笑))
で、まあ。
ご覧の通り何があったかのかはよく分かりませんが(想像はつくけどね)

今や法道の法其出処分明ならす取るへき所更になし足や外道の宗法ならんと大に罵り速に上京して此論を明決せんと其用意をなす所に出火の災によつて其火を防かんと煙中を厭はら指揮せし故にや忽大病となって三日三夜の暁天に逝去し玉ふ

などと怒りまくった上に、火事が原因でで亡くなってしまうという、ね。
法論の諍いは外部からはわからんですが、読めばみっともないような気がするのは、あくまで個人的な意見でございます。(笑)
ともあれ、法道仙人がでてきたところで、時代背景が感じられてきたのではないでしょうか。

もう一つ説明を付け加えれば

山号の「方壺山」、今は「寳(宝の旧字体)壺山」となっておりまして

方壺山 ほうこさん
中国,渤海にあったという伝説上の神山――蓬萊(ほうらい),瀛洲(えいしゆう),方丈(方壺)を指し,仙人たちが住み,不老不死の薬があるという。いずれも壺の形をしているので〈三壺山〉ともいわれる。先秦時代,渤海沿岸の燕や斉の方士(神仙の術を行う人)たちが唱え,秦の始皇帝や漢の武帝らの心をつかんだ。
ということで、なぜこの伝説の神山と言われる「方壺山」を山号にしたかというのはM木氏に聞いていただければ分かるのではないでしょうか。(M木氏って誰だ?)

で、今日十月十三日はこれからお祭り、あと2時間ほどで神輿を担ぎに行くというお勤めが迫っておりますので、この辺りにさせていただきます。

次回から徐々に隠された史実に迫っていくかもしれないし、迫らないかもしれないという壮大な計画であります。(こらこら)
続く
何を見てるんだヨォォ

2017年10月8日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(1)

麻植の系譜(1)
麻植の系譜(2)
麻植の系譜(3)
麻植の系譜(4)
麻植の系譜(5)
麻植の系譜(追記)
に続きます。

願勝寺(真言宗)
徳島県美馬市美馬町願勝寺8

平安時代、崇徳上皇に仕えた阿波内侍が上皇の菩堤を弔うため都に建てた願勝寺を、母の生国の阿波の維摩寺(奈良時代建立)に移し願勝寺となる。その後、歴代守護や藩主の庇護を受け郡内を代表する寺院となる。国登録有形文化財である八脚門(明治時代)、天竜寺と同一手法の滝組の県指定名勝「願勝寺庭園」(室町時代)、県内最古の博物館「美馬郷土博物館」がある。 wikipedia

【略縁起】
歴史は古く奈良時代にさかのぼり,はじめ維摩寺、のち福明寺と称し、平安時代の後期、保元の乱の後、崇徳上皇皇紀阿波内侍の願により願勝寺と改める。守護小笠原長房の祈願所、細川氏の祈願寺など歴代国主の尊崇をうけ蜂須賀氏入国の節には方八町御免池、郡中出家取締となる。十六代住職真上人は南朝方に味方して暗殺され、二十五代快上人は阿波の法茸騒動の時反対運動の先頭に立ち、三千人の山伏を動員してその野望を押え、幕末には四十四代美馬君田が勤皇の志士として活躍し、その功により正五位を贈られるなど積極的にその時代に生きた住職もあり、現住職で四十九代目になる。
本堂北側の庭園は池泉式枯山水の庭園で滝石の石組が注目され薄い板状の青石を水落とし石とした石滝は、天竜寺庭園とよく似ているといわれ、徳島県の名勝に指定されている。県指定の文化財としては、聖来迎図があり、又、境内には美馬郷土博物館があり、国指定の段の塚穴、同じく指定の郡里廃寺後の出土品等多数展示してある。
新四国曼荼羅霊場 HPより



 寺前の略寺史にはご覧のように
「當寺は忌部五十麿の草創にして
 阿波八門首の一寺なり。」
との記載があります。
奈良時代に、いわゆる忌部氏の一人「忌部五十麿」が創起したということは、上記の説明からもわかると思いますし、
麻植の系譜(追記)
でも書かせていただいた、崇徳上皇皇妃「阿波内侍(あわのないし)」由縁の寺であることも知られております。
では、「忌部五十麿」とは誰で、何故「願勝寺」を建立したか、などなど阿波で忌部氏を知る者としては気になってくるではありませんか。
(え、気にならない?まあ、それはそれで良しとしませんか(笑))

そうこうして(どう?)調べておりますうちに、見つけてしまったのが

と、こうゆーものであるわけなんですが、そのうちの一文書に

「願勝寺歴代系譜」なる一文を見つけてしまいましたので、以降数回にわたって僭越ながら説明などさせていただこうとの御趣向で進めさせていただきます(笑)。
まずは「開起」より

    
 願勝寺歷代系譜

初代福明律師
 当院ノ開起ニシテ俗姓阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿
禰ノ庶弟也幼名ハ忌部五十麿ト云へリ共父岩木宿禰菩
提ノ為上京シテ元興寺福亮法師ノ弟子トナリ出家得道
シテ名ヲ福明ト改メ法相宗ノ学匠トナッテ斉明天皇ノ
四年ニハ維摩会ノ大講師ト仰カレ則斉明天皇ノ戒師タ
レハ都鄙共徳ヲ称ス天智天皇ノ朝阿波忌部大祭主玉満
宿禰都ナル叔父福明律師ノ為ニ阿波上郡ニテ一寺ヲ建
立シ福明律師ヲ開基トシ共名ヲ維摩寺ト号シテ維摩会
ヲ修セシメ現当二世ノ洪福ヲ祈リシトコロニ朱鳥元年
三月十日律師遷化シヨテ律師ノ名ヲ後代ニ伝エン為
メ維摩寺ヲ改メテ福明寺ト号ス是阿州寺院ノ権輿也

さて
で説明いたしました「麻植氏系譜」を思い出していただきたい。

三十一代「玉垣宿称」
玉垣宿祢    忌部社ニ八重ノ玉垣ヲツクル故ニ伊年部玉垣ノ宿称ト云錦冠赤
        衣ヲ賜リ忌部氏人ノ長大祭主トナル又時忌部旧領ヲ復スル事ヲ得タリ
とある「玉垣宿称」の庶弟、おそらくは義理の弟ではないかと思われます。
この幼名「忌部五十麿」が奈良の元興寺福亮法師の弟子となり、名を「福明」と改め、斉明天皇の戒師となった。
その後、朱鳥元年(686年)律師が亡くなったため、その名を残すために維摩寺を改めて福明寺としたのが開基であります。

(注)
維摩会(ゆいまえ):維摩経を講ずる法会。特に,興福寺で10月10日から16日までの7日間行われた勅願の法会。藤原鎌足が山科陶原(すえはら)の邸を寺として講じたのに始まるといわれる。南都三会の一つ。
元興寺(がんごうじ):奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。

さて、忌部大祭主直系の弟が奈良の元興寺で修行し、斉明天皇の戒師となった・・・
などという話は、ワタクシも全く見たことも聞いたこともございませんでした。
無論、疑うも良し、偽書だと断ずるも良し、ですが二つの文書に同名が現れ、後述いたしますが複雑に関係し合うのを見れば単純にでっち上げだ、偽物だと言い切れないと感ずるのは私だけでしょうか。(だったりして(笑))

では数回にわたってお付き合いを願いましょう。
続く

そーれ、ヤバイよヤバイよ(笑)