2012年12月20日木曜日

阿波国(続)風土記より

ホントに久々の「阿波国(続)風土記」更新です。
と言っても、またちょっとだけです(涙)
第三巻の68ページから73ページまで読み下し文の追加です。
ページで言えば「page_066_070」「page_071_075」です。

例えば上の68ページですと右ページには、そんじょそこらには載ってない、かの池部(太平)眞榛(いけべまはり)大人の阿波國那賀郡 和耶神社略考の超貴重論文ですが、今回はそこらは勘弁してもらって(涙)←今回(涙)ばっか。

左ページから。
「国造奏神壽詞」から始まるのは、「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」
(天皇が即位後初めて行われる新嘗祭のこと、一世一度限りの儀式)
の式次第のうち、阿波国関係の部分を延喜式より書き出したものです。

今さらと、おっしゃいますでしょうが、ご存知のように阿波忌部氏は歴代の践祚大嘗祭に、御衣御殿人 (みぞみあらかんど)として麁服(あらたえ)を献上してきました。
また、読んでいただければ分りますが、例えば

由加物
馬一疋 大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿 麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸

以上のものは「阿波国麻殖那賀両郡」から運んで行くことに「決まって」いるのです。
延喜式に定められた、いわば「決まり」だったんですね。

阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬 各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四具 鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女等量程造備
凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京之日 路次之国掃道路祗承

ここでは「阿波国所献麁布一端」云々を「忌部及潜女等」に備えさせよとの「命令」として書かれております。
さらに「紀伊 淡路 阿波三国」の由加物を運ぶときは「路次之国掃道路祗承」通り道の國は道路を掃き清めておくこと、とのことです。

また、麁服(あらたえ)とは、阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇陛下が即位後、初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製し・貢進(供納)する「大麻の織物」を云います。 「三木家ホームページより」
が、これを運ぶときは

但阿波国献麁布木綿付神祇官

として「神祇官」が必ず付いていなければならなかったのです。
そして
阿波国忌部所織麁妙服 神語所謂阿良多倍是也 
預於神祇官設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着木綿
忌部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着木綿鬘
未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如初
波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案後
立定待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀
神祇官一人引神服男女等 到於大甞宮膳殿
置酒柏出 又神祇官左右分引両国供物参入 
除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂

とあるように(どこに(笑))
麁服は「神祇官が備えた細篭に納め」「忌部の一人が付いて木綿の賢木を着て前を行き」
(略)「朱雀門」を通り、「大甞宮膳殿」に着いたら「神祇官が左右分引て両国の供物を参入」する云々と、事細かに手順が決まっております。

ですが、この阿波忌部による麁服(あらたえ)の貢進は南北朝以降中断し、大正・昭和になって復活した経緯があります。
つまりこの「阿波国(続)風土記」作成期、明治天皇の践祚大嘗祭の時には行なわれていないんです。それなのに、この中に含まれているのは、資料としてでしょうか?
あるいは、明治天皇の大嘗祭の時の準備だったのでしょうか。
ついでですが、大正天皇の大嘗祭の時の麁服には三河産の麻が含まれていて、悔しい思いをしたとの記録をどこかで見た憶えがあります。

で、「阿波国(続)風土記」のサイトを見るのもめんどくさい人には、以下入力した分を貼っておきます。別に使い道もないでしょうけど。
そこそこの時間はかかってるのよ(笑)
一応、延喜式と見合わせもやってるし〜。(そしたら誤字があるのよね(笑)元文書のままで入力してあるけど)

国造奏神壽詞
凡年中所用亀甲 惣五十枚為限 紀伊国中男作物十七枚 阿波国中男作物十三枚 交易六枚 土佐国中男作物十枚 交易四枚

由加物
馬一疋 大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿 麻各一斤
堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両
郡所輸 其供神幣物并作具 及潜女衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧
以当国正税給 人別日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場
分付両国 但阿波国献麁布木綿付神祇官 
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬十
五缶 乾羊蹄 蹲鴟 橘子各十五篭 已上忌部所作 鰒四十五編 鰒鮨十五
坩細螺 棘甲嬴石花等并廿坩 已上那賀潜女十人所作 其幣五色薄絶


各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧 小斧各四
具鎌四張 鑿十二具 刀子四枚 鉈二枚 火鑚三枚 並令忌部及潜女
等量程造備 凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使 向京

