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2024年11月2日土曜日

考察:阿波三国説(下)

考察:阿波三国説(上)
考察:阿波三国説(中)

えと、最終回は妄想全開なのでご注意ください(笑)。


で、みまは独自の古墳文化圏とともに「段ノ塚穴型古墳」の集中する地域に「郡衙(ぐんが)」を構え
(郡衙)律令制の行政単位である郡の行政を行う役所。 郡は「こおり」とも読み、古くは「評」と表記され、現代の県に相当する国の下にいくつかの郡が置かれ、さらに郡の下にはいくつかの里(郷)が置かれています。
旧道沿いには「駅」を設けていたわけです。
古代、律令制で中央政府と地方との連絡・通信のために設けられた交通制度。諸道の30里(約16キロ)ごとに一駅が置かれ、官吏や使者に馬・食糧を提供した。

そしてワタクシめが、この美馬国(?)で最重要と「現在」考えておりますのが、ここでございますです。

天都賀佐比古神社(あまつかさひこじんじゃ)

式内社 阿波國美馬郡 天都賀佐毘古神社
旧村社
御祭神 級長津彦命 級長津姫命

当社の創建は不詳。
轟の地にあるためか、轟大明神、轟宮とも呼ばれる神社。
もとは、当地の西方200mほどの高畑にあったという。
近くには「段の塚穴」と呼ばれる古墳や
白鳳期の建立という立光廃寺の遺跡などがあり、
古代から、美馬郡の中心として開けていた場所。
祭神は、風神である級長津彦命と級長津姫命。
轟という鎮座地に相応しい神だといえるが、
一説には、天都賀佐比古の「賀佐比古」が、
「風彦」の意味であるとする後世の付会であるといい、
建貝児王命を祭神とする資料もある。
風の神なので、風神としての神威を伝える伝承も残っている。
一つは、この社の前を乗馬のまま横切ると吹き飛ばされるといい、
また、吉野川を西へ遡る船は、帆をかけたまま通ると転覆するとも。
そのため、境内・社殿は南の吉野川を向いているが、
御神体は、北向きに安置されているという。
玄松子の記憶
由緒 当社は西暦6世紀以前に創建されたものと思われ、古墳時代後期 美馬郡院のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が崇敬していた神を祭り 風災を鎮め五穀豊穣を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である

あ〜、美馬にはも一つ西荒川に天都賀佐比古神社がございまして

まあ、こんなトコになるんですが、一旦スルーしておきます。
ちなみに御祭神は「天太玉命」でございます。

で、天都賀佐比古神社について「郡里町史」では

「この社はもと現在地の西、約二丁の字高畠にあり・・・」
とありますように現在地より西に約200メートルの位置にありました。
地図で見れば、現在は「高畑」と記載される「この辺り」になりまして。
なんと「段の塚穴」こと「太鼓塚古墳」をほぼ見上げる位置にあったことがわかります。

さらに大正四年発行の「美馬郡郷土誌」によれば「轟大明神」として記載され。


「祠前の田間に墳墓の跡あり、天(あめ)ノ塚又は天乃加佐都加(あめのかさつか)と言ひ、級津彦命を祀りし處なりと、又西方約一町ばかりの畑中にも墳墓の跡あり、地(つち)ノ塚と呼び級津姫命を祀りし所なりと・・・」
要は「級津彦命」と「級津姫命」の塚(墳墓)があったと書いてあるのですね。

社伝によればこの社の創起は6世紀以前。この傳を信ずるなら「太鼓塚古墳」以前となります。ならば「太鼓塚古墳」の主はこの社の系譜に連なるものと考えるのが順当でしょう。

ならばこの主は、級長津彦命 級長津姫命に繋がる系統であるか、級長津彦命 級長津姫命を崇敬する一族ということになりましょう。

シナツヒコ
シナツヒコは、日本神話に登場する神である。 『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれる。
概要
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれる。 wikipedia

