2011年1月28日金曜日

大瀧山建治寺

徳島県徳島市入田町にある大瀧山建治寺(こんじじ)です。
入田町の「西龍王山」にあります。隣の山は「東龍王山」で、ここいらが、またいろいろ
怪しいんだけど、今回はその話はナシ。
地図は下

より大きな地図で 建治寺 を表示

四国八十八箇所霊場の第十三番札所・大日寺の奥の院。
四国三十六不動尊霊場第12番札所と云う訳で、猫さんまた三十六箇所行く場所が増えまし
たよ。
西龍王山のきつい坂をたらたらと登って行くと駐車場です。
歩き遍路の道は違うようですが、もちろん知る由もありません(自慢かよ)

建治寺縁起


当寺は白鳳時代天智天皇の頃(661~671)役行者(えんのぎょうじゃ)を開基に、金剛蔵王
大権現を御本尊として発祀しました。
弘仁年間(810~824)弘法大師が四国巡礼の折、当山に登り霊験あらたかなその聖地に
感じ入り、修行場所として最適な霊地と逗留されることとなりました。
その修行中、金剛蔵王大権現を感得し自ら御本尊像を彫刻、深く岩窟の奥に安置されました。
天正年間には阿波藩主蜂須賀公祈願所として栄え、近年では貞阿上人の業績にと今なお
脈々と命打っています。
現在、蜂須賀公が刻ませた像を加えて二体の金剛蔵王大権現像が祀られています。                                    建治寺HPより

だそうです。
開基の役行者については、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君
(賀茂役君)とも呼ばれるそうです。
これは蛇足ですが、加茂氏の本拠地は阿波の三加茂だと考えておりますので。

----------
634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。
17歳の時に元興寺で学ぶ。このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。
その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね
金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を
唱えた。
699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。
701年6月7日に68歳で箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われる。
後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。
Wikipediaより


とされております。
役行者開基の寺は全国にあり、どれが本当やら分らない状態となっております。
徳島県では高越寺(神社)がそうであるとされています。

駐車場から本堂へ「金剛蔵王大権現」の幟がいっぱいです。

本堂です。
入った所です、さすがにちょっと暗くて写りがよくないです。
ああ、怖いよぉ。写りが悪いよぉ。
ところで、本堂の奥に弘法大師の隠ったという岩屋があるそうなんですが、行ったときは
知らなくて、見てないんです(涙)
そのかわり(何の?)裏の崖に
役行者の像を見つけました。
少し戻った所には
こんな巨大な常夜灯もあります。
(あかんなぁ、今日はうまく書けないや)


で、駐車場に戻ってくると、こんな奴いたかな?
まあ、ご立派(何が?)
で、ここから眺めると
気延山がこんな感じで見えます。
天気がよければ相当な先まで見えるそうです。
西龍王山山頂の八大龍王神社も行かなくちゃなどと思いつつ帰路についた午後で
ございました。

あ〜、今日はダメだわ。全然書けんわ。今週死ぬほど忙しくて疲れてるわ。(じゃあ、書くなよって?)
土日寝てたら回復するかな。




2011年1月23日日曜日

神山町阿野へ行ってきました

連続して書いちゃって、こんな事じゃネタ切れになっちゃうと思いながら書いてしまう
損な性分です。

久しぶりにおこちゃまタイトルですね。
と、言うわけで天気もいいし、神山町へ行ってきました。
今回は広野から鮎喰川北岸へ渡って阿野を進んでいきます。
下の地図のようなルートです。

