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2018年11月3日土曜日

倭の神坐す地(9)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)

言い訳なしで続けます。

前回ちょっと出てきました、太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963 を確認してみましたら、結構面白い内容がありましたので、ご紹介しておきます。




国造本記に「波多国造に瑞籬(みずかき)(崇神)朝の御世、天韓襲命・神教に依りて、国造に定め賜ふと云う」と載せたり。蓋し韓襲は長国造の祖韓背と同人にして、観松彦色止の裔と考へらる。したがって長、都佐(土佐)の両国造等と同族にして、賀茂、三島族の経営せし国なるべし。

賀茂はいいとして「三島族」とは?、と思っちゃいますよね。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)


大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。




溝咋神社(みぞくいじんじゃ)


創建は不詳。社伝では、第10代崇神天皇の頃に創建されたとしている。当社は祭神節にあるように三島溝咋耳一族を祀っており、『古事記』『日本書紀』の諸伝承との関係が指摘される。
『古事記』神武天皇段では、大物主神が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。
『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘と記されている。
これらの文献を踏まえた上で、さらに当社の境内社には大物主神でなく事代主神が祀られていることから、事代主を奉祀する鴨氏と三島勢力との交流が指摘される。実際、周辺には三島鴨神社・鴨神社といった神社や、鴨村・鴨林といった地名が残り、鴨氏の勢力がうかがわれる。後世になってこの交流が記紀神話に再構成され、出雲系の神が上記の様に強調されたと考えられる。また、三島溝咋耳一族の実態については明らかでなく、三島県主との関係を指摘する説はあるが定かではない。溝は「水」を象徴し、耳は「長」を表すことから、安威川水系の用水に関わる氏族と考えられる。

「溝咋(みぞくい)」については上記の説明にもあるように、一般的には「溝」は水を咋」は杭を顕し水利を司った氏族であるとの見方であるようですが、考えてみてください「用水に関わる氏族」ってなんなのでしょうか?
用水の工事ばっかりやってる氏族?
そんな氏族があったのでしょうか?
無論、あったとしてもおかしくはないでしょうが、それならばどこの治水工事を行ったとか、どこの洪水の時に活躍したとかの伝承がどこかにあってもおかしくないと思うのですが、それも見当たらない。
そこで、一つの考え方を提示いたします。
参考とするのは大阪市立大学講師、辻本 正教氏の「鳥から読み解く「日本書紀・神代巻」

要約はご勘弁願いたいのですが、要旨としては、日本書紀の神代巻に現れる神名は鳥のトーテムで説明がつくということなのです。
 イザナギ・イザナミはセキレイに交合を倣います。
「時に鶺鴒(にわくなぶり=セキレイ)あり、飛び来って其の首尾を揺す。二神見そなはして之に学ひて、即ち交の道を得つ」ですね。
例えば神代巻第1段冒頭の「葦牙(あしかび)の如」とされる神の「牙」は鴉の嘴(くちばし)を示している。
「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とも呼ばれる「阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神」はアジガモをトーテムとする神である。
等々、
ある時期の一つの系統の氏族が「鳥」のトーテムを持って自らの出自を示したという考え方はある意味納得できる部分が多いように思われます。
その考え方を延長とするならば、「溝咋(みぞくい)」の「咋」は「クグイ」ではないでしょうか。

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ガンカモ科の鳥

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ハクチョウの異称
鵠(くぐい)をコウノトリの古語とする説もありますが、これはどちらでも構わないでしょう。
この考え方に立って考えた時、鳥をトーテムとして持つ一族が日本建国に大きな役割を果たしてきたことと、そのルーツの一部が(敢えてこう書きますけどね)阿波に深く繋がっていることを認識していただきたいと思うのです

併せ、こちらもお読みください。


必ず全部ご覧ください。
ボクの書いてることと違うことが書いてあるのは当たり前、神代の事なんて「群盲象を撫でる」如きでありまして見解が全く同じなんてありえません。
ただ共通する部分が...ね(以下略)。