追加
 『日本書紀』一書六では、伊弉諾尊の吹き払った息が風神、級長戸辺(しなとべ)命となり、その別名を級長津彦(しなつひこ)命としている。「級長津彦」の方はヒコとあるので、『古事記』と同じく男神であるが、「級長戸辺」のベは女性を意味する語と解されるので、女神と考えられる。
なので
賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。(と言う説もある)

イザナギとイザナミの間に生まれた神をおおざっぱな一覧としておきますと

大事忍男神(おほことおしをのかみ)
石土毘古神(いはつちびこのかみ)
石巣比売神(いはすひめのかみ)
大戸日別神(おほとひわけのかみ)
天之吹男神(あめのふきおのかみ)
大屋毘古神(おほやびこのかみ)
風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)
大綿津見神(おほわたつみのかみ)
速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
志那都比古神(しなつひこのかみ)
久久能智神(くくのちのかみ)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)

鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ)
大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)

金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる)
彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる)
和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる)
などがいわゆる兄弟姉妹神です。

阿波でよく見かける(笑)神様で言えば
 久久能智神(くくのちのかみ)
 大山津見神(おほやまつみのかみ)
 鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)
 大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
が挙げられますね。
他の神様が阿波で祀られていないわけじゃないんですよ。(マニア対策(笑))

無論、イザナミ命が近所に祀られていることは言うまでもありませんが、今回は省略させていただきます。

さて、もう一度「徳島県博物館紀要」よりですが



こうやってみる限り「美馬国(?)」の存在の信憑性は高いような気がします。

この一族についても考察(妄想)してみれば。
・「段の塚穴古墳」から「郡里廃寺跡」を作った氏族は「佐伯氏」であるとの説もある。
・「忌部山古墳」様式と「ほぼ」似ている、しかし全国に例はない。
・強大であるにもかかわらず「忌部山古墳」一族、つまり「天日鷲命」一族と争った形跡もない。
・西荒川の天都賀佐比古神社、御祭神は「天太玉命」。父親は「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」

「高御産巣日神」の子、「天太玉命」の兄弟で、「佐伯氏」の祖。この条件に合うのは

「天忍日命」

これを以って阿波三国説の考察終了とさせていただきます。

2024年10月20日日曜日

考察:阿波三国説(上)

最近、美馬近辺の説明をする機会があったんですが。
場所柄もあってそれはもう、しどろもどろ(笑)。
多分10%も説明できなかったかな・・・と反省して当記事を認めてみました。

これでもわかんないっっって言われそうですけど(泣)。

で「阿波三国説」なんですが、もしかしたらコレ言っちゃ行けない説かもしれないというところで、静かに潜航して参ります。

「阿波三国説」とは簡単に言えば上古阿波国は「粟」「長」国に別れていたのが「阿波」となったんですが、その二国以外に「もう一つの」国があったのではないかと言う説です。
その本拠地が「麻植」もしくは「美馬」と言うわけです。

それを古墳の分布等から見れば

 忌部部族と古墳
 美馬郡を中心とする阿波郡、麻植郡にかけて約20キロの吉野川沿岸に見られる、一つの型式を持つ石室の構造、それは天井石を前後に持ち送ったドーム式の天井であり、側壁を左右に持ち送った胴張りの平面であり、それらの天井、平面の横穴式石室古墳の築造方法が存在している。
 この型の古墳を築造した古代氏族の族名については諸説まちまちである。昭和57年1月12日に徳島県文化財研修会(徳島県教育研究センター)に於て秋山泰氏は、美馬郡美馬町の段の塚穴及び野村八幡古墳の築造部族は佐伯直(さへきのあたい)であろうと発表された。
 また故笠井新也氏は粟国造(くにのみやつこ)家の物としては、やや西偏しすぎるので、
阿波国は那賀川流域と海岸地方を合わせた長の国と、吉野川流域の粟の国の他に、美馬郡、三好郡を一国として、そこを支配した豪族が存在したと説き、阿波三国説を提唱された。
 しかし、その部族の名は挙げていない。
阿波学会研究紀要

まずはここからです。

ちょっと薄いかな。言わずと知れた「太鼓塚古墳」つまりは「段の塚穴」でございます。
典型的な忌部様式の古墳だと言われておりますが、いわゆる「忌部山型石室」とは異なっております。