より大きな地図で 神山町 阿野 を表示

いやあ、いいところですねぇ。
絶景を見ながら走っていると、あちらこちらに、こんなのが。
地元の人たちが作った人形です。これは笠地蔵がモチーフ。
下は童話の「大きなかぶ」すぐ後ろは、断崖絶壁。
へーい、「気ぃつけます」
懐かしくて、いい感じですねぇ。
神山町阿野は梅林で有名なんです。で、梅果の生産でも有名です。
で、どこまで行くのかと言いますと。
神山町阿野字神木(じんぎ)
神山町営バス「神木(じんぎ)」バス停の手前を南に、つまり鮎喰川をもう一度渡ります。
橋を渡れば「神木」の集落です。30戸くらいだそうです。
渡ってすぐにこんな看板が。でも、こんなのじゃ全然分らないんです。
何が分らないかって?
神社の場所です。
橋を渡って右に曲がって山の方へどんどん上がっていきますと。
山際の道をちょっと降りた所にあります。
神社というか石組みの中にお社が3社。
神山町の広報誌で見つけました。
「土佐神社」「伊豫神社」「吉の森神社」です。
徳島県神社庁でも由来が分らなかったという、曰く付きの神社です。
なので、徳島県神社誌にも載ってないし、神山町史にも載ってませんでした。
(載ってなかったと思います(不安))
阿野村史(ってあるのかな)とかはまだ確認できてません。
多分、載ってないんじゃないかなと、勝手に思ってます。
(のってたらごめんなさい)
とは言っても、ご覧の通り、祠が3つあるだけ。社名もなんにも書いてない。
このように脇社だとか
手水鉢があるので、神社だなとは分りますが・・・

ちなみに、例によって手書きで経路を書いてみましたが、全然分んないと思います。

より大きな地図で 土佐神社 を表示

滅多な事で行く人はいないでしょうが、大型車はダメですよ。軽でなきゃ。
進入道路はそれでもいっぱいいっぱいですし、Uターンなんかできる所はありません。
探しにいったときも、山際、崖際でスイッチバックの連続。対向車が全くこないのが
幸いでした。(というか、人っ子一人見なかったんで)
車から降りてお参りするのも困るくらいです。

県外の人は想像しにくいでしょうが、こんな山奥になんで「土佐神社」?「伊豫神社」?
疑問ばかりが涌いてきます。何にも分ってないんですが、とりあえず書いちゃいます。
ホントにどなたか知ってましたらご教授を願います。

やっぱ、神山は奥が深いわ。

六十六部大権現

書く事がありません。終わり。

なんて言ってると、「あれはまだか」とか「あれ書いてないぞ」とかいろいろ
いじめたり、責めたりする人が、きっといますので(ねえ「サ・・・・」さん)
ちょっと間つなぎに、パワースポットじゃないけど、ご利益のある所を紹介し
ておきます。

でも、パワースポットがブームだなんて、騒ぎ立てるのもどうかな?と思います
がねぇ。危ないスポットもありますが、もちろん書きません。

余談ですが、自分自身、近所で絶対に近づかない場所が2箇所あります。
仮に近くを通ったとしても、見ません、顔も向けません、それ以前に遠回りして
でも近づきません。ただ、一つはよく通る道沿いにあるんで困ってます。

え〜、話を戻して
そこは「六十六部大権現」でございます。
場所はここ、伊予街道が鮎喰川に突き当たる所。
下の地図では国道192号線が「伊予街道」になってますが、本当は青い線を引いて
ある旧道が伊予街道です。堤防に突き当たって鮎喰の渡しで対岸に渡ってました。


より大きな地図で 六十六部大権現 を表示


こんな所です。車をすっごく止めにくいんで注意。
で、「六十六部」とは何ぞや?
一般的には「六十六部信仰」と言われてて古くは鎌倉の頃から、日本全国六十六カ国を
巡礼し、一国一カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める行者の事を言ったそうです。
カーブミラーの向こうに立っている「申し伝え」を刻んだ碑から転記します。


