2010年6月27日日曜日

雨の後

えーと、ここって普通の日常の事を書いていいブログだったのでしょうか?
えーと、タイトルは「ぐーたら気延日記」。あ、書いても良さそうですね。


雨が上がりました。
やっと日が射して来て暑い事、暑い事。
夕方陽が翳り始めてから犬の散歩に行きますと、毎年の事ですが。
道ばたにこんなのがいっぱい。

そうです、ヤマモモの実です。
あまり人が通らない農道ですがこのとおり、落ちたヤマモモの実でいっぱいです。

携帯で撮ったんで写りが悪いんですが、樹にも鈴なりです。
これからまだまだ実がいっぱい落ちます。採る人もいません。
小粒ですが、結構甘酸っぱくておいしいんです。
これが、家から歩いて5分以内の所にあります。
その他にも、

これも写りが悪いんですが、「ドクダミ(十薬(じゅうやく))」の群生です。
これも採る人なんていません。
あと、気延山の頂上付近にタラの木の群生があって、タラの芽がいっぱい採れる所を
知ってるんですが、脚立がいるので採った事は無いです。
また、すっごく大きな栗が成る木も知ってますが、当然の如く内緒です。
自然の恵みはありがたいですね。
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で、終わっときゃいいんだけど。
サイトに書こうと思って「古風土記」全般について調べてました。
「風土記」秋本吉郎著(岩波書店)
「風土記」吉野裕著(平凡社)
「古風土記研究」鵜殿正元著(泉文堂)
「入門古風土記 上下」水野裕著(雄山閣出版)
「風土記を学ぶ人のために」植垣節也/橋本雅之
等、その他数冊めくってきましたが衝撃ですね。

風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。
元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。
ただし、この時点では風土記という名称は用いられていない。wikipedia

などとありますが、全冊目を通して 編纂の目的については通説が無い。
または、目的が判ってない、ってあるんですぜ。
上記の本のうちの誰かなんて、「未研究の分野なので開拓できる事を喜ぼう」
なんて書いてあるんですぜ。勅命の事業である風土記編纂の目的が判っていないって
唸ってしまいました。

また、逸文については惨憺たる状況。
特に阿波国風土記逸文については、「伝承である」「説話である」のみ。
まあ、「未研究の分野なので開拓できる事を喜ぼう」。とほほ。
と、言う訳で一文書くのに悩んでいるのです。


2010年6月26日土曜日

経過報告(愚痴)

甘い生活(蜜月の終わり)

で、公開するなんて言ってしまっちゃいました。

「阿波國続風土記」公開作業の経過報告(愚痴)です。
経過なんていらねえからとっとと作業して公開しろ?
いやいや、そんな天の声は無視して否応無しに経過報告します。

一巻目と二巻目はスキャンを終了しました。
で、一巻目の画像加工、解像度の変更とか筑波大学所蔵の記載とかの処理が終了して
サイトへの張りつけまで終わりました。
こんな感じです。






















ちなみに
解像度が200dpiのGreyスケールjpeg画像に変換、300dpiは容量の関係であきらめました。
また、保存用ならば32bit Tiff画像にするんでしょうが、これも容量が大きくなり
すぎるためjpegにしました。汎用性を考えてjpeg2000にはしてません。
画像サイズが3779 × 3153ピクセル。元の用紙はA3サイズだったので余白部分を
トリミングしました。
1画像あたり平均1.6mbになってます。
めんどくさかったのが「筑波大学.......」の文字入れでした。
Photoshopのライセンスとバージョンアップ期限がとうに切れてて使えません。
フリーのGimpでスクリプト組もうかな、なんて考えてる方が時間がかかるので
手作業で入れたら、けっこう手間がかかってしまいました。
次回までには組んじゃおうかな。