段の塚穴古墳群
段の塚穴古墳群(だんのつかあなこふんぐん)は、徳島県美馬市美馬町坊僧・東宗重にある古墳群。国の史跡に指定されている(指定名称は「段の塚穴」)。
徳島県西部、吉野川中流域北岸の河岸段丘上に営造された古墳群である。円墳2基(太鼓塚古墳・棚塚古墳)から構成される。
古墳2基は東西に約27メートル離れて並ぶ。いずれも埋葬施設を両袖式の横穴式石室とし、胴張り平面形・ドーム状天井などを特徴とする形態の石室である。同様の形態の石室は美馬市域の古墳で知られており、本古墳群を標式古墳とする「段の塚穴型石室」と捉えられる。特に太鼓塚古墳の場合には、徳島県ひいては四国地方で最大級の石室である点で注目される。両古墳の築造時期は古墳時代後期頃と推定される。
2基の古墳域は1942年(昭和17年)に「段の塚穴」として国の史跡に指定されている(徳島県内では初の国の史跡)。なお、周辺では白鳳期寺院の郡里廃寺跡が残る。
WikiPedia

築造時期は古墳時代後期となっておりますが、大半の石室が 6世紀後半の築造と考えられているようです。つまりは西暦570年以降辺りですかね。

GoogleMAPで見るとこうでして。

で、ここがこうです(笑)。

一方, 考古学的には, ほぼ麻殖郡内全域にわたって忌部山型石室が分布する。とくに忌部山古墳群、鳶ケ巣古墳群を中心に分布する。それぞれは忌部郷、 川島郷を眼下に望む位置にある。この形態の石室は突然出現し、麻殖郡一円に急速に広まっていく。他の形態の石室はほとんど採用されない。
かなり強い規制がはたらいたとみられる。おそらく、この範囲を一単位でまとめえるだけの根強い基盤があったのであろう。注目すべきは、この忌部山型石室の分布領域が、律令期の麻殖郡にそのまま移行していることである。
徳島県博物館紀要



これもちょっと見にくいのですが「段の塚穴型石室」と「忌部山方石室」の分布が美馬と麻植とではっきりと分かれていることがわかります。
あ、こっちがいいかな。

なお、若干の説明を付け加えれば

美馬町周辺には,段ノ塚穴と同じ方式で築造された古墳が数多く分布している。これを段ノ塚穴型石室と呼ぶ(天羽1973)。つまり,太鼓張りまたは末広がりの平面プランに天井石を斜めに持ち送り,いわゆる穹窿式の天井を構成するという特徴を持つ。
これは,より高く,より広い空間を得るためにとられた構築技法である。この段ノ塚穴型石室は,
徳島県内はもちろん他に例をみない。類例としては,結晶片岩という同じ石材を使う和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)や九州の肥後型石室(柳沢1980・古城2007)などにみられる。より高い空間を得ようという発想は同じだが,天井石を持ち送るという構築技法はどこにもみられない。
阿波学会紀要 

和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)を類例としておりますが

和歌山県岩橋千塚との関連も注目されてきたが、決定的相違点もみられる。つまり、天井を前後から、側壁を左右から持ち送り、いわゆる弯薩式の天井を構築し、平面プランが胴張り又は末広がりを呈する横穴式石室である。

という話もあり、まあ「類例を見ない」としていいんじゃないでしょうか。

この辺りから「阿波三国説」が出てきたわけなんですが、段の塚穴古墳群の最終未と考えている江ノ脇古墳は、7世紀前半にまで下るそうでして、これが「郡里廃寺」につながっていくのですね。




吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果法起寺式伽藍配置をとるものであることが判明した。塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
 現段階では徳島県下最古の寺院の一つとして、また、遺構をよくとどめている寺院跡として、きわめて重要な寺院といえるであろう。
文化遺産オンライン

あ、10月何日やらにいったときは公園としての整備工事中でしたので、案内看板等はありませんでした。

最近目が見えなくて、長い記事が書けなくなってきたんで一旦ここまでで続きます。


次が(中)か(下)かは未定(笑)。

そんなにお待たせはしないと・・お・・・も・・・・う(かな)。


2016年1月23日土曜日

宅宮神社の元社地を探せ!(たかな?)

