2010年11月16日火曜日

乃良根公大佐殿、報告です

乃良根公大佐殿、以前より調査依頼のありました「天武天皇中宮摩耶姫命之墓」につき
現地調査してまいりましたのでご報告いたします。
なお、前回いつだったか分らない、平日の休暇を使って調査を行いました。
実は春に一度侵入を試みましたが、調査不足のため撤退した記録が残っております。

まず地図より表示させていただきます。


より大きな地図で 摩耶姫の墓 を表示

登山ラインは自分が記入いたしましたが山道の事で正確ではございません。
GPS機能付きのカメラ等の支給を願いたく申し上げます。

まず、眉山病院より侵入を試みましたが「部外者の侵入を禁ずる」旨の看板が設営され
警備が厳重であったため、このルートからの侵入はあきらめ、忌部神社手前の山道より
突入いたしました。地図では上のマークからです。
進入路入口の写真を示します。
この小祠が目印となります。なお、「えーっ、こんな所からぁ」という感想が現地に
行けば必ず出るものと確信しております。
なお、この小祠、詳細に調査いたしますと
「クレヨンしんちゃん」なる、アニメキャラクターのお札が奉納してありました。
撤去も検討いたしましたが、小考の上、放置する事と決定いたしました。
続き、侵入経路には、上画像の碑を目標の一つとして、確認願います。
あと、登坂路につきましては一応画像を一つ表示いたしますが、大佐もご存知の通り
山道の写真はどこも判断つかないため、以降省略させていただきます。
登坂時間については10分〜15分程度と概算いたしますが、メタボおやじには、かなり
過酷な登坂であった事も報告いたします。
自分にとっては、拷問とも思える過酷な侵入を試み、上画像の場所に到達いたし
ましたが、ここには侵入を防御する為の柵を確認いたしましたので、さらに数十
メートル回り込んだ地点より、再突入いたしました。
手前に由来記、奥に「天武天皇中宮摩耶姫命之墓」を発見いたしました。
門については百均購入と推測されるフックで留めてあるだけでしたので侵入の障害
とはなり得ません。

墓の後方に土盛りが確認できます。
「奥津城由来記」を転記いたします。

この奥津城にまつられてある方は天武天
皇の中宮であった「摩耶姫」であります。
 姫は当時「壬申乱」という内乱に際して相手
方の軍に捕らえられて「いわねひこ」という者に連
れられて都から阿波国の琴弾山に来られまし
た、その時姫は懐妊中でありましたので気が
転倒して遂に悶死されたのであります。
よってこの地に奥津城を築いて、丁重に葬っ
てあったのであります。時代の変遷に伴って
この奥津城を顧みるものもなく見るかげも
なく荒れてしまっておりましたので、ここに修
復を行い、その祭祀をつづけることにし
ております
宗教法人 自然社徳島教堂

この由来記について見ると、不明な点が多々認められます。
まず、「摩耶姫」って誰?
天武天皇には七人の妃がいたという事になっていますが「摩耶姫」が分らない。

まず、鸕野讚良(うののさらら)は持統天皇(じとうてんのう)のことなので、違います。

大田皇女(おおたのひめみこ)は天武天皇の即位を見ずに若くして死んでいますが
大田皇女の産んだ大津皇子(おおつのみこ)が5歳のときなので、没年は668年
と推定され、壬申の乱の起こった672年より前なので違います。

大江皇女(おおえのひめみこ)は、没年、文武天皇3年12月3日(699年12月29日)
なので違う。

新田部皇女(にいたべのひめみこ)も没年、文武天皇3年9月25日(699年10月23日)
なので違う。
氷上大刀自(ひかみのおおとじ)没年、天武天皇11年(682年)

大原大刀自(おおはらのおおとじ)は生没年不詳ですが、天武天皇の没後
異母兄である藤原不比等の妻となり、藤原麻呂を生んでますので、ちがう。

大蕤娘(おおぬのいらつめ)没年、神亀元年7月13日(724年8月6日)で違う。

つまり記録に残ってるどの妃、中宮にも当てはまらないのです。

次に「いわねひこ」って誰?
どう書くのかも分らないし、日本書紀の
「葦原中國(あしはらのなかつくに)は、磐根(いわね)・木株(このもと)・草葉(くさのは)も猶(なお)能(よ)く言語(ものい)う。
の磐根くらいしか思いつかないし。誰なんでしょうね。