サイトの構築はGoogleSiteで行ってます。グループ編集ができるからです。
ただし、編集ツールの使いにくさは評判物です。
それとGoogleSiteは写真共有サイトPicasaとの連携ができます。(これが後で仇となる)
ありがたいことにPicasaは無料で1Gbまで使用できます。
1枚あたり1.6mbの画像を400枚アップすれば640mbとなります。
これだけの容量を「無料で」使える画像オンラインストレージはPicasaかFlickrぐらい
だとおもいますが、Flickrは月100mbしかアップできないし(総容量は無制限)
YahooUSAのアカウントが必要なので、やめました。
今後Picasaで足りなくなればFlickrに分割しようかなとは思いますが。

で、仇となったのが、このPicasa.
画像を貼付けるのにGoogleSiteの挿入メニューから貼付けたのでは2枚目以降がリンク
しないのと、直接Picasaアルバムにリンクしてしまうのです。
(使ってない人には「なんのこっちゃ」でしょうけど)
それが判ったのが、1巻目109枚を貼付けた後!
全部削除してPicasaより直接タグを取得し、コピーペーストでGoogleSiteのページのHTML
内に貼付ける作業をやり直し。
つまりこんな感じ。クリックするとPicasaに飛ぶはずです。





後から見ればGoogleSiteに説明があったんですけどね。

後はガイド用のリンクと「阿波國続風土記」の説明書きと筑波大学からの使用許可
条件を注意書きとして記載すれば、一発目を公開します。
もうちょっとですので
はい今日は、やくたいもない愚痴ばかりで失礼いたしました。
まあ、出版のプロの方から見れば「何やってんだ」って感じでしょうけど。
では

CommigSoon

2010年6月20日日曜日

35年間住んでて知りませんでした

徳島市北田宮にある天神社に行ってきました。
「おい、風土記はどうした」との声もあるでしょうが、そこはそれ昨日懺悔して
いい気になっております。(さっそく開き直りかよ)
まあ、ワールドカップも見なくちゃいけないし(意味不明。日本惜しかった)
むにゃむにゃ(ごまかしてる)

と、いうわけで行って来たのには訳があります。
昭和8年の加茂町誌を見てましたら、こんなのが載ってました。

「大塚の貝塚」
町役場の東北約五丁の田の中に大塚と云うのがある。盛り土は十坪ばかりで最も
高き所で高さ四尺くらい、其所には石片が寄せ重ねられ五輪塔の部分品が散乱し
ている。
又、一本の樹(ヤブニッケイ)が淋しく立っている。
里人の語る所に依ると此大塚は昔は大分大きかったのであるが、周囲から狭くさ
れ小さくなっていると、それは大塚の名称から推してもさうでなければならぬ。
又、往年塚の一部から刀剣を発掘した事があるさうで戦死者を埋葬した塚であら
うと云われている。

この近所に35年住んでて、田宮に貝塚があったなんて全然知りませんでした。
ここらに同級生がいっぱいいて、この辺りを走り回ってたのに。
昭和初期の地図を見ても、町役場は田宮の天神社の横だったので、そこから東北へ
五丁あたりを探しまわってきました。

結論。ありませんでした。というか判りませんでした。

だってこんな所ですよ。多少、田は残ってますが住宅地の真ん中。
想定していた場所もマンションが建っていました。

それでは、と言う訳じゃありませんが天神社もお参りしてきました。

もちろん菅公、菅原道真をお祀りしている訳なんですが。

なぜか地神塔があるんですね。不思議ですね。
知ってる人は知ってますけど、この地神塔、阿波徳島の神社にしか見られないんです。
つまり、元々ここは天神社で無かった可能性もあります。
(うわ、こんな事言っていいのかな)
それと、ここの地名「田宮」にも疑問があります。
この「加茂町誌」には

田宮は文字通り田圃中の神社の意で、それが地名に移ったものである。
此宮は今の天神社に該当するものと推測せられる。

とありますが、五丁先が貝塚だった所ですよ。
江戸時代以降は田畑ばっかりだったかもしれませんが、菅公のいて天神社を祀った頃
(鎮座は延喜元年(901年)とある)
田んぼの真ん中にこの神社があったなんて、おかしくないですか?
また、別の説として