注意! 今回は史料がどっかに行っちゃって中途半端です(いつもだって言うなよ~)。
いろいろ差し引いてお読みください。


宅宮神社略記
御祭神   大苫邊尊(おほとまべのみこと)
        大年大神(おほとしのおほかみ)
        雅武彦命(わかたけひこのみこと)
由緒
一、 千数百年以前より意富門麻比売神社と奉称された 式内社にして現在地の南方約二丁余(上八万小学校西南) 山間の堂と稱されし平坦地に鎮座す

一、 天正年間長曽我部元親阿波国攻入の際兵火により 社殿焼失す 兵乱鎮まりて後神林地の現在地に 社殿を建立しその時より宅宮大明神として奉斎された 日本唯一の家宅の守護神なり

一、 寛保元年三月雅武彦命の御神体を勧請せり

祭典神事
一、 大御神楽祭 旧二月一日
一、 例大祭 十一月三日
一、 神踊 八月十六日
(徳島市指定重要文化財)




また、延喜式内社の意富門麻比売神社である。中世に至り現在地の神林地に奉斎し、社名を宅宮神社と改称して家宅の祖神とした。大苫辺尊は家宅の神とされているが、『古事記』では伊耶那岐・伊耶那美の神より先に誕生している。神代七代の神の一である。

「平成祭礼データ」には

宅宮神社略記
 当社は、もと意富門麻比売(おおとまひめ)神社として奉称された。国司崇敬の延喜式内神社にして、藩政時代にも蜂須賀公の崇敬篤く、阿波、淡路両国への配札御免宿船渡の御三判を御下付給わり、両国一円に御神符を配札していた。戦国時代に兵火に災い、社殿を消失したが、兵乱鎮まりて後、神林地に再建し、祭神大苫邊尊が家宅の祖神であることから宅宮神社と改称された。 
 主祭神は天神五代の大苫邊尊であり全国で一座のみ当社に御鎮座され、家屋の守護神として古くより家相、方位、新築、増改築、土地造成、鬼門ぎり等の諸祈願やお祓は広く県内外に知られる。 寛保元年三月、吉田殿の命により稚武彦命を勧請した。 
 尚、当神社には神代文字による祓詞を彫造した古版木のほか第十四代藩主蜂須賀茂韶公の揮毫による御神名額を今に保存する由緒の古社である。

と記載されている。

当社の御祭神について「神名帳考証」などを見てみると、「大戸惑女(おおとまひめ)」あるいは、「大戸比賣(おおとひめ)」となっており、「古事記」において、山の神(大山津見神)と野の神(野椎神)から生まれた神々の中に、 大戸惑子神と大戸惑女神がおります。

まあ、今回ややこしいことは置いといて
由緒の記述から元地を探してみようかなってことでございます。
まず、本当におおざっぱに半径500m地点を区切りそのなかで、ポイントを絞ろうというわけです。


で、引っかかったのが「樋口遺跡」および「樋口(ついぐち)古墳」。


上八万小学校のすぐ東側にあったのが「樋口遺跡」ですがもちろんここではありません。
本命は「樋口古墳」。
なのですが、言っておきたいのが

元社地が東南500メートル地点にあったという記録の出展がどこかへ行ってしまいました。

えーえー、なんとでも言ってください。
妄想で探してるとか、夢見ながら探してるとか、何といわれても結構ですよ~(笑)
とにかく「樋口古墳」をさがしたんじゃあぁぁぁぁぁ...................