そして、「阿波国の琴弾山」ってどこ?
讃岐、香川の「琴弾山」「琴弾公園」なら知ってるけど、「阿波国の琴弾山」は
知りません。

ちなみに「奥津城」は「おくつじょう」じゃなく「おくつき」と読みます。
神道のお墓の事をこう言うんです。

乃良根公大佐殿、上記の経緯を経て調査報告とさせていただきますが、なお詳細な
調査の必要があると認められますので、継続調査の許可をいただきたく、申請
いたします。

それにしても、これが事実だとすれば「えらいこっちゃ」の状況になると推測され
ます。通説では壬申の乱は大和と近江で行われた事になってますが、捕らえられた
姫が阿波へ連れてこられるなんて、どう考えてもおかしいですよね。
ここらで記紀阿波説が信憑性をもって語られる事になるわけなんですが。
この記事では「摩耶姫」も「いわねひこ」も分らない状況なんで、壬申の乱
阿波説も一旦置いておきます。

なお、この「奥津城」の裏側に

上写真の、謎の建造物があった事も追加報告いたします。

12 件のコメント:

  1. お疲れ様でした!!
    いゃ~眉山周辺が面白いですネ♪
    JRに乗って眉山周辺を散策し、徳島ラーメンとギョーザとビールを飲んで、またJRで帰るという素晴らしい構想が浮かんでまいりました(*^_^*)♪
    次の登山は眉山にしましょうかネェ・・・(●^o^●)♪
    情報をありがとうございました!!
    (*^。^*)♪

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  2. to すえドン さん
    >JRに乗って眉山周辺を散策し、徳島ラーメンとギョーザとビールを飲んで、またJRで帰る
    すばらしいプランです!
    ただ逆にすると散策できなくなっちゃいますね(笑)
    それにしても眉山周辺(眉山そのもの)はおもしろいです。
    あと、何箇所か面白そうなところの目星をつけてありますので、また報告いたします。

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  3. 乃良根公大佐2010年11月19日 16:32

    おつかれさまでした。もとい、ご苦労だった。008。
    私もいずれ調査するつもりだったが、もうその必要はないようだ。
    というより、こんな場所だとは思いもせなんだ。

    しかしながら、この奥津城の由来というものは興味深い。
    伝承なのか?古記録なのか?はたまた自然社教祖のお告げなのか?
    潜入調査は君のテリトリーではないので、006を派遣しよう。
    というより、自然社の方、これを見てたら教えてください。

    しかし、「いわねひこ」にせよ「摩耶姫」にせよ、つくり話なら、もっと、もっともらしい名前にするはずだ。
    摩耶姫という名前は、「らしくない」ので別名か、後世の諡だろう。

    「琴弾山」というのは島根にもあって、「出雲国風土記」に大国主命の琴を仕舞った岩屋のある山だ、と書かれているらしい。
    原文は未確認だ。

    大国主命の琴を置いた山を「琴弾山」というなら、本山が阿波にあっても不思議はないな。
    他の地名のコピーを考え合わせるなら、香川、島根なら十分ありえる。

    次回、謎の建造物に突入する際には応援に特殊部隊を派遣するから言いたまえ。
    それから、GPS付きデジカメならLUMIX DMC-TZ10が2万以下で買えるから来月支給するボーナスで入手したまえ。

    今回の活躍により、ジェームス・ボンドが死んだら君を007に昇格させることを検討中である。

    なお、このメッセージは、30秒後に自動的に消滅する。

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  4. to 乃良根公大佐殿
    008とは「まるまるぱあ」のことでありましょうか、大佐殿。
    報告に漏れましたが現地は勢見山古墳で奥津城後ろの土盛りはどうも古墳のようです。4世紀頃作られた模様です。
    ですので、「摩耶姫」が実在したとすれば、この古墳にゆかりのある人物、系統、血筋の人物であると推測されます。
    また、大佐のおっしゃるように大国主命の琴を置いた山を「琴弾山」というならば、阿波にあっても不思議はないと同意いたします。
    この点継続調査いたします。
    一点だけ、お言葉ではありますが、来月のボーナスなるものについては、「住宅ローン軍団」の総攻撃により、壊滅予定であります。
    転進!転進!!