田宮の地名は菅公の一夜の宿即ち「旅屋(たびや)」が訛ったともいう

ともありましたが、この説の方がさらに眉唾ですよね。
泊まった所が全部「旅屋(たびや)」になるのなら、全国に「旅屋」か「田宮」の
地名がなくちゃおかしいでしょう。
「加茂町誌」にはありませんでしたが、「田宮」は「小治田宮」からきたとの説を
主張する人もあります。
そして、更に不可思議なのは、この天神社の飛地境内社となる「雲宮神社」。
山川町じゃないですよ、田宮ですよ。
そこにあるのが「雲宮神社」、そうですね「天村雲命神社」を知る人はあれっと
思うでしょう。なぜなんでしょうね。

前記大塚より一丁ばかり北方に無格社雲宮神社がある。
其敷地二十坪ばかりは矢張り小高くなり社殿の在る處は三、四尺盛り上げられている。
数百年を経た椋や榎の大木が其上に生えて居るのを見ても築造の古き事が推測せられる。
「加茂町誌」

で、「雲宮神社」はこうなってました。


この辺りも40年前走り回った覚えがあるんですが、この神社の事はすっかり忘れてました。
時の流れは悲しいものですね。

最後に一番ショックだったのが、天神社のこれ

なんで七福神祀ってるんだよ。
そりゃ、恵比寿、大黒天との関わりも論ずる事はできますが........
天神社なんですよ。

2010年6月18日金曜日

懺悔の部屋(2)



ああ神様、私はまたしても罪を犯してしまいました。
七つの大罪のうちの「怠惰」です。
ああ神様「今に始まったことじゃない」などと言わないでください。
ん?言ってるのは神様じゃない?周りのみんな?
そんなことはいいのです、神様。
実はこんなものが送られて来ていたのに、怠惰ゆえに放置しておりました。
なんという罪深いことでしょう。
サイトがちゃんと仕上がってから一発かましてやろう、などという不埒な考えも
ございました。
でも、放置しておいたのはそんなに長い期間じゃないのです。
ほんの少し、えーと、えーと。
ま、ちょっとです。
とにかく第一巻の公開に向けて全力で作業中ですので、
ああ、すいません嘘です、全力じゃないです、またぐーたらしてました。
とにかく、作業中ですのでお許しくださいませ。

2010年6月12日土曜日

お祭りです

いろいろ書きたいことが溜まってるんですが(表現ヤバいかな?)
ある程度まとまらないと、支離滅裂になってしまうのと資料を探したりする時間が
最近全然とれないので(いちおう仕事もやってるんです)
ブログタイトルらしい記事もたまには書いてみます。
(そこのあなた、つっこまないように)

6月13日は八倉比売神社の夏祭りです。
とは言っても夜店が出るとかは全くございません。
秋の大祭のときは御神輿も出るし、たこ焼きなんかの屋台も少しは出るんですが。
でも夜には提灯が点され、道には幟が立てられてそれらしくなります。

