2012年12月22日土曜日

渋野丸山古墳とその周辺(伊豫王子大権現と岩屋)

え〜、すえドンさんが「「渋野丸山古墳」(国指定史跡)と「渋野天王の森古墳」♪」を書いてましたので、もう一度見たくなって買い物のついでに覗いてきました。
いやいいですねえ。一時間ちょっと寄り道するだけでこんなのが見えるんですから。
特に最近はあの近辺、道路拡張で走りやすいのなんのって。
有り難みも何もありゃしない。(笑)
で、渋野丸山古墳については今更ボクの方で書くこともないので、写真だけちょろっと貼っておきます。

 下の写真は後円部頂上より。
これだけなら、着いてから20分で終わってしまいますので、近くをうろうろとしてみますれば。
まずは、渋野町伊豫王子谷にある「伊豫王子大権現(伊豫王子神社)」。
ん〜。これもサクラサクさんが書いてましたなぁ。
タイトルがカッコいいなぁ。
なんで、これも写真貼っとくだけにしとこうかな(笑)

というのもナンなので。とは言っても徳島県神社誌にも記載は無く、関係ありそ〜なのが
「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス

越智通春を祀ったのではないでしょう。越智氏の関係を祀ったのかもしれません。
「阿波国勝浦郡村誌」に「河の上神社」と記載されているのは「河野 上」かも
しれませんね、サクラサクさん(笑)


ここは車で乗り込めます。
神社で行き止まりですが、神社の前が広くなっていてUターンもできます。

最後は「渋野の岩屋」と言われる「古墳」?
「中渋野集会所」から北へ入って行くんですが、普通車以上では行かない方がいいと思います。木の枝やその他モロモロで車体を擦ってもいいのなら止めはしませんが(笑)
かといって、集会所から歩くにはちょっと遠いし。
その「中渋野集会所」の角にこんな看板が立ってます。
また、その角の所にはこんな地神塔もあって、嫌が上にも雰囲気が高まってきます。

というのが、写真を出す前に書いときますけど。

マジ「怖い」。

小さい字にするくらい怖い。
こんなのは初めて。どうやってもカメラのピントが合わない。
設定変えて、取り直しても、オートにしても、マニュアルにしても全くダメ。
午前中じゃなきゃ、逃げて帰ってましたね、いやホント。
見てよ、こんな写真がもうピンぼけ。

県の資料でも古墳となってますが塚穴というよりは祭祀跡のような感じがして仕方ないんですが、どうでしょうか。
まあ、ここまではいいんです。
ここから先、恐がりの人は見ずに閉じて下さい(笑)
 ですので先に地図を載せておきます。


より大きな地図で 渋野丸山古墳周辺 を表示

それにしても、こんな面白い所が2、30分で行けるなんて。
渋野丸山古墳に着いたのが10時30分頃かな。
で、12時前には


こんな所でラーメン喰ってるんですから(笑)
ホントありがたいですよね。







これはちょっとマシですけど。
これになると妙にボケてるでしょ。

ストロボもオンにしたりオフにしたりしたんですがねぇ。
 ここら苦労したんですが、なんでかこんな写真ばっかり?

ところで、渋野丸山古墳の上、凄いっすよ。
栗の木でいっぱい。シーズンに行けば大漁かも。(笑)



9 件のコメント:

  1. ぐーたらさん「やたつ」が良かった(*^_^*)♪
    私もファンです♪

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    1. そこですか(笑)
      でも、あそこいいですね。
      オヤジが偏屈そうですけど(笑)

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  2. サクラサク48692012年12月25日 17:19

    ぐーたらさん、こんばんは。
    ブログ上で呼びかけられたら緊張します(笑)
    越智氏のこと、あんまり知らなくて少しネットでみてました。
    越智氏もそうなのですね。知らなかったです。凄いことですね。
    伊州から予州に行ったのかな?

    怖がりですが見てしまいました。
    夜1人でトイレに行けません(笑)
    って・・・・
    今年来年〇0歳になる私が言っております。

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    1. 正直、越智氏かどうかは分りません。
      でも「伊豫王子」であること,
      越智通春の墓が近くにあることで、そうかな?と思うだけです。

      ボクもトイレに一人で行けないので、着いて行って下さい(笑)

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  3. 翌日、撮影に再チャレンジ!
    ところが本体を写そうとすると、何か白いものがサッと通り過ぎた感じが!
    背筋がゾッと走るものを感じた!
    後ろから見てた妻の和枝は、鳥みたいな、そんな物は飛んでなかった、と!
    またしても呪われたパワースポット岩屋?絶対ただの住居跡じゃない!渋野丸山古墳の一部
    https://www.youtube.com/watch?v=qcRVRXEk5Nc&list=PL_OeR76Z0OiucBLoDIBSCxYF9iP8So4Eo&index=4

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  4. はじめまして、伊予宇都宮氏の末裔です。私たちの祖は河野氏にちょっかいを出し援軍の毛利氏に捕まり幽閉されました。
    その後ゆるされて大洲の城に戻ったのですが家臣に城をのっとられ追放されます。
    その後阿波に逃れ、この神社の近くの八田まで逃れます。そこで宮井の姓を創姓したと伝わっています。
    その後、和歌山に移り、紀州藩士を経て明冶に再び阿波に移り住んだそうです。
    この河野氏は追手でしょうかね。
    なにか気になります。

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    1. 貴重なコメントありがとうございます。
      本文にも記載した
      .
      「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
      越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
      碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
      古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
      民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
      母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
      元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス
      .
      の「元亀元年軍敗シ」なので、追手ではなく、偶然「母ノ実家ナルヲ以テ」で、落ち延びてきたのではないでしょうか。
      とは言いつつ、「越智通春」が落ち延びて「河野四良太夫」と名乗ったことも含め、微妙に違和感がありますね。
      もし、その他の情報があれば是非ともご提供ください。

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    2. 返信ありがとうございます。阿波國勝浦郡村誌を読んでみます。

      なぜ伊予宇都宮氏が八田の宮井村まで逃れたのが?
      また何故、和歌山まで逃れなければならなかったのか?
      ちなみに宮井姓が一番多いのは和歌山県
      手がかりが見つかりそうな気がします。

      今、現在、私が住んでいるのは旧名墨浦とよばれた地区でここの住人は和歌山から
      移民してきたそうです。

      貫名菘翁が居候した浄土宗光明寺があり阿波志に慶長3年、上村範秀置く、釈全誉をして居らしむと記載があります。
      光明寺の寺紋は三つ葉葵ですからこのころから移民は始まっていたのでしょうか。

      光明寺のほかに、浄土宗、浄土真宗、真言宗の寺が計4つあり小さな寺町を形成しています。

      地元ネタで申し訳なく思いますが、長年の疑問でしたので今回の投稿で調べてみようという気になりました。
      ありがとうございました。

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    3. 不思議なのは越智通春、永享元年(1429)泉州堺で戦死というのが通説のようなのです。
      なぜ渋野に墓があるのかは全くわかりません。
      にしても宇都宮氏が鳥坂峠で戦ったのが永禄11年(1568年)なので直接の関係はなさそうに思えます。
      同年11月、宇都宮豊綱が降伏、大洲城開城以降一党がどう落ち延びていったかは不明ですが、大洲から八田まではあまりにも遠すぎ、この地を選んだ理由も想像すらできませんし、さらには和歌山となれば....
      謎は深そうですが、調べがいもありそうですね。
      来島村上水軍関係で何かあったりとか(いや、妄想です)。

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