さて、話がずれてしまいました。
では「三島」とはなんぞや?
伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社、高槻の三島鴨神社が「三三島」と呼ばれた。
とのことであります。
まずは上で書いた、伊予の大山祇神社

大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

祭神
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
wikipedia

次に伊豆の三嶋大社
三嶋大社
御由緒
御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
御祭神
大山祇命[おおやまつみのみこと]、
積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、
御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。
三嶋大社ホームページより

そして摂津の三島鴨神社
三島鴨神社

延喜式神名帳にも記載されている、日本で最初の三島神社で、大山祇神と事代主神を奉る。仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まりとされ、伊予と伊豆の三島と並び「三三島」と呼ばれる。
高槻市ホームページより

これら「三三島」の関係を見るにwikipediaの大山祇神社より年表を転記いたします。
年表
・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)

・大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)

・霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
・養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)

・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
については下図「釋日本紀」より

「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」
つまり、伊豫國風土記では、仁徳天皇の御宇に摂津の三島江に出現し、伊予へ移ったとされているわけです。

さらに
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
については下図『三島宮社記』を参照願います。



 つまりは、摂津から大三島に移りさらには今治に移ったと。
ならば摂津の前は本当に百済であったのか?
摂津の三島鴨神社の御祭神は「大山祇神」「事代主神」の二柱となっていることと、あるいは「津の國の御嶋」が「三島鴨神社」ではなく西宮神社(大国主西神社)であったとすれば、御祭神は「えびす神」つまり「大国主」であり「事代主」。
「大山祇神」と「事代主神」の混同が考えられるのではないでしょうか。
ちなみに伊豆の三嶋大社についての研究者はこの説を採っており

この「事代主事跡考」を読むと、

伊豫國三嶋より伊豆へ大山祇神を祀った(御祭神は「大山祇神」と「事代主神」の2説ある)のは「いみじき謬りなり」だそうです。


逆に摂津の三島は伊豆の「事代主」が通ったため「三嶋」を冒称したのであると結論づけているのです。

仮に、「津の國の御嶋」は伊豆から移ったものであり、御祭神が「事代主」であるならば以前
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(15)END
などでも、さんざん書いてきたように、大宜都比売命こと「阿波咩命」「阿波波神」「阿波神」が「事代主命」の本后として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の「阿波命神社」であり、そこから安房神社、三嶋大社へ遷座されたことは明白です。
さらに言えば、この「事代主」は阿波から赴いた事代主であることも確実だと考えるのです。
話がくどくなりすぎたかもしれません。
要は「三島族」は阿波から伊豆の「御島」に渡った「事代主」と「大宜都比売命」の一族のことを示し、鳥の名をトーテムとして冠したことが言いたかったのです。
なので、「三島溝咋」は「御島」から渡ってきた「溝(水際)」の「咋(くぐい、白鳥)」を冠する一族であったと考えるのです。

さて、話は唐突に変わりますが「伊豫國」に「河野氏」の一族が現存しております。

河野氏(こうのし/かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる。第22代当主河野通清以降は「通」を通字とする。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書『予章記』と『予陽河野家譜』などではその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
wikipedia

いわゆる「越智氏」を祖とする一族でありますが

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる。5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その内一つ「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている(『国造本紀』)。
wikipedia

その系譜として『予章記』『予陽河野家譜』などが知られておりますが、ここに門外不出とされた「天徳寺所蔵 伊予国造家 越智姓河野氏系譜」なるものの存在を知ることができました。
いわゆる「越智系図」などでは
上図のように孝霊天皇から始まる系図として記されておりますが、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」においては


「天御中主大山祇神之後 天照皇太神曾孫 初代 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖 ト号ス」
と「饒速日命」を祖とする系譜として記されております。

21時から3時まで6時間ぶっ通しで書いたら、すっごく疲れたので、このあたりで

続く


2018年9月17日月曜日

倭の神坐す地(8)