申し伝え
 今からおよそ二百数十年前、伊豫の国宇和島の六十六部喜衛門は
両親に死に別れ守り本尊を背におい諸国修行、遠くは信州御岳山に
修行なされ神仏よりさずかった秘宝の灸 これは今に伝えるお灸を
さずかり伊豫の国宇和島に帰る途中、阿波の国名東郡加茂名村鮎喰
(現在市内鮎喰町)神田家にワラジをぬぎ中風、カッケ、その他の
病気にナンギしている人々にお灸をすえてなおしたのを誰となく聞
き伝えてきた。元文五年七月二十四日病気のため死亡した 生前の
徳をしたう者達が鮎喰川の東岸に石碑を建てて冥福を祈った。
 その後中風、カッケ、その他の病気に苦しむ人が話を聞いて六十
六部喜衛門の墓にもうで祈願した。ところがうす紙をはぐように
快方に向い間もなく全快したため、喜んで遺言にその事を書き六十
六部喜衛門が生前諸国を修行した健脚にあやかる為、特大のワラジ
を作って奉納した。これが評判となり墓に訪れる者達が引っ切らず
大小さまざまのワラジが次から次えと供えられ「六十六部さんの墓
えお参りしたらカッケは必ずなおる」とますます有名になった。
 伝えを聞いた病人は近くは淡路、兵庫 遠い所では北海道あたり
から杖にすがってきた者も帰りにはワラジ、杖まで置いていくほど
だった。それが約二百年にわたり続けられて、つい最近までおよん
だ。六十六部の墓は徳島市バス上鮎喰終点から北へ約五十メートル
旧道つき当りの堤防きわにある。
 元は、ずっと南にあったのを鮎喰川改修工事のためにここへ移さ
れたもので、明治から大正へかけて空をこがすかと見られた線香の
煙も今は、すっかり絶えていたが戦後、信者により復活し毎年春秋
護摩供養をおこなっています。


 春   三月二十四日   秋   九月二十六日
                       六十六部大権現


だそうです。
残念なのは、最近ではカッケで歩けなくなる人が、ほとんどいなくなってしまったって
ことですね。
でも、足の病気や故障にはご利益あると思いますよ。

正面から見た所

これは「経(王)塔」ってありますね。

奥が「六十六部喜衛門」の墓、「了本墓」ってあるのは法名でしょう。
もう一つ縁起を刻んだ碑があったんですが、これは読めませんでした。
「六十六部信仰」に関しては、あまり資料が見つからなかったんですが

阿波における六十六部の痕跡は、中世末期の16世紀にまで遡ることができます。
県外所在の資料では、島根県大田市南八幡宮鉄塔検出の銅製経筒群(16世紀)
に、阿波在住の六十六部聖が廻国していることを物語る銘を持つ経筒が見られます。
また、奈良市中之庄経塚出土の納経請取書(承応2~4年[1653~55])には、西国
36カ国の六十六部廻国霊場が見られ、そのなかに阿波国那西郡の大瀧寺(阿南市の太龍寺)
が確認されます。
一方、徳島県内にある資料では次のようなものがあります。三好町馬岡神社の享禄2年(1529)銘の棟札に「本願六十六部越後国心海」とあったり、宍喰町願行寺の天正18年(1590)銘の山越阿弥陀三尊浮彫板碑に「為奉納大乗妙典経六十六部供養」等と見えるのが、かなり古いものとして注目されます。

おっと太龍寺の名前も挙がってますね。
また

近世の六十六部廻国巡礼に関しては、六十六部廻国供養塔などの石造物が少なからず
見られます。
こうした石造物の銘には関係者の名前や地名などが刻まれているので、実際に六十六部
廻国聖がどのような行動をしていたか知るための有力な手がかりになります。

ですので、上の「経(王)塔」って書いてある塔の写真も、六十六部廻国供養塔かも
しれません。

いかがでございましょうか。足でお悩みの方は一度参拝してみては。
わたくしみたいに足の短いのには、ご利益なさそうですが。

さて、次回もなじられちゃおうかな。

2011年1月16日日曜日

清少納言の墓

先日「みーちゃんママのママ」さんのブログで、当「ぐーたら」なブログを紹介
していただきました。
みーちゃんママのママさんは板野郡北島町鯛ノ浜にある「広島風お好み焼きどんどん」
さんだそうで、県道29号線沿いの日清紡正門前ですので、お好み焼きの食べたい方は
寄ってください。

場所はここ

より大きな地図で 広島風お好み焼きどんどん を表示

ブログはこっち「DonDonのブログ」
で、せっかくなので鳴門方面の面白そうな所を紹介しようかなと、思ったんですが・・・
紹介してもらった記事「鳴門市 恵比寿神社と鬼骨寺」に書いてあった恵比寿神社の
近くに「清少納言の墓」がありますので、これ書いちゃいましょう。

場所はここ

より大きな地図で 清少納言の墓 を表示

鳴門市里浦町坂田にある「観音寺大塚堂」です。
道が相当に狭いんで、大きな車の方は注意!

