2020年4月26日日曜日

「ヤマトタケル」って誰?(3)

「ヤマトタケル」って誰?(1)
「ヤマトタケル」って誰?(2)

コロナ禍で大変な時期にこんなの書いてていいんだろうか、などと思ってましたので上梓するのを躊躇しておりましたが、自粛がいつまで続くかもわかんないし、遠慮しつつ出してみます。

さて、ここから話は説明がスパゲッティになっていきます。
付いて来ていただければ、ひじょーにありがたいのですが自分でも消化しきれておりませんので、どこまで書けるのやら...という訳ですが。

前回で、「ヤマトタケル」が「息長氏」(かも)と言うところまででしたが、阿波國は海(あま)國からだという説もあるほどに、いわゆる海人族に由縁ある場所でありまして。
例えば
「三代実録」貞観6年4月22日条に見える海直氏
四月廿二日戊寅 廿二日戊寅 阿波國名方郡人從八位上海直豊宗 外少初位下海直千常等同族七人賜姓大和連

海直は「あまのあたい」と言うんでしょうかね。

海部は摂津(凡海連)、尾張(海連、海部直)、三河(海直、海部首)、遠江・上総・若狭・越前(海直)、越中・丹後(海部直)、但馬(但馬海直)、因幡(海部直)、出雲(海部直・海部首・海臣)、隠岐(海部直)、播磨(海直)、吉備(吉備海部直)、備前(海部直)、備中(海部首)、周防(凡海直)、長門・紀伊(海部直・大海連)、阿波(海直)、讃岐・豊前・豊後(海部公)、肥前(海部直)

と多岐にわたる部民が確認されておりますので、単純に「ここ」に記載された「海直」の文字だけを見れば「海部」とは別系統の部民だったと思われます。

また
同書同年8月8日条に見える安曇部氏
八月八日壬戌 阿波國名方郡人二品治部卿兼常陸太守賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂。改部字賜宿祢 粟麻呂自言 安曇百足宿祢之苗裔也

安曇「宿祢」の姓を賜ったとの記録ですが、安曇氏は、「阿曇(安曇)」を氏の名とする氏族であり、海神である綿津見命を祖とします。
その記しとして、国府町「和田」には「王子和多津美神社」が現存しております。





あと「海部」については敢えて書くまでもないと思います。
「海部郡」を思い出せばそれでいいでしょ、というか書き出せばキリないんで(笑)。

つまりは「息長氏」「海部氏」「海直」(多分系譜が違うと思う)「安曇氏」と少なくとも四種類の氏族が阿波國に存在していたと言うことなのです。

そして、阿波國を統べるのは「粟凡直(あわのおおしのあたい)」。
通常「国造」の姓は「直(あたい)」でありますので「粟凡直」が「国造」で何の問題もないのですが、じゃあ「海直」は?っていうのは、ここではちょっと置いといて下さい。
あと、遡って「長」の一族とか他の海人族についても言いたいことはあるでしょうけど、今回の論にはいたしませんので悪しからず。

さて
古田史学会報からお借りいたしました「四人のヤマトタケル」系図です。



古田史学会においては、「ヤマトタケル」は複数人いたとの説を採用しているようです。
個人的に全て賛同するというのではありませんが、一つの考え方として、複数の人物の業績を一人の「ヤマトタケル」の話として纏めたというのはありうる話だと思うのです。


例えば
阿波國(古)風土記 逸文には
(萬葉集註釋 卷第七)
阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。



と、倭健天皇命(やまとたけるすめらみこと)とあり。
「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)にも

常陸国司、解。古老の相伝ふる旧聞を申事。
国郡の旧を問ふに、古老答へて曰く、古は、相摸の国足柄の岳坂より東の諸の県、惣我姫の国と称き。是当時、常陸と言はず。唯、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と称、各、造・別を遣て撿挍めしめき。
中略
倭武天皇巡狩東夷之國。

常陸の国の司が申し上げます。古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語を。
 古へは、相模の国の足柄の坂やまより東の諸々の県は、すべて吾妻の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。ただ新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の小国には、朝廷より造・別が派遣されてゐた。
 後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向臣や中臣幡織田連らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である。
 行き来するのに、湖を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いてゐるので、まっすぐ行ける道、つまり直通といふことから、「ひたち」の名がついたともいふ。
 また、倭武の天皇が、東の夷の国をお巡りになったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水をお褒めになり、そして手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったともいふ。

倭武天皇(やまとたけるすめらみこと)と記載されています。
ちなみに、「倭武天皇」と記載されているのは、この二國の風土記のみです。

ちなみに「常陸国風土記」って聞いてピンと来る方は、ヒジョーに怪しい人ですね(笑)。

例えば、この件を「古田史学会」の説に従えば、複数の「ヤマトタケル」がいて、そのうちの「息長氏」である「倭武天皇」とされる一人が阿波國にいた(もしくは通過した)。
また、常陸国にやってきた。
これは同一人物なのか?
あるいは、どこかの時期に在位していた天皇を「ヤマトタケル」と呼んだのか?
あるいは、阿波國から常陸国にやってきた「息長氏」の「誰か」が後に天皇として即位したのか?

これは「息長田別王」についても同様に言われており、「先代旧事本記」による「息長田別王」の出自については

 日本武尊娶兩道入姬皇女為妃,生三男一女.
  兒,稻依別王.犬上君‧武部君等祖.
  次,足仲彥尊.
  次,布忍入姬命.
  次,稚武王.近江建部君祖‧宮道君等祖.
 妃,吉備武彥女-吉備穴戶武姬,生二男.
  兒,武卵王.讚岐陵君等祖.
  次,十城別王.伊豫別君等祖.
 妃,穗積氏祖-忍山宿禰女-橘媛,生九男.
  兒,稚武彥王命.尾津君‧揮田君‧武部君等祖.
  次,稻入別命.
  次,武養蠶命.波多臣等祖.
  次,葦娶虌見別命.竈口君等祖.
  次,息長田別命.阿波君等祖.
  次,五十目彥王命.讚岐君等祖.
  次,伊賀彥王.
  次,五田王.尾張國丹羽建部君等祖.
  次,佐伯命.參川御史連等祖.然,按姓氏錄參河國御史連,景行皇子氣入彥命之後也,與此紀異.

日本武尊と橘媛との御子であるとの記載ですが、例えば阿南市史の編集者でもある、郷土史研究家の吉見哲夫も「息長田別王」について

また皇統本紀に「阿波之君」の祖として記されている息長田別命という御名は、息長一族の「息長(おきなが)」と、四世紀後半の誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)の「田別尊(たわけのみこと)」をあわせて「息長田別命(おきながたわけのみこと)」として創作され、応神天皇誕生前の四世紀ごろにさかのぼり、日本武尊の皇子として皇統譜に位置づけられたものではなかろうか。

などと書かれております。

いやいや、でも仮に「日本武尊」や「息長田別王」が架空の人物だったとしても、そのモデルになった人物がいたことについては異論はないものと思います。
あるいは「倭武天皇」とされる誰か、「阿波之君」の祖「息長田別王」とされる誰かがいたことには違いないのです。

ならば、まずは「息長田別王」のモデルとなった誰かを特定してみようではありませんか。

次回にね(笑)。