長らく間が空いてしまいました。
皆様方、こう言いたいのでしょうが押さえてくださいませ。



倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
の続きです。
長らく間が空いてしまいましたので、少々前回の復習を



都佐国造
志賀ノ高穴穂ノ朝ノ御代。長ノ阿比古ノ同祖三島ノ溝杭ノ命ノ九世ノ孫小立ノ足尼定テ賜フ國造
粟國造
軽島豊明御世。高皇産霊尊九世ノ孫千波足尼定賜フ國造。
長國造
志賀ノ高穴穂朝ノ御世。観松彦色止命ノ九世孫韓背足尼ヲ定賜フ國造。

つまり

三島溝杭 ーーー  都佐国造 小立の足尼(九世孫)
          長の阿比古(同祖)
観松彦色止命 ーー 長國造 韓背足尼(九世孫)

このことより、三島溝杭耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」との結論となっているわけです。
さらに、論を進めれば初代の波多國造は「天韓襲命(あめのからそのみこと)」であるのですが


※乙巳の変によって国郡制が定められる前には、現在の高知県西部に『波多国』が存在していた。しかし、律令制が布かれると、波多国は都佐国と合併されて土佐国とされた。

太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年によれば「天韓襲命(あめのからそのみこと)」は事代主の末裔(下画像はwikipediaより)であるので

これも含めて考えれば

長阿比古=三島溝杭の後裔=韓背足尼=長公=積羽八重事代主命の後裔
三島溝杭耳=観松彦色止
天韓襲命=観松彦色止の後裔=事代主の後裔

ムチャややこしいですけど、よーく見てください。
上記より三島溝杭と韓背足尼の祖神の事代主神(観松彦色止)とは同神ということになりませんか?
つまりは

三島溝杭=観松彦色止=事代主神

なのではないでしょうか。
何度も言ってたように「ある時期の」事代主神ですよ。
(注)これは一説であり確定した論ではありません。いわゆる「異論上等」であります(笑)

写真は、徳島県佐那河内村御間都比古色止命を祀る、御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)

ちなみに


上図、全国の「溝杭」姓の分布を調査したところ徳島県が最も多いという結果が出ておりますが、これは意味深でしょう。

では、「もし仮に」、三島溝杭が「観松彦色止」であり「事代主神」であったならば、どういうことになるのでしょうか?

まず「三島」はよく言われるように「三島」一族のこと。新撰姓氏集でも、三島氏は確認できます。
「溝杭」は、よく「溝 (池や川) をつくる者」といわれますが、個人的には違うと思います。

つまり「三島溝杭耳」を言い表すならば「三島」一族の「溝杭」
1.三島溝杭(三嶋溝咋)は「鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)」であり、「玉櫛媛」の父であります。
2.「玉櫛媛」は大物主神の妃であり、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母であります。

ただし、事代主神は三島溝杭命の娘の玉串姫を八尋鰐に化身して娶り、その子が神武天皇の妻である「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)であるので事代主神と三島溝杭が同神であってはおかしいはずなのです。

これについて考えられることとして、注意すべきは「三島溝杭耳」なのか「三島溝杭」なのか?
「耳」は族長の意味でありますので、この呼称が着くと付かないとでは意味が違うように思えます。
また、「三島溝杭」についても個人を表すのではなく、役職を表すように思えます。
そうでなければ「三島溝杭耳」と呼ばれる理由がないでしょう。
ちなみに「ミミ」のつく神名

古代史俯瞰 by tokyoblogより引用させていただきました。

つまりは、「三島溝杭」は一族、「三島溝杭耳」は首長であると言いたいのです。
これも一つの考え方としてね(笑)
では「三島」とは何なのでしょうか?