この中に「清少納言の墓」である「あま塚」があるそうです。
中をのぞかせてもらいましたが祭壇があってよく分りませんでした。
このお堂の横には
こんなお墓もありました。
そして、後ろを振り向くと
「あま塚」の看板が、この写真の右下にはなんと
ネコが!(ゴロゴロしてました)


ネコじゃなくて、鳴門市商工観光課の案内看板が。
ちょっと煮え切らない書き方ですがね。
一応、この伝説を徳島新聞からの引用で書いておきますが、あんまり楽しい伝説じゃ
ないんですよねぇ。

---------------------------------------------------------------------------------------
 とんと昔、あったと。

 清少納言は当代きっての才女で「枕草子(まくらのそうし)」の作者として
知らんもんはおらなんだ。お父さんの清原元輔(きよはらのもとすけ)はお公家
さんで、撫養(むや)の里浦(さとうら)に領地を持っとったそうな。

 ある年。清少納言は罪あって空舟(からぶね)に乗せられて紀伊水道へ流された。
清少納言は世をはかなんで海へ身を投げたが、死にきれず里浦の浜へ流れ着いた。
浜にいた漁師が次々に集まってきて高貴な清少納言を珍らしゅうながめよった。
ほのうち一人が清少納言の着物を剥ぎ、持ち物を奪うた。
ある者はいたずらしようとした。
ほんで清少納言は操(みさお)を守るため持っとった刃物でわが下(しも)をえぐり
海ん中へ投げ捨て命を絶った。

 漁師にはずかしめられた清少納言の魂は浮かばれず里浦をさまようた。

 ほれから里浦に赤目(あかめ)(眼病(がんびょう))が流行った。



赤目が流行って里浦のもんは困ってしもうた。これは心ない漁師の清少納言への
いたずらがもとで起こったんで、なんとか清少納言へお詫びをして祟りを止めて
もらわんかちゅうことになった。

ほんで、建てられたんが「尼塚(あまづか)」じゃ。塚を建て、浦のもんがおまつり
するようになってから赤目のもんはのうなったそうな。

尼塚は赤石の海にもぐって大アワビを捕え、腹ん中から見事な真珠を採り上げて
のうなった長邑(ながのむら)の海士男狭磯(あまのおさし)をまつった「海士塚
(あまづか)」ちゅう話もある。

さて、清少納言は漁師のはずかしめをのがれるため、わあの下(しも)を切り取って
命を捨てた。ほれがイガイになったそうな。イガイが女子(おなご)の下(しも)に
よう似とるんで、こんな話が生まれたんだろう。

イガイは大変おいしいんで好まれた。「瀬戸貝(せとがい)」ともいわれるが、土地
では「似たり貝(にたりがい)」の名で知られとる。

おーしまい。

阿波の民話-音読シリーズより
---------------------------------------------------------------------------------------

あんまり、気分のいい話じゃないですが、清少納言の伝説という事で紹介しました。
で、ここが「清少納言の墓」と言う訳です。

みーちゃんママのママさん、どうでしょうか?
ちょっとは面白かったですか?
海士男狭磯(あまのおさし)の墓とか人丸神社も近いんで、その話も書いてみましょうか?

2011年1月15日土曜日

お亀磯の伝説

四所神社の秋祭の時にすこし書きましたが、徳島市の津田町には、往昔、海に沈んだ
という「お亀磯の伝説」が残されています。

お亀磯の伝説

徳島にも海に沈んだ島の伝説があります。徳島市津田町の五キロほど沖合にあるお亀磯です。今は岩礁しかなく、アジなどの魚がよくとれる釣のポイントですが、昔は亀島(かめしま)と呼ばれ、千戸も家があったというのです。
伝説によると、島の中ほどには神様をまつるほこらがあり、入り口の両脇に狛犬ではなく、二頭のシカが飾られていました。毎日、お参りに来ていた老夫婦の夢に神様が現れ「シカの目が赤くなったら島が沈むので、シカを連れて逃げなさい」といいました。

この話を聞いた若者がシカの目を赤く塗るいたずらをしたところ、老夫婦はあわてて船にシカを乗せて逃げました。島の人たちは老夫婦をばかにして笑っていましたが、その晩に大津波が来て島が本当に沈んでしまったのです。

