2019年8月25日日曜日

倭の神坐す地(11)

ひじょーに間が空いてしまいました。
本当に申し訳ございません。
え?ど、土下座?

いや、お怒りは重々承知しております。伏してお詫び申し上げます。
というわけで、続きです。

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)
倭の神坐す地(9)
倭の神坐す地(10)

倭大国魂神と大物主を追ってだいぶ遠くまでやってきてしまいました。
(え、そうでもない?)
え〜、先に阿波における物部の痕跡について、『「大田田根子命」については書かんのかい〜!!』という 脅し お問い合わせがありましたので、記しておきますと。
阿波説においては「大田田根子命」がご当地出身であるというのは既定の事実とされておりまして、詳しい説明がめんどくさいんで、あちこちからの引用ばっかになっちゃいますが。

【大田田根子 おおたたねこ】
記・紀にみえる伝承上の人物。
大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。崇神(すじん)天皇の代に疫病や災害がつづいたとき、天皇の夢にあらわれた大和(奈良県)の三輪山の大物主神のお告げにより大神(おおみわ)神社の神主となる。その結果、疫病がやんだといわれる。「古事記」では意富多多泥古命


日本書紀によると、大田田根子命が発見されたのは茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)とあり、
 古事記ではこの場所を、河内の美努(みの)の村と記されています。
 倭大國玉神大國敷神社のすぐ西隣が三野(みの)町です。

 また、大田田根子命の名も地名からの由来であると考えられ、この神社の南の吉野川対岸の地名がつるぎ町太田(旧貞光町)なのです。

写真は徳島県美馬郡つるぎ町貞光の太田神社(田寸神社)
写真は太田川橋

 更に、大田田根子命の先祖に「活玉依姫(いくたまよりひめ)」がいますが、その別名が「三島溝杭姫(みしまみぞくいひめ)」と呼びます。
 ※補足:三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)の娘。神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母。
 そして、その貞光町の東隣が、三島(穴吹町)です。
 三島溝咋耳命の別名は陶都耳命(すえつみみのみこと)であり、大田田根子命が見つかった場所が日本書紀では、陶邑なのです。
  『倭名抄』によると、阿波国三好郡の郷名は、三繩(美奈波)、三津(美都)、三野(美乃)です。
と、いうわけですね(どーゆー)。

さて、もう一度「阿波志」を見てみましょう。
延喜式亦小祀と爲す重清村谷口里に在り即ち廢城の東麓なり
神代紀註に一書に云ふ大國主神又の名は大物主神、又は國作大己貴命と號す又は葦原醜男と曰、又は八千戈神と曰、又は大國玉神と曰、又は顯國玉神と曰
其祠舊大祭料十緡(こん)、城主小笠原氏所割、兵燹に罹り小祀と爲る
なおかつ、「大物主」とは「物部の主の序列トップ」との想定より「物部氏」の系譜を下図の通り表示いたしました。
では、さらに物部の系譜を詳しく記載いたします。