ちなみに秋は10月13日です。御本記に9月13日云々とありましたが、そうです
旧暦の9月13日をそのまま新暦の10月13日としています。

暗くなると提灯を点します。

当番の人は朝6時前から出て来て柱を立てます。
伊魔離神社もこうやって幟が立ちます。


残念ながら広浜神社に幟は立ちません。
ちなみに秋の大祭のときは数件の家が回り持ちで当屋となります。
で、当屋にはこんな幟が立てられます。
この写真は屋台当屋の幟です。屋台と言っても、もちろん夜店の当番なんかじゃありません。
当屋はその他に神輿当屋とか乙女舞の当屋とかがあり、全体の当屋が本当屋といいます。
本当屋は当番となる家が選ばれる基準があるそうですし、回ってくるにしても
100年に一回くらいしか回ってこないそうなので、多分自分が生きてるうちに
することは無いでしょう。
まあ、ブログのタイトルどおり、このぐらいで収めるのが筋なんでしょうが
そこが業と言うもので、(あ、違う?)
これも当番の人が配ってくる(もちろん当番も回ってくる)お札をむりやりご紹介しときます。
どれが何のお札かなんて詳しい説明はあまりしませんが。
というか、あまり知らないという馬鹿者です。
例えば下は荒神様の火伏のお札です。台所に貼ってあります。
下は見てのように疫病よけのお札です。
下はちょっと忘れちゃいましたけど大代祭って言ってたかな?
これも何の分か忘れてしまいました。
次のときは控えておきます。(いや罰当たりです)
これはお正月前に配られる3枚のお札の内の一枚です。
薄紙が被せてあるので見にくいんですが、もちろん開けませんので。

と、いうわけで(ん?)大祭も13日にこだわらずに日曜日にしたらもっと手伝いの人が
出やすいのになどとの、地元の一部の意見もスルーされ毎年10月13日固定の日に行わ
れております。
個人的には10月13日でいいと思うんですが、会社を休むのが厳しいです。
おっと、今回は締めが無いんですが、この辺りで。



2010年6月6日日曜日

マリンピア神戸に行ってきました

いつも一人で神社や古墳ばっかし回ってたのでは家族に申し訳ないので
たまにはみんなでお出かけでも、ということで神戸市垂水区海岸町にある
三井アウトレットパーク マリンピア神戸に行ってきました。


大きな地図で見る



天気は快晴、家からでは神戸淡路鳴門自動車道を使ってノンストップなら2時間かからない
距離です。
やたら暑かったですけれど海沿いなので風もあり、この日はさほど人も多くなく、また
ここは店内通路の幅がゆったりしていて買い物がしやすい所です。

で、店内とか海岸付近をうろうろしていましたが

何かが足りない!

しばし瞑目して(こんなとこで瞑目するなよ)竜安寺の蹲(つくばい)に刻まれている
四文字を思い浮かべ考えておりました。


「吾唯足知」ではなく「不足(たらざる)」を知るべきであろう。
そしてポケットから取り出した、この近辺のGoogleEarth画像。




これは!
国道2号線と山陽電鉄本線をはさんで北側にあるこの巨大な建造物は何だ?
この位置関係ならば徒歩でも20分はかかるまい(なんでわかるんだ)。
「いや、いけない。そんなことは許されない」
との思いとは別にいつの間にか足は勝手に駆け出している。
「どこへ行くの」
「ええい、離せ!」
家族の手がつかんだシャツは破れ、足をつかまれた時に靴は脱げてしまったが
そんなことはものともせず走る、走る。
後ろでは
「どうして、どうしてなの」
との絶叫が快晴の青空に空しく吸い込まれていった。

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山陽電鉄本線の高架をくぐり住宅街の中を登っていくと、ぱっと視界が開けます。



五色塚古墳(ごしきづかこふん)
兵庫県下で最大の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、全長194メートル、高さは前方部11.5メートル、後円部18メートルです。造られた当時の様子に復元されており、表面にはコブシくらいの大きさの石(葺石(ふきいし))が223万個敷き詰められ、1メートルくらいの高さの筒型の埴輪(はにわ/円筒埴輪(えんとうはにわ))が2000個ほど並べられています。4世紀から5世紀にかけて造られたといわれていますが、墓の主が誰であるかは分かっていません。ただ、瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族(ごうぞく)の墓ではないかと思われます。
また、すぐ隣には、直径60メートルの円形の「小壷(こつぼ)古墳」があり、五色塚古墳より少し古い時代に造られたと考えられています。