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  5. あわちゃん2011年6月2日 20:45

    これも見ていました・・
    が覚えていたのは くれよんしんちゃんだけだったので、改めてしっかり読ませていただきました。
    八万にいたこともあり、眉山に上る裏の道、何度か登りました。途中から横道に入った場所ですか。

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  6. to あわちゃん
    横道というか、道ともいえないような道ですが。
    忌部神社側から登る方が分りやすいかも。
    でも、忌部神社前も金刀比羅神社前も二軒屋の通りに面しては車が置けないのが難点ですね。

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  7. あわちゃん2011年6月3日 20:42

    美馬から八万へ行くのに、石井のひよこから国分寺の住宅地を抜けて上八万へとすごいスピードで走りぬける紺のミラ。
    ・・その少し向こうあたりが気延山でしたか。
    地元の人に迷惑な近道は慎まなければいけません。
    もう20年も前のことですが、すみませんでした。

    それにしても、麻耶姫って。
    六甲ケーブルのような名前ですね。誰だったんでしょう?

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  8. to あわちゃん
    気延山は石井のヒヨコの南西、国分寺の西側の山です。
    神社前の道路も少し広くなって通りやすくなってますよ。
    一度おいで下さい。
    20年前はワタクシは住んでませんでしたので、構いませんよ(笑笑笑)
    摩耶姫に着いては乃良根公大佐 もおっしゃっているように後世の諡(いみな)でしょう。でも六甲というのは引っかかりますね。一絃琴 を須磨琴というそうですね。時代が違うかもしれませんので追求は止めときます。

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  9. 初めまして、自然社本宮出身の福井清光(きよてる)です。

    ここを、大切に復興したのは、私の祖父の世代ですので、申し訳ありませんが
    私は詳しいことは知りません。
    ただ、小さいころ祖父母に連れられ、毎月の摩耶姫さんのおまつりに、夏休みに和歌山から
    祖父母の家に泊まっていた頃など、行かせていただいたことはあります。

    自然社には、摩耶姫さんのことを書いた記事、(現在の徳島教堂長、久米先生のお父さんが書かれました。)残っているはずです。
    一度、自然社徳島教堂を訪ねてみてくださいませ、

    また、和歌山の高野山近くにある、自然社本宮にもぜひご参拝くださいませ。

    摩耶姫さんのお墓が、世界中に紹介されていると思うとありがたくて
    涙が出ました、ありがとうございます。

    今は、年一回徳島教堂がおまつりをしていると思います。

                                   昭和の日 福井きよてる

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    1. 丁寧なコメントありがとうございます。
      5年も前に書いた記事で、内容も文章も拙く、失礼いたしました。
      貴重な記録をこのような形で残していただいて感謝しております。
      年一回お祀りしているというのも、素晴らしいことだと感服致しております。
      また、機会あれば自然社にも寄らせていただき、記事等も確認させていただければありがたいと思います。

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  10. ぐーたら様

    返信ありがとうございます。

    ぜひ、自然社にお立ちより下さいませ。

    昨日、自然社徳島教堂の先生とお話する機会に恵まれ、
    「摩耶姫」さんのことを聞きました。

    私の祖父の世代の方々が、復興したのですが、そのときに
    「虹」が出てそのことで神様にお伺いたてたら、
    天武天皇の中宮であることなど【奥津城由来記】に
    書いてあることなどを教えられ、大祭は12月15日に
    行っていたとのことです。

    12月というのは、寒い時期なので、いまでは
    5月15日に大祭を行っているそうです。

    現在の徳島教堂の先生も学生の頃、この奥津城の
    復興のお手伝いをしたそうです。
    お父様が、そのことの記録を残しておられ冊子にもなっているそうで
    徳島教堂にあるのではと語っておられました。


    徳島教堂ゆかりの父(50年以上にわたって、自然社本宮のご用を務めさせていただいています)にもこのことについて聞くと
    当時の教堂の責任者の先生や、祖父たちが
    頑張ったとのこと。

    5月15日、もうすぐ大祭が行われます。
    ぐうたらさんも、もしよろしければご参拝くださいませ。

    時間を聞いてくるのを忘れてしまいました。

    詳しくは、自然社徳島教堂にお問い合わせくださいませ。

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    1. 先程の記事の「虹」ですが、まず不思議な虹が出て、
      その虹の事で、神様にお伺いをたてたところ
      「天武天皇の中宮、摩耶姫のお墓であることなどが分かったそうです」
      そこで、荒れ果てていた墓地を、祖父たちが一生懸命修復したとのこと。
      その虹が出ていた日が12月15日で、しばらくは大祭が
      12月15日に行われていたとのこと。また、12月は寒いので
      その後 暖かい5月15日大祭を行うようになったとのことです。

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