タイトルの「倭の神坐す地」から少々離れてしまった感がありますが、ここからが正念場、今が胸突き八丁だと自覚しております。
ちょっと短くて申し訳ありませんが、次回はそうお待たせしないつもりです。


続く


2018年7月8日日曜日

倭の神坐す地(7)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)

「大国主」と「倭大国魂」と「大物主」の関係について朧げながら見えてきたような気がしませんか?
(あ、しない?。これは失礼いたしました(笑))


さてと、この「古事記」において、大国主は「大国主」としてのみ記載されておりまして、多くの別名を持っております。

大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名
大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)
八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名
葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを) - 根国での呼称
大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。現世の国の魂の意
伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称。
地津主大己貴神(くにつぬしおおなむちのかみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)- 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称
幽世大神(かくりよのおおかみ)- 祝詞『幽冥神語』での呼称
幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
杵築大神(きづきのおおかみ)
wikipedia

しかし、見てお分かりのように、これらはすべて「呼称」「尊称」「別名」であり「神名」としての「大国主」は示されておりません。
そこで、妃、御子について見てみれば

大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。記においては以下の6柱の妻神がいる(紀では記にみえない妻神がさらに1柱おり、『出雲風土記』ではこれ以外にもさらに何人もの妻神が表れている)。 別名の多さや妻子の多さは、明らかに大国主命が古代において広い地域で信仰されていた事を示し、信仰の広がりと共に各地域で信仰されていた土着の神と統合されたり、あるいは妻や子供に位置づけられた事を意味しているという説もある。

須勢理毘売 - スサノオの娘。 最初の妻で正妻とされる。
八上比売 - 根の国からの帰還後では最初の妻とされる。間に木俣神が生まれた。
ヌナカワヒメまたはヌナガワヒメ(沼河比売) - 高志国における妻問いの相手。間にミホススミ(『出雲国風土記』)もしくは建御名方神(『先代旧事本紀』)が生まれた。
多紀理毘売 - 間にアヂスキタカヒコネと下照比売の二神が生まれた。
神屋楯比売 - 間に事代主が生まれた。
鳥取神 - ヤシマムジの娘。間に鳥鳴海神が生まれた。『古事記』にはそれ以降の系譜が9代列挙されている。
wikipedia

となります。
上記、赤字の部分「記にみえない妻神がさらに1柱おり」の「記にみえない妻神」を探してみますれば

三穂津姫
三穂津姫(みほつひめ)は、日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘で、大物主神あるいは大国主神の后。
『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味になる。出雲の美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られている。丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市)では大国主神とともに主祭神となっており、大国主神の后とされている。三保の松原(静岡市清水区)の入り口にある御穂神社も同様に、大己貴命(ここでは別名を三穂津彦命(みほつひこのみこと)としている)とともに祀られており、「羽衣の松」と縁が深い(御穂津彦命、御穂津姫命という表記もあり)。村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となっており、大物主神の后とされている。


「三穂津姫(みほつひめ)」が顕れてまいります。
この「三穂津姫」、上記記載にありますように、美保神社(島根県松江市)で大国主神の子の事代主神とともに祀られており、
神社の説明としては、
事代主神系えびす社3千余社の総本社である(蛭子神系のえびす社の総本社は西宮神社)。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか、漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集める。
wikipedia
となっております。
事代主系、蛭子神系についての説明は、今回は割愛させていただきまして説明を続けますが、この「美保神社」の鎮座する島根県松江市美保関町にはある伝説が伝わっております。
以下、転記いたします。

鶏伝説
島根県美保関町には、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがある。折口信夫は、その理由として、事代主の妻訪い(妻問い)の物語を紹介している。それによると、「事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜(イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていたが、鶏が間違って真夜中に鳴いたため、事代主はうろたえて小船に乗ったものの、櫂を岸に置き忘れて仕方なく手でかいたところ、鰐(サメのこと)に手を噛まれた。以来、事代主は鶏を憎むようになり、それにあやかって美保関では鶏を飼わず、参詣人にも卵を食べることを戒める」としている。島崎藤村は、「釣り好きの事代主が寝ぼけて鳴いた鶏の声を聞いて未明に船を出し、荒れた海で櫓も櫂も失い、足で水をかいたところ鰐に足を噛まれた」という話を紹介している。現代でも、事代主を再現した美保関の青柴垣神事の際に当屋に指名された者は、1年間鶏肉を食べないで身を清める習わしがあり、美保関から中海を渡った対岸には、美保津姫を祀った揖夜神社がある。
wikipedia