神戸市ホームページより







前方部分より後円部分を見上げてます。


なんといっても、とにかくキレイに整備されてるってことです。

下の写真は、逆に後円部分より前方を見ています。
先には明石海峡が。
その先には淡路、更に先には徳島が。
地図で見てみると阿南付近を向いているようです。
普通に考えれば、海峡一帯を支配していた豪族が威権を示した証
と行った所でしょう。




後円部分の上は広場になってます。
管理事務所のおばちゃんの話では、最近パワースポットなんたらかんたらで
やってくる若い女の子も結構いるそうです。
おおおおおおおおおお、やっぱ来るものが来た!ということでしょう。
ただ、この日だーれもいなかったのはなぜでしょう。
天は私を見放したのか!それともバチが当たったのか。


詳しいことはあちこちのサイトに載ってるので、これ以上は突っ込みませんが
発掘調査はいざしらず、これほどの整備が必要か?と、ちょっと微妙な感覚です。
無論保存は必要です。それともこんな保存事業をやっていない某県に対する僻かな。

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後のことは語る必要すらあるまい。
快晴の青空と心の闇。
人生を歩む行く末に幸あれ、と願う気持ちさえ失せる長い一日、暑い一日である。



2010年6月4日金曜日

「光慶図書館」と「阿波国文庫」

| |д・) ソォーッ…


キョロ(・・ )( ・・)キョロ(.. )( ..)キョロ(¨ )( ¨)キョロ


ダレカイルカナ?


φ(・ω・ )かきかき






えと、過疎化してる間に鳩山くんも退陣しちゃいましてドリフターズがいれば
「ハトちゃん ペ」なんて言ってるかもしれません。


で、いつもお世話になってます、徳島県立図書館なんですが
今、併設の徳島県立文書館でこんな企画展をやってます。
徳島県立図書館、沿革を見てみると

大正5年7月24日   大正天皇即位記念として創立、徳島県立光慶図書館と称する。
大正6年6月24日   開館式を挙行する。
昭和20年7月4日   戦災により焼失する。
昭和24年5月3日   徳島県立光慶図書館を再建し、憲法記念館と称する。
昭和25年3月13日 火災により焼失する。
昭和28年11月3日 徳島県立図書館の開館式を挙行する。
昭和57年3月     新徳島県立図書館の建設地を徳島市八万町向寺山「文化の森」に決定する。
平成元年10月     徳島県立図書館本体工事竣工
平成2年4月     新館へ移転する。
平成2年11月3日   徳島県立図書館開館

てな感じになってます。
今回は以上で終わりです。

なら、こんなブログ必要ないっすよね。(そこの君、「もともと必要ない」なんてこと言わない!)
箱はこんな感じだったんでしょうが、中身は?
というところで、巨大な中身であった「阿波国文庫」について少々。
羊我山人著の「粟之抜穂」に「阿波国文庫回顧」として面白い一文がありましたので、紹介いたしませう。
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戦災前迄徳島公園の県立光慶図書館は、全国から学者や研究家の来訪が絶えなかった。
それはこゝに「阿波国文庫」と「モラエス文庫」という有名な二大集書があった為である。
「阿波国文庫」は旧藩主元公爵蜂須賀家の所蔵図書で原の数は不明であるが大約六万冊を超えると
推定せられ図書館寄託の分はその一半三万九百五冊でほぼ同数が常三島別邸の倉庫と東京本邸に保管
せられていた。

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これがいわゆる「阿波国文庫」ですね。
前回までの「杉の小山の記」にも「阿波国文庫」の蔵書印がありました。
こんなヤツです。