6代
武建大尼命(たけたつおおね)開化 :大尼
伊香色謎命(いかがしこめ)   孝元天皇の妃、開化天皇の皇后
伊香色雄命(いかがしこお)   開化・崇神 :大臣
7代
建胆心大禰命(たけいこころおおね) 崇神 :大禰
多弁宿禰命(たべのすくね) 宇治部連、交野連 崇神 :宿禰
安毛建美命(やすけたけみ) 六人部連 崇神 :侍臣
大新河命(おおにいかわ) 垂仁 :大臣・大連
十市根命(とおちね)   垂仁 :大夫・大連
建新川命(たけにいかわ) 倭志紀縣主 垂仁 :侍臣
大咩布命(おおめふ) 若湯坐連
8代
物部 武諸隅連公(たけもろずみ) 矢田部造 崇神 :大連
物部 大小市連公(おおおち) 小市直 成務 :侍臣
物部 大小木連公(おおおき) 佐夜部直、久奴直 成務 :侍臣
物部 大母隅連公(おおもろずみ) 矢集連 成務 :侍臣
物部 胆咋宿禰(いくいのすくね)   成務 :大臣
物部 止志奈連公(としな) 杭田連 成務 :侍臣
物部 片堅石連公(かたがたし) 駿河国造 成務 :侍臣
物部 印岐美連公(いきみ) 志紀縣主、遠江国造、久努直、佐夜直 成務 :侍臣
物部 金弓連公(かなゆみ) 田井連、佐比連、 成務 :侍臣
9代
物部 多遲麻連公(たじま)   景行 :大連 
物部 五十琴宿禰連公(いことのすくね)   神功 :大連・宿禰 
物部 五十琴媛命(いことひめ)   景行天皇の妃
物部 五十琴彦連公(いことひこ)    
物部 竺志連公(つくし) 奄智蘊連 景行 :侍臣
物部 竹古連公(たけこ) 藤原恒見君、長田川合君、三川蘊連 景行 :侍臣
物部 椋垣連公(くらがき) 城の蘊連、比尼蘊連 景行 :侍臣
10代
物部 印葉連公(いには)   応神 :大連 
物部 山無媛連公(やまなしひめ)   応神天皇の妃
物部 伊与連公(いよ)   仁徳 :侍臣
物部 小神連公(おかみ)   仁徳 :侍臣
物部 大別連公(おおわけ) 矢田部連 仁徳 :侍臣 
物部 伊呂弗連公(いこふつ)   履中・反正 :大連 
物部 麦入宿禰連公(むぎりのすくね)   允恭 :大連・宿禰 
物部 石持連公(いわもち) 佐為連  
物部 目古連公(めこ) 田井連  
物部 牧古連公(まきこ) 佐比佐連  
11代
物部 真椋連公(まくら) 巫部連、文島連、須佐連  
物部 布都久留連公(ふつくる)   雄略 :大連
物部 目大連公(め)   清寧 :大連
物部 鍛冶師連公(かぬち) 鏡作小軽馬連  
物部 竺志連公(つくし) 新家連  
物部 大前宿禰連公(おおまえのすくね) 氷連 安康 :大連・宿禰
物部 小前宿禰連公(おまえのすくね) 田部連 顕宗 :大連・大宿禰
物部 御辞連公(みこと) 佐為連  
物部 石持連公(いわもち) 刑部垣連、刑部造  
12代
物部 木蓮子連公(いたび) 仁賢 :大連 
物部 小事連公(おごと) 志陀連、柴垣連、田井連  
物部 多波連公(たは) 依網連  
物部 荒山連公(あらやま)   宣化 :大連
物部 麻作連公(まさ) 借馬連、笶原連  
13代
物部 麻佐良連公(まさら) 武烈 :大連 
物部 目連公(め)   継体 :大連
物部 長目連公(おさめ) 軽馬連  
物部 金連公(かね) 借馬連、野間連  
物部 呉足尼連公(くれのすくね) 依羅連 欽明 :宿尼
物部 建彦連公(たけひこ)高橋連、立野連、都刀連、横広連、勇井連、伊勢荒比田連、小田連  
物部 尾輿連公(おこし) 欽明 :大連
物部 奈洗連公(なせ)    
14代
物部 麁鹿火連公(あらかい)安閑 :大連 
物部 押甲連公(おしかい) 宣化 :大連
物部 老古連公(おゆこ) 神野入州連  
物部 金連公(かね) 野間連、借馬連  
物部 三楯連公(みたて) 鳥部連  
物部 臣竹連公(おみたけ) 肩野連、宇遅部連  
物部 倭古連公(やまとこ) 流羅田部連  
物部 塩古連公(しおこ) 葛野韓国連  
物部 金古連公(かねこ) 三嶋韓国連  
物部 阿遲古連公(あじこ) 水間君  
物部 大市御狩連公(おおちのみかり)   敏達 :大連
物部 守屋大連(もりや)
別名・弓削大連   用明 :大連
物部 今木金弓若子連公(いまきのかなゆみのわくご) 今木連  
物部連公 布都姫夫人(ふつひめおおとじ)
御井夫人・石上夫人   崇峻天皇の夫人
物部 石上贄古連公(いそのかみのにえこ)   推古 :大連
物部 麻伊古連公(まいこ) 屋形連  
物部 多和髪連公(たわかみ)    
15代
物部 石弓若子連公(いわゆみのわくご) 今木連  
物部 毛等若子連公(もとのわくご) 屋形連  
物部 奈西連公(なせ) 葛野連  
物部 大人連公(うし)    
物部 目連公(め) 大真連 欽明 :大連
物部 雄君連公(おきみ)   天武 :大紫冠の位
物部 鎌束連公(かまつか)    
物部 長兄若子連公(ながえのわくご)    
物部 大吉若子連公(おおよしのわくご)    
物部 鎌姫大刀自連公(かまひめおおとじ)   推古 :参政
物部 恵佐古連公(えさこ)   推古 :大連
16代
物部 耳連公(みみ) 今木連  
物部 馬古連公(うまこ)   孝徳 :大華上の位
物部 忍勝連公(おしかつ)    
物部 金弓連公(かなゆみ) 今木連  
物部 荒猪連公(あらい) 榎井臣 孝徳 :大華上の位
物部 弓梓連公(あづさ) 榎井臣  
物部 加佐夫連公(かさふ) 榎井臣  
物部 多都彦連公(たつひこ) 榎井臣 天智 :大連
17代
物部連公 麻侶(まろ)
と、書き続けておりますが、途中「物部 塩古連公(しおこ) 葛野韓国連 」の部分が赤字で示されているのを奇妙に思われるかも知れません。
この物部塩古、先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀 によれば