その後、この老夫婦は自分たちが助かったのはシカのおかげとして神社におまつりします。それが四所神社の起こりだといわれています。あくまで伝説上の話ですが、一晩で島を沈める津波とは何だったのでしょうか。
この津波を起こした可能性があるのは、今から六百五十年ほど前の一三六一年に起きた正平(しょうへい)南海(なんかい)地震だといわれています。京都に室町幕府ができて間ももないころで、京都と奈良の吉野に二人の天皇がいて対立していた南北朝時代のできごとです。

この地震はマグニチュード8・0-8・5の強いものでした。津波は徳島だけでなく高知や大阪、兵庫もおそい、たくさんの死者を出しました。ひょっとしたら島を本当に海に沈めてしまったのかもしれません。そうでなくても、ものすごい津波被害の記憶が住民に残り、こんな伝説を生んだとも考えられます。
もっと昔の記憶が伝説をつくった可能性もあります。今から三千年ほど前の縄文時代には、徳島市の海岸線は徳島中央公園がある城山辺りでした。その後、吉野川や勝浦川が上流から土砂を運び、東へ陸地が広がったのですが、もっと前の氷河期には海面が今よりずっと低かったことが分かっています。  徳島新聞 ふるさと歴史探検隊より引用

お亀磯はここら辺です(多分)。舟釣りをする人ならよく知ってるはずですが。
イカとか釣れるそうです。


このお亀磯の陥没に関連する「お亀神社」が下の地図の場所にあります。


より大きな地図で お亀神社 を表示

なんか市有地に建ってて一時期、政教分離に反するとかで問題になったそうです。
そんなこと言ってたら古い祠なんて全部移転させなけりゃいけなくなっちゃいますよね。
まあ、それはいいとして。写真はパクリなんで小さく載せます。
この「お亀磯」も「お亀神社」も「おかめ」で「おたふく」の事と思われます。
実際に「お亀」「阿亀」と書きますので。
で、「おたふく」はご存知の方もいるでしょうが「天鈿女命(あめのうずめ)」を
起源としています。
天鈿女命は天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまおや)
石凝姥命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人としてニニギに随伴して天降りし、
サルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神と
なりました。

その辺りの事も、もう少し書きたい所ですが、今回はそれよりも「お亀伝説」に関連
すると思われる重要な石像を見つけましたので紹介いたします。
前に書きました徳島中央公園、城山の裏手にそれはありました。
伝説では鹿の目が赤くなれば島が沈むと言われていました。
そして、中央公園にあったのは、

あああああ!!!!!




なんと恐ろしい、燃えるように赤い目を光らせた。



ライオンズクラブのライオンではありませんか!!!
ああ!これは天変地異の予兆なのか!それとも大政変が起きるのか!!!

もういいですか?

そこらのキミたちぃ、こんなイタズラしちゃだめだよ。
おじさん、びっくりしちゃうから。
ライオンズクラブの人にあやまっときなさい。

ということで、お後がよろしいようで。

あ〜、眠れないんでゴロゴロしてるうちに、つまんない記事書いちゃった。
4月1日に書きゃよかったかな。

2011年1月11日火曜日

無尽山 荘厳院 地蔵寺

今回は神社関係の話じゃありません。
特に驚くような話でもありません。ふつーのブログと思ってください(他意はなし)
無尽山 荘厳院 地蔵寺といってもピンとこないでしょうが、四国八十八箇所の五番札所
地蔵寺といえば、分りやすいですかね。
場所はここ

より大きな地図で 地蔵寺 を表示

何をしにいったかと言いますと、五百羅漢を見に行ってきました。
あんまり知られてないと思いますが、五百羅漢があるんです。
六十六番雲辺寺の方が多分有名なんでしょうがあちらは石像、こちらは木像。
で、地蔵院の境内から奥へ奥へと入っていくと
こんな、いい雰囲気の参道がありまして
登っていくと「弥勒堂」「大師堂」「釈迦堂」の三つからなる羅漢堂があります。
弥勒堂前で拝観料200円を払います。