場所は「樋口バス停」の「上」(笑)ですが、ふつーに行くことは決してお勧めしません。
「危険」があぶないでございます(笑)、いろんな意味で。

「樋口古墳」一号墓石標

一号墓入口

大きさは人が屈むとこの程度


 中は結構高くて立って歩ける程度です


 中から出口を見たところ


二号墓入口


 二号墓天井(露で光っている)

 這いずり出てくる変なおっさん。

ちなみに工事用の皮手袋履いてますが、近辺に群生する荊(いばら)のトゲの前には効果があまりありませんでした。
帰って脱いでみたら、けっこう血まみれ(笑)。
上着はこれも業務用なんで大した被害はありませんでしたが、注意しないと「えらいこと」になりますよぉぉぉ(と脅してみる)。

で、もしかしたらここが「宅宮神社」元地かなと思ってるんですが、先に書いたように「史料がどっか行った」んで、わかんない~っす(笑)



まあ、それだけ書いて終わったんでは皆様納得がいかないでしょうから(笑)
神社由緒書きにある「旧社地」をご紹介しておきます。


 ここは畑の中を通るんで、マジ場所を明記できないんです。

 ここも民家近くなんで、場所を書けないのが残念です。

というわけで、ひじょーにちゅーと半端なんですが、ここまでのご紹介とさせていただきます。
へっへっへっ。

2013年12月22日日曜日

鳴門市大麻町 天河別神社(追記)

さすがに冬至だけあって冷え込みキビシイっすね。
オヤジ寒がりなもんでツライです(笑)


2012年4月29日付けの記事、「鳴門市大麻町 天河別神社」についての追記です。

図書館でフラフラしてたら、こんなのがありました。


以前の記事が2012年、この資料が2011年付けなんで、書いた時には気付いていなかったというお粗末さでございます。
では「天河別神社古墳群」についてもう一度簡単なレクチャーを「広報なると2005」より引用いたしますと。

天河別神社古墳群1号墳 県内最古の古墳を確認

市教育委員会では県指定史跡である天河別神社古墳群1号墳の二次発掘調査を今年7月から行った結果、墳丘墓の特徴を残す県内最古の古墳であることがわかりました。

 尾根上に青石を多用し石室を築造

大津町から板野郡板野町にかけての阿讃山脈からのびる尾根には、弥生時代末期から古墳時代前期の墳丘墓や古墳が数多くみられます。天河別神社古墳群は、この地域の中央部にあたる大麻町池谷の低い尾根上に築造されています。
 天河別神社古墳群1号墳は、以前の調査で存在が確認された11基の古墳のうちのひとつで、天河別神社本殿の背後にある直径約25m、高さ3.5m、幅4mの周壕(堀)をもつ円墳です。
 昨年の調査の結果、石室には吉野川南岸で採取される結晶片岩(青石)が使われていることがわかりました。当時、天河別神社古墳群周辺には入り江が入り込み、この石材は吉野川南岸の地域から船で運ばれてきたと考えられます。

 側壁が二重の竪穴式石室

 石室は古墳の中心部に良好な状態で残っており、右の模式図のように内側の大きさは、南北に約4.9m、東西に約1.1mで高さは約1.2m。被葬者は、頭を北側に向けて埋葬されていたと考えられます。
 古墳の構造は、墳丘の上半分が頂部を平坦に削りだした後、墓壙(墓穴)を堀り、平坦面から上部は盛り土を施した後に内部を被覆土で充てんしています。 
 墓壙の平坦面の上には石室が築かれています。石室の底(床面)の下部構造は一番下に、断面が台形状の土の「基台」があり、それを覆い隠すように粘土に小ぶりの川原石を混ぜた礫混粘土をはり付けて、「礫床」をつくっていました。その上の棺を置くため粘土棺床は約40cmと厚く、2回に分けられてはられていました。その上には、やや大きめの河原石を使った礫混粘土が積み上げられ「礫混粘土帯」ができていました。
 上部構造としては、礫混粘土帯の上に結晶片岩(青石)の「板石積み」の側壁があり、側壁はやや内側に傾斜を持たせながら積み上げられ、持ち送り状に積まれていました。また、側壁の外には結晶片岩と砂岩でできた石囲いが石室を囲んでおり、二重構造になっています。石囲いに接する西側には「板石敷き遺構」が見つかりました。天井は石室上面の配石状況の高さから木のふたによって閉じられていたことが想定されます。
 木棺や遺骨などはすでに腐食してしまい見つかりませんでしたが、石室内からは鉄剣と古墳時代最初期に作られたとみられる土器の破片が見つかっています。