弟、物部塩古連公(もののべのしおこのむらじきみ)
葛野韓国連(かどののからくにのむらじ)らの祖
とあり、

葛野韓国連については
連姓。辛国、物部韓国ともいう。本拠地には和泉国和泉郡唐国(和泉志)など諸説ある。
ウヂ名の由来については、続日本紀延暦九年十一月に韓国連源らが「是物部大連等之苗裔也」「源等先祖塩児、以父祖奉使国名故改物部連為韓国連」と上奏したことがみえ、下記の姓氏録和泉国神別にも同様の記事があるように、物部氏の一流が韓国に派遣されたことにちなむ。また、渡来系集団による物部氏同族への冒称と見る説もある。
氏人には、上記の韓国連源のほか、役君小角に師事し、のち天平四年十月に典薬頭に任じられた韓国連広足や、物部韓国連真成(続紀延暦八年正月)がいる。

伊香我色雄命の後裔。(「録」摂津国神別)
采女臣に同祖。神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。武烈朝に韓国に遣わされ、復命したときに韓国連の姓を賜ったという。(「録」和泉国神別)

そして、こちらも見ていただきたいのですが。
 

ついでに、こう。

「先代旧事本紀 天孫本紀」の「物部氏系譜」「尾張氏系譜」「海部氏系図(勘注系図) 」を見比べた時、
物部氏の一流が韓国に派遣されたことにちなむ。
の部分と「天村雲命」こと「五十猛命」が新羅に赴いていたことにより、「天村雲命」が物部氏の祖と重なってくると思われるのです。

仮に、「天村雲命」が物部氏の祖であったとして、ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)を思う時

「天羽々斬(あめのはばきり)」
ヤマタノオロチを切った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」)が、物部氏の神社「石上布都魂神社」に祀られヤマタノオロチの体の中にあった草薙剣(別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ))が尾張氏の神社「熱田神宮」に祀られている。