この伝承については折口信夫氏も知るところでありまして、大正九年の「やまと新聞」に
「鶏鳴と神楽と」という題目で寄稿しております。

鶏鳴と神楽と
折口信夫
出雲美保関の美保神社に関聯して、八重事代主神の妻訪ひの物語がある。此神は、夜毎に海を渡つて、対岸の姫神の処へ通うた。此二柱の間にも、鶏がもの言ひをつけて居る。海を隔てた揖夜イフヤの里の美保津姫の処へ、夜毎通はれた頃、寝おびれた鶏が、真夜中に間違うたときをつくつた。事代主神はうろたへて、小舟に乗ることは乗つたが、櫂は岸に置き忘れて来た。拠なく手で水を掻いて戻られると、鰐が神の手を噛んだ。此も鶏のとがだと言ふので、美保の神は、鶏を憎む様になられた。其にあやかつて、美保関では鶏は飼はぬ上に、参詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ伝へて居る。
鶏を憎まれる神様は、国中にちよく/\ある。名高いのは、河内道明寺の天満宮である。
鳴けばこそ 別れも急げ。鶏の音の聞えぬ里の暁もがな
と学問の神様にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姫に別れて、筑紫へ下られてから、土師ハジの村では、神に憚つて、鶏は飼はぬことになつた(名所図会)。此などは、学徳兼備の天神様でさへなければ、苅屋姫をわざ/\娘は勿論、養女であつた、と言ふ様な苦しい説明をする必要もなかつた筈である。
やまと新聞、1920(大正9)年1月

この伝承と日本書紀の記載を比べてみてください。
大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
原文では
時高皇産靈尊 勅大物主神 汝若以國神爲妻 吾猶謂汝有疏心 故今以吾女三穗津姫 配汝爲妻 宜領八十萬神 永爲皇孫奉護

大国主(大物主)は妻として「三穗津姫」を娶っておりますが、その大国主の御子である事代主の母は神屋楯比売であり、三穗津姫ではありません。
にもかかわらず、美保関の伝承では
事代主は、夜毎海を渡って対岸の揖夜の里の美保津姫のもとへ通っていた
のですね。
「三穗津姫(美保津姫)」は大国主の妻であるのか、事代主の妻であるのか?

念のため、「神屋楯比売(かむやたてひめ)」について確認。
「古事記」にのみ登場する女神。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。
「大国主の神、また、神屋楯比売の命を娶りて生みし子は、事代主の神。」 -「古事記」上巻より引用-

うん、言いたいことは合ってます。
また、「出雲国風土記」には大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述はありますが、「事代主」の名は現れず、「事代主」の名が現れるのは文亀三年(1503)の『延喜式神名帳頭註』の美保神社の項でありますが

「美保 三穗津姫成 一座事代主」
であり、あくまで主祭神は「三穗津姫」となっております。

この辺りまでくれば、ワタクシめが言いたいことを忖度していただけるものと期待しておりますが(笑)
阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)」と「事代主」と「大国主」、役職名と神名との記載の仕方が変じゃないでしょうか。

もう一度記載します。
出雲国風土記によりますと、大穴持命(大国主)の子が阿遅須枳高日子命とあり、同じく事代主も大国主の子ですが、出雲国風土記には事代主の名はありません。
本名と役名を混同してますよね。

名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったためである。
大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。
日本書紀・神武紀には、神武天皇の皇后となる媛蹈韛五十鈴媛命に関して