羅漢堂(五百羅漢)
本寺の北側にある。木造の羅漢は全国でも珍しい。安永4年(1775年)に実聞・実名という
兄弟の僧によって創建された。
高さ4丈の釈尊を中心に回廊にほぼ等身大の五百羅漢が安置され地元では「羅漢さん」の名
で親しまれている。
1915年(大正4年)の火災で焼失し、その後1922年(大正11年)に再建したのが現在の堂で、3度目の復興である。


だ、そうです。
ちなみに住所は「徳島県板野郡板野町羅漢」です。

いきなり弥勒菩薩がお出ましになります。
あとは失礼ながら順不動でお姿の紹介を。
と、いってもお名前が分らない(涙)

本当に等身大で、堂内がくらいので、ちょっとこわい。

彩色は、けっこうけばけばしいんです。

進めども進めどもラカンさんの大群。

あ、これは羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)だ、これくらいは分るんですが。

眉の長いのが迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)だろうと探してたけどみんな眉が長いのね。

胸毛みたいなのがこわい(笑

なんか、武器みたいなのを持ってるのでこわい。

写真は全員の分を撮りましたが、さすがに全部は載せられないので、このへんで。
いかんいかん、弘法大師空海像を忘れてはいけません。
ところで、空海の幼名は「佐伯真魚(さえき まお)」でありまして
日本書紀に出てくる、いわゆる佐伯部の末裔だそうです。
あ、讃岐の出身ですね。

Wikipediaでは佐伯部の説明として
『日本書紀』によれば、日本武尊が東征で捕虜にした蝦夷を初めは伊勢神宮に献じたが
昼夜の別なく騒いで神宮にも無礼を働くので、倭姫命によって朝廷に差し出され、次に
これを三諸山(三輪山)の山麓に住まわせたところ、今度は大神神社に無礼を働き里人
を脅かすので、「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸
阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとの起源を伝えている。

前回の太龍寺縁起もそうですが、弘法大師空海、佐伯部の末裔として、絶対「何か」を
知っていたとしか思えないんですね。

そう考えると、話は飛躍しますが、東京の「麻布」おしゃれな町だそうですが
(行った事が無い。一度、原宿竹下通りに行って死にかけました。余談)
空海が824年に開基した麻布善福寺が地名の由来となっています。
麻布が降ってきたとの伝説もあるようですし、麻布と言えば阿波の古代史好きの人は
思わず反応してしまうでしょう。

いかんいかん、五百羅漢の話だけするつもりだったのに、思わず脇道に......
まあ、お遍路に来る方は納経帳ばかり気にしてないで、こんな所も覗いてみてね。



2011年1月6日木曜日

舎心山太龍寺縁起

お正月明けてピンチです。
ブログの画像容量がパンクしそうです。
このBloggerの画像はPicasaって言うフリーの画像サービスとリンクしていて容量は
1Gb(ギガバイト)つまり1024メガバイトあるんですが、今やこの有様。

何故か。「阿波国(続)風土記」 このサイトで画像を700Mbくらい使って
しまってるんです。
容量のアップには年間使用料がいるし、他のブログに移るのもいまさらだし......
悩んでおります。まあ、今回は大丈夫でしょう。

さて、愚痴は置いといて、徳島県の阿南市にあります「太龍寺」
四国八十八箇所霊場の第二十一番札所です。
地図はこれ。

より大きな地図で 無題 を表示

太龍寺は徳島県鷲敷町の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くにあり、古来より
「西の高野」と呼ばれています。 延暦12年(793)19歳の弘法大師空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上
で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法なされたことは、大師24歳の時に著された
「三教指帰」の中に「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星
来影す」と記されています。
つまり、太龍寺と室戸岬は青年期の大師の思想形成に重要な役割を果した修行地である
ことがうかがわれます。               太龍寺ホームページより転載

とあります。
こんな所です。実は「太龍寺」行った事が無いんです。
下のロープウェイ乗り場(鷲の里)までは、昔行ったことがあるんですが、料金が高くて
その時は諦めてしまいました(涙)だって往復2400円ですよ、4人で行ったら9600円
どうしましょう。(あ〜貧乏くさ、今日はそんな話ばっかり)