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この文庫は十二代藩主重喜に招かれて藩の儒員となり、後に幕府昌平校の儒官に進んだ讃岐の儒者
寛政三輔三博士の一人である柴野栗山の旧蔵漢籍と第十四代藩主斉昌の殊遇を受けた江戸の国学者
輪池翁屋代弘賢の旧蔵図書その他で、いずれも歿後遺族から藩公へ献上せられたものをはじめとし、
これに好学の歴代藩主が購入したものや、多数の郷土関係の記録類等が加わったものである。
栗山の蔵書中光慶図書館に保管せられていたものは五百八十七部三千二百六十七冊で、これには
「柴氏家蔵図書」「柴野邦彦後帰阿波国文庫蔵于江戸雀林荘万巻桜」
「阿波国文庫」の朱印があり、他の多くの蔵書印と共にこの本の伝来を物語っていた。
中でも宋版の「春秋穀梁伝」の如きは「金沢文庫」の黒印があり、この書物があまりに見事なので
栗山は自分の蔵書印を押すに忍びずそのまま所有したと伝えられて来た。
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ちなみに「光慶図書館」こんな感じだったようです。


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大正六年県の御大典事業として光慶図書館を創立し、文庫はこゝに移管せられ、昭和三年十一月
当時の館長坂本章三先生の努力によって蜂須賀公爵家との間に公式の保管契約が成立し、向う
十年間を限り毎年金壱千円の保管費を提供せられ、県は鉄骨の完全書架を整備し、根本的分類
整理の上これに収め、詳細な目録カードが編成せられ、神田喜一郎・長沢規矩也・川瀬一馬など
新々の専門学者によって書誌学的に学会に紹介せられ、稀観本は漢籍二百六十六部・和書三百四十部・
計六百六部を数えた。
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と見れば、ここに「ぐーたら」が探す、お宝が眠ってなかったのかと考えるのは当然じゃないでしょうか。
せめて目録を、と探してみれば。
いやあるもんですねえ。


一から四巻までありましたが、「増加」となってます。設立後購入した書籍の目録なんですかねえ。


内容はこうありましたので、四巻全て見てみましたが「阿波国文庫」の目録ではありませんでした。
「小杉 榲邨(こすぎ すぎむら)」の名前さえ見つからないのはどういうことなんでしょうか。
また、蔵書数を見てみても。



大正七年時点で合計16,345冊。「阿波国文庫」の三万数千冊がごっそり抜けています。
これは?
疑問ですが、ここでは置いておきます。
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太平洋戦争の末期、昭和二十年六月館長岡島幹雄君の英断によって貴重本六百六十三冊と目録四冊を
自ら荷車を引いて八万町長谷に疎開し、さらに十月これを名東郡佐那河内村嵯峨に運搬したが、その他の
全部は七月四日の空襲による戦災に罹って全滅してしまった。
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なんで「八万町長谷」なのか、なぜ「名東郡佐那河内村嵯峨」なのか、理由は書かれてませんが
非常に気になる所です。
また「貴重本」の書名も気になります。
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昭和二十四年五月憲法記念館が建築せられて貴重本はこゝに返ったが、翌年三月天皇御巡幸の直前出火の
ために館と共に残らず烏有に帰した。
蜂須賀家別邸の分は戦争中荷馬車数台で運び出して東京に送られ、戦火を免れた郷土関係資料も引き取られて
共に売却せられたので、昭和二十六年以後「阿波国文庫」印のある書籍が東京をはじめ全国の古書屋の目録を
賑わした。
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うーん、「天皇御巡幸の直前」の出火なんて穿った考えが頭の中を駆け巡ります。
「阿波国文庫回顧」は以上なんですが、結果「金沢文庫」に匹敵するとまで言われた「阿波国文庫」は
徳島県立図書館に残る94点518冊となってしまいました。
あと残るは全国の古書屋に売却された別邸の分だけでしょうが、多分散逸に次ぐ散逸で行方を追うことは
不可能でしょう。
この文庫に、どんな珍品があったかを想像するだけで歯ぎしりしてしまいます。(寝てませんよ)
今回はちょっと県外の方にはなじみが薄い話題だったかも..........
(いや、よく考えると、今までそんな話題ばっかりだったんだな)
ま、ちょっと毛色の変わった話題と言うことで。