事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。

『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』とあり、事代主は神武天皇の岳父となっている。また、綏靖天皇の皇后は、日本書紀本文では事代主の女、古事記では師木県主の祖河俣毘賣となっていることから大和在地豪族で磯城縣主を任じられた弟磯城(おとしき)との関連性が窺える。
美保で青柴垣に引き籠った事代主神は、伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承もある。富士山の神とともに10の島を生み、現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座したとする。
先代旧事本紀では、大国主と高津姫神(宗像三女神のタギツヒメとされる)の子として記述されている。なお海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、古事記の大国主が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。
wikipedia

また、赤字の部分も考慮に入れ
阿遅鉏高日子根神 = (ある時期の)事代主であり 一時期の大国主(大物主)
であると考えるのです。

この辺り、説明が完全に不足していることを承知で書いてます。

『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
とあります。

古事記上巻系譜でみれば
建速須佐之男命 → 八島士奴美神(八島篠)→ 布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)→ 深淵之水夜礼花神 → 淤美豆奴神 → 天之冬衣神 → 大国主神 → 鳥鳴海神 → 国忍富神

であり、実際には大国主(大穴牟遅神)の後を継いだのは兄弟の鳥取神の子である鳥鳴海神なのですが、

大国主 → ◯◯◯ → 鳥鳴海神

一代抜けているように見えます。
鳥鳴海神は、素戔嗚尊と櫛名田比賣の間の子である八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)との子であり、事代主は大国主と神屋楯比売との間に生まれ、阿遅鉏高日子根は大国主と多紀理毘売の子で、系統が全く違っています。
須佐之男命の直系である鳥鳴海神はなるべくして大国主を継ぐ立場であったのですが、事代主と阿遅鉏高日子根は後、鴨氏が祖神として祀っているように系譜が違う故に、大国主としての名を継ぐようにはなってなかったのではないでしょうか。(この時期では)

いや、実際には、事代主も阿遅鉏高日子根も
大国主(大穴牟遅神) → ◯◯◯ → 鳥鳴海神
の間で、一時期その立場に立っていたのでしょうが、記紀には記されなかったと考えるべきなのでしょうか。

さて、ちょっとだけ横道に逸れますが、
「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」
『事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。』
と、「三嶋溝橛耳神」の神名が出てきております。
娘である玉櫛媛(たまくしひめ)は、日本書紀では事代主神・古事記では 大物主神の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母、でありますが、父である「三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)」についての、ある考察を見つけましたので記載しておきます。
出典は「地名・苗字の起源99の謎―あなたの祖先はどこから来たか (PHP文庫) 」
著者 鈴木 武樹 明治大学教授



この項のタイトルが「三島は、朝鮮半島の神ノ島に由来する」という、なんともいやはやなタイトルであり、全体としては史料の出典がほとんど書かれず、信憑性に乏しい記述でありますが、この項の下部分は、出典もきちんと書かれております。


「また、『先代旧事記』の〈国造本紀〉には、「都佐国造は三島溝杭の九世の孫である小立ノ足尼に始まる」とあり、阿波の長ノ国造・長ノ阿比古(「阿比古」は原始カバネのひとつ。「我孫子」とも書く)も同じく三島溝杭の後裔だとあるので、三島族はこの地方にまで進出していた ものとみられる。さらに、『先代旧事紀』、<国造本紀>の別の箇所には、「長ノ国造は観松彦色 止の九世の孫である韓背足尼に始まる」としるされているので、これを前記の文章と合わせ れば、三島溝概耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」だったのではな いかと思われる。なお、阿波の名方郡には御間都比古神社がある

では先代旧辞本記より



鈴木教授説によれば
『三島溝杭耳の名は「観松彦色止」で、
    長ノ阿比古の名は「韓背足尼」』

なのだそうです。
なお、『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によれば
※平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
この、長ノ国の国造、いわゆる「長公」は下図にありますように



長公
大穴牟智神ノ児積羽八重事代主命ノ後也

とあるのです。
続く(やっと最後かな)

ヤバいこと書いてるのかもしれない(涙)

2018年6月24日日曜日

倭の神坐す地(6)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)