近畿地方の竪穴式  石室の起源とする説も

 これまでは平成12年に発掘調査された大麻町大谷の西山谷2号墳が県内最古の古墳であり、国内最古級であるとされてきました。しかし天河別神社1号墳は(1)西山谷2号墳では一部しか見られなかった石室側壁の二重構造が石室を全周していること(2)副葬品が少ないことなどから、さらに数十年古い3世紀後半に築かれたものであると推定されています。
 また、この2例の築造年代は土器の破片などから近畿地方で見られる同様の竪穴式石室よりも古い時代であることがわかってきました。これは近畿地方の竪穴式石室の起源が現在の徳島県と香川県にあたる阿讃地域にあるとする仮説を裏付ける発見であると考えられています。

前回の記事でボクは
萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)が3世紀前半の築造と言われておりますので国内最古の地位は明け渡しております
などと書いておりましたが萩原墳墓群は古墳時代以前の築造なので「古墳」と呼ばずに墳墓群と呼ぶので県内最古の「古墳」とはならないそうです。(ふ〜ん)

でこの「天河別神社古墳群発掘調査報告書」に何が書かれているかと言いますと。



あ、スキャンが傾いちゃってごめんなさい。

これも以前に「八人塚古墳見学会報告の追記というか、萩原2号墓について」で掲出した資料と同様の朱の分析が行なわれています。
まずは分析結果を見てみましょう。

これが何を意味するのか。

「萩原2号墓」出土の水銀朱と同様に「天河別神社古墳群」2号墓および4号墓には中国貴州省産の水銀朱が使用されていました。

「萩原2号墓」は3世紀前半頃の築造、「天河別神社古墳群」は3世紀後半の築造。
これは下図年表を見ても
完全に「魏」(あるいは三国時代)と一致します。その後の「晋」の時代と被ったとしても何ら支障はありません。
魏国「文帝」の時代から「元帝」の時代まで数十年、魏国との交流を継続してきた証左だと判断できるのではないでしょうか。
「萩原2号墓」との位置関係にも注目願います。
クリックして拡大してみて下さい。
目と鼻の先というより、隣接している状態です。
もう一つ出土の「二神二獣鏡」も気になるところですが
これも最古級の出土物に属しながら、いくつかの論文を流し読み程度には読んでみましたが、出土一覧にはあってもはっきり言及した資料が見つからなく、ここらは今後の調査に期待したいと思います。

さて、中国「魏国」の時代を通じて交易を続け水銀朱の提供を受け続けていた首領の一族が「ここ」にいた事は明らかです。
それが一体「誰」であったのか?

天河別神社の御祭神は「天河別命」。奈良時代の「朝野群載」にも「天河別神」とあり、これも再度の記載となりますが

板東村と大谷村との山の奥に あまがつぶといふ高き山有り、古へ天河神社てふは是なり
後池谷村に移し祭りて松童権現といふなりとみつ、いともくすき事なる、まゝ人のあやし
といふべきことながら書記しける「朝野群載より」

とあり
「あまがつぶ」は「天円山」と書き、別名天ヶ津峰(あまがつみね)。
頂上には「天ヶ津神社」があり、「天ヶ津神社」の伝承は

祭神は天錐命(天鈿女命)である。天照大神の岩戸隠れの折、ホトを丸出しで踊り大神を引き出した女神である。やがて瓊瓊杵尊に従って天下るとき、出迎えた猿田彦命と連れだって天下った。猿田彦命は西の大麻山に祀られ、天錐命は猿田彦命と相対してこの山に鎮座されている。以来大麻山に棲む猿が峰伝いにこの山に遊びに来た。

ということであります。
さて、どのあたりに考古学と伝承との接点があるのでしょうか。
なかなか妄想のしがいがあるじゃないですかね(笑)

あ〜疲れた。
年内もう一つぐらい書きたいけど、最後の一週間、修羅場だからどうなるかワカンナイっす。
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以下はナイショのおまけ(笑)