ま、いいや。で、この「太龍寺」当然、縁起がある訳でして
知ってる人は知ってますが、これが本当に驚天動地の内容。
名草戸畔(なぐさとべ)の時に神武東征ルートに異議があると書いた理由の一つがここに
あります。
その内容なんですが、原本のマイクロフィルムがあるようなんですが、手に入らなかった
ので、写本等から見ていきました。
こんなのね。
でも、ここから書き下していくのは至難の業であることが判明いたしましたので
手を抜いて、「鷲敷町史」「那賀川町史」などから引用していきます。
といいつつも両町史、逃げてます。
「鷲敷町史」には訳文が載ってましたが、「那賀川町史」には「太龍寺縁起」がある
との記載のみで内容は書かれてません。「鷲敷町史」も第一部の真然僧正作の部分には
解説があるのに、以降は無いと言う見事な開き直りを見せてます。
まあ、見れば分ると思いますが、町史にこの内容は書けんでしょう。
それと、「古代阿波研究所」の会報にも掲載されていましたが、敬意を評してそちらの
訳文は引用いたしません。
でも(見てたら怒るかな)どっちの訳文も間違ってる所があるぞ。

そして、県外から見てる方、本当そんな縁起があるのか?と後で疑われると思うので
先にこれを出しておきます。
塙保己一(はなわ ほきいち)検校編纂の「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」
あのヘレン・ケラーも
「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました」
と言った、塙保己一の著作です。
これなら、ちょっと大きな図書館になら大概あるでしょう。
そのうちの「続群書類従 第二十八輯上」333ページから。
ここに掲載されてます。
では、「鷲敷町史」からですが、無論全文は掲載できませんので。
一応全部入力はしたので、欲しい方は連絡してくれれば、テキストを送りますよ。





舎心山太龍寺縁起                   金剛遍照撰

それをもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をも
って徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に困り用を積み威力
を数う、かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあ
り、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあ
り。

中略

在々処々是くの如し、その阿波国
那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯
輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟
うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。
つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ
与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言い
これ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名
国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神
のため相応に玉墟内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登
る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。

中略

空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作
す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この
不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛
の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武
天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心
山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給
う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年
歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中漏降す、五寸虚空蔵あ
り、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在
り、その光数、滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住
なり。
また、西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初
二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に
蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天豫(にんべんに豫)樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在
り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民
に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり、その時、天豫(にんべんに豫)樟船
に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三
柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに
天照大神宮第一稚子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神
あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮
奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。
去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵
涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬
勤行し満足せしめ畢わんぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正
勅に依る者なり。

中略

かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影
向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加
う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山こ
れ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を
誓う。尽未来際、燈明を檠け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。
一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大
神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と偽り
霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かた
じけなくも勅言を訖す。
帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額
形、帝釈天に献上す。その時、広目天撃硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、
空海に賜る。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これな
り。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸
ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。
天長地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常
安隠常住繁昌治定なり。
天長二(八二五)年歳次乙巳六月十三日      金剛遍照  啓白

ちゃんと読んでね。
ほんとに全文載せたい所なんですから。
こんな、国産みから書かれた縁起がありますか?
では「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」からぽろぽろと画像など
金剛遍照つまり「空海」が書かれてます。
阿波国は「磯輪上秀真國是也」とありますね。


さあ、どうだ、神武天皇舎心山行幸とあるでしょ。
図書館に走っていって見てください。
神武天皇は少なくとも阿波国舎心山にいらせられました。
「少なくとも」と書いたのは、本当は「阿波国に居た」と書きたいのです
証拠はぼちぼち出していきます。
その他にもこの縁起
「蛭子、足無し分間無し、天豫樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、
和修吉(わじき)龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民
に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり」
なんて、とんでもない事を書いてあったりするんですが、そこらはご自身で確認
してみてください。

で、もうひとつだけ神武天皇が阿波国にいた資料を出しておきますと。
「阿波国続風土記」第五巻84ページです。
「天日鷲命ハ即日向皇子ニテ」とあります。
「日向皇子」は「神武天皇」のことですよね。
「日本書紀」でご存知の通り「天日鷲命」は阿波国の神であります。
まあ、一説ですよ一説。
また、資料はもっと出しますけど、一説ですよ、一説。
さあ、どうします。「通説」の神武東征ルートが変わっちゃいますよ。



あ〜、こんな文章打ち込むのは「天石門別八倉比賣大神御本記」で止めようと
思ってたのにぃ。