では、「大物主」とは何を表しているのかと考えた時「ワタクシ」めが思いつくのは「物部の主」であったのです。
「大国主」は「国の主のなかのトップの序列」でありましょう。
ならば「大物主」とは「物部の主の序列トップ」と考えると辻褄が合うように思いませんか。
仮に「そう」であったと仮定して論を進めてみますれば「物部氏」の系譜は下図の通り
饒速日命から「宇摩志麻治(遅)命」以降と続く系譜ですが、よく見てみれば、阿波に関わりのある名前が散見されます。

まずは鴨島町の五所神社
別名、「瑜伽(ゆうが)神社」。
鎮座地 徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921
御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 
合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命


「麻植郡郷土誌 」には
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

さらには「阿波国続風土記」麻植郡の項を参照いたしますれば

麻殖塚村神麻山俗に鴻の山と云う。昔は綜麻杵神社と云いしと云う 是も忌部神社と云うなれ共、此の神名は斯くはあらじ
憲明案じて日く、此の神は伊香色雄命の親神ならんかと、思いけらしもせめ 是は申し出甚だ正しきなり
その子細は天日鷲の神社と云わずして、正しく云めり。
 とあり、正しく「大麻綜杵命(あるいは「大綜杵命」)」を祀ってあることが確認できます。

続いて
 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地  徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神  伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと)
     伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
合祀   天照大神 事代主大神
「伊加加志」を社名・御祭神とする式内社は、全国でここ一箇所のみ。
「事代主大神」が合祀されていることにも注意してください。


主祭神の伊加賀色許賣命(いかがしこめのみこと)
伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。wikipedia

また、伊加々志神社より程近い「山崎八幡宮」
境内社「恵比須神社」の傍に

「伊加加志神社」が鎮座し「伊迦賀色許雄命」が祀られております。


このように物部の系譜に現れる「大綜杵」と「伊香色謎(伊加賀志許賣)」「伊香色雄(伊加賀色許雄) 」を祀る神社が存在し、方や、日本唯一の式内社であるという事実があるのです。
ただし、「大綜杵」と「伊香色謎」は阿波において「忌部」とされておりますが、これは「物部」=「忌部」ではなく二つの氏族の接点が何らかの形で阿波に存在したと個人的には考えております。
氏姓制度の成立以前からある程度は「◯◯部」と呼ばれていた氏族はあったものの、「甲子の宣」「八色の姓」制定後、はっきりとした氏姓が与えられたことにより「物部」「忌部」等の「部」が確定したものであって、それ以前の区別はもっと緩やかな者であったと思われます。

さて、大阪の枚方市に「意賀美神社」という神社が鎮座しておりますが。

意賀美神社 
鎮座地 枚方市枚方上之町1-12

祭神
高龗大神(たかおかみのおおかみ)
素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)

創建  創建年代は不詳。開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していたと伝えられている。




この「意賀美神社」の境内摂社に


なんと「琴平神社」があり
祭神は「大物主神」となっております。
「開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していた」との由緒を見て、どちらが本家だとかいうのは置いといて(笑)「琴平」「大物主」であることが分かっていただけるのではないでしょうか。

さらには、阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する
「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
「出雲国事代主命当国に移り給ふとき」を見て「やっぱ、事代主は出雲じゃねーか」とか考えないように。
何度も書いてますように「事代主は一人じゃない」のですよ。
(次回でもうちょっとだけ説明できるかな?)


これも「阿波国続風土記」を確認いたします。

ここにも「事代」を「琴代」と称されていたことが記載され「事代主」も「大物主」の系譜に連なることの一端が見えるように思われます。
穿った見方をすれば「琴平」は「事平」つまり「物事を平らげる」役割、「琴代」こと「事代」は「物事を代理する」役割だったと考えれば、その地位についても、言わず推測できるのではないでしょうか。
(上図、左半分の系譜が「ひじょーに」気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここでは突っ込まないように)
次回でまとめようかなーって、希望的観測。
続く

あー疲れた