まとめ:大宜都比売命の裔(6)
でも説明いたしましたが

「大宜都比売命」が又の名を「大阿波女(おおあわめ)神」「阿波女(あわめ)神」「阿波波(あわわ)神」であり、「天津羽羽神」であります。

ヤマタノオロチを切った十拳剣は「天羽々斬(あめのはばきり)」。
ちなみに「羽羽」「羽々」は大蛇を表す古語なのです。
となれば、多少なりとも筋書きが見えてくるではありませんか。
こうやって、話をまとめようと画策しておったのです。

さて、ここで上一宮大粟神社公式インスタグラムより




大粟神社の境内社はたくさんあります。
しかし、明治になり神仏分離令や合祀運動の混乱で分からなくなってしまいました。
宮司家の阿部家旧記が見つかり、江戸時代から明治初めのまさに神仏分離令の混乱期の神社明細帳がいくつか見つかりましたので、謎の祠や、忘れさられた神々がこれからお目覚めになられるかと思います。
さて、神仏分離令で多くの境内社が失われたのですが、二社は残されたのです。
若宮神社(粟神社)と八坂神社です。
若宮神社北向きと言う特殊な神社でして、オオゲツヒメ神さまの若宮とされる葦稲葉神の社です。
また、本来は大粟山自体を神として信仰していますが、古くから口伝で宮司家は若宮神社を粟神社としてあわせてまつりました。
父神である大物主さまを祀ります。
大粟神社のもっとも重要な神社の一社がこの若宮(粟)神社です。
つぎに崇敬される神社は八坂神社です。
江戸時代は、瀧宮牛頭天王社と呼びます。
現在は先代が復興し、社を別の場所に再建しましたが、豊玉姫神社が相殿で祀られていました。
八坂神社の祭神スサノヲ神は、
大粟神社の八神宮の筆頭である腰宮と並び別格の扱いです。
それもそのはず、八坂神社は裏鬼門の大久保に本宮が鎮座します。
八坂神社境内には、火にまきこまれたオオゲツヒメ神さまがお馬を石に変えて、大久保に舞い降り難を逃れたと言うお馬石神話が残ります。
お馬石をまつる御馬石神社は丹生内山ですが、八坂神社にはミニお馬石が祀られています。
残念ながら御馬石神社は山道が荒れ整備が追いついていないため、我々地元の人もしばらく迎えない状態です。
氏子会で整備事業を始めたいと思っていますが、
八坂神社へお参りくださればお馬石を遥拝できます。
さて、
明日は境内摂社粟神社の祭礼を午前10時より行います。
古き神々の信仰が忘れ去られた近世末期でも、八坂神社と若宮神社は境内に残されました。
若宮神社は大久保にも上角にも分祠されています。
そして実は境内社若宮神社は「葛倉神社」と書いてある記録が阿部家にはありました。
葛倉神社は腰宮です。
腰宮は一宮ともいわれました。
若宮とは言いますが、
境内社が北面しているところからも、
若宮神社が最も重要な摂社であることは変わりないでしょう。
一宮とも伝わる神社だからこそ、宮司家は「粟神社」と尊称してきました。
さらには、阿部家旧記に記録がありますが、大粟山自体をお祭りしていたのです。
若宮神社にはこのような信仰があったのです。
粟忌部や国造伝承で葦稲葉神さまをご存知の方はいらっしゃいますが、山自体の信仰を是非とも知っていただき、
大粟山の偉大な神さまである大物主神さまをお祀りください。

あか〜ん!!!
これを読んでしまったら「このままでは」次が書けないではありませんか(涙)
いくつか想定できる論はありますが、これ以上この稿は引っ張れません(個人的に)。
一旦出直し、捲土重来を諮りますので、尻切れとんぼで終わることをご容赦ください。

かならずしや、違う形で書き直させていただきますので。
仮の「END」とさせていただきます。

やめてくださいっっっ....