重複


由加物
凡応供神御由加物器料者 神語号雑贄同為由加物 九月上旬申官 差
卜部三人遣三国 先大祓後行事料馬一疋 大刀一口 弓一
張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿八両 麻一斤 鰒堅
魚 海藻 滑海藻各二斤 鹽二升 米酒各二斗 已上当郡所輸 馬一疋
大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿
麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各
四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸 其供神幣物并作具。及潜女
衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧以当国正税給 人別
日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場。分付両国
但阿波国献麁布木綿付神祇官

同上
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬
各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚 作具钁 斧小斧各四
具。鎌四張。鑿十二具。刀子四枚。鉈二枚。火鑚三枚。並令忌部及潜女
等量程造備   凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使向京
之日 路次之国掃道路祗承。


阿波国忌部所織麁妙服 神語所謂阿 良多倍是也 
預於神祇官設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着
木綿 忌部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着
木綿鬘 未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如初 阿
波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案後 立定
待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀 神祇官一人引神
服男女等 到於大甞宮膳殿 置酒柏出 又神祇官左右
分引両国供物参入 除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂

由加物
凡応供神御由加物器料者 神語号雑贄同為由加物 九月上旬申官 差
卜部三人遣三国 先大祓後行事料馬一疋 大刀一口 弓一
張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿八両 麻一斤 鰒堅
魚 海藻 滑海藻各二斤 鹽二升 米酒各二斗 已上当郡所輸 馬一疋
大刀一口 弓一張 箭廿隻 鍬一口 鹿皮一張 庸布一段 木綿
麻各一斤 堅魚鰒各四斤 海藻 滑海藻各四斤 酒米各
四斗 鹽四升 已上阿波国麻殖那賀両郡所輸 其供神幣物并作具。及潜女
衣料 人別布一丈四尺 並以大蔵物充 但糧以当国正税給 人別
日米二升 紀伊七日阿波十日 其物造了 卜部監送斎場。分付両国
但阿波国献麁布木綿付神祇官

同上
阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬


十五缶 蒜英根合漬十五缶 乾羊蹄 蹲鴟 橘子各十五篭 已上忌部所作 鰒四十五編鰒
鮨十五坩。細螺。棘甲嬴 石花等并廿坩 已上那賀潜女十人所作 其幣
五色薄絶各六尺 倭文六尺 木綿麻各二斤 葉薦一枚作
具钁 斧小斧各四具 鎌四張 鑿十二具 刀子四枚 鉈二枚 火
鑚三枚 並令忌部及潜女等量程造備
凡紀伊 淡路 阿波三国造由加物使 向京之日路次之国掃道路
祗承


斎服
凡斎服者 十一月中寅日給之 神祇官伯以下弾琴以上十三人
伯一人 副二人 祐二人 史二人 宮主一人 卜長上二人 巫部一人 琴弾二人 各榛藍摺綿袍一領 白袴
一腰 史生以下神服以上一百三十七人 史生四人 神部二十四人 卜部十六人 使部十二人
阿波国忌部五人 神服七十六人 青摺布衫一領 其御巫 猿女等服者依
新甞例 小斎親王以下皆青摺袍 五位以上紅垂紐
淺深 相副 自余皆結紐 内親王及命婦以下女孺以上 亦青摺
袍 紅垂紐 五位以上亦 淺深相副 自余皆結紐 親王以下女孺以上皆日蔭鬘 並卜食
訖乃給 夘日夜帛被布被各五十領 付小斎人等
侍宿所 事畢 返上 門部 語部 楢笛工並青摺布衫 物部紺布衫中
務省預支料申官請受 神祇官斎服 令縫殿寮縫備
自余縫物各付本司班給 其稲実卜部二人 祢宜卜部
二人各給当色 

麁妙服事
阿波国忌部所織麁妙服  神語所謂阿 良多倍是也 預於神祇官
設備 納以細篭 置於案上 四角立賢木着木綿 忌
部一人執着木綿之賢木前行 四人舁案 並着木
綿鬘 未時以前供物到朱雀門下 神服部在前如
初 阿波国忌部引麁服案 出自神祇官 就繒服案
後 立定待内弁畢 衛門府開南三門 如元日儀神
祇官一人引神服男女等 到於大甞宮膳殿 置酒
柏出 又神祇官左右分引両国供物参入 
除神御物之外 皆留朝集 院庭中 各分安置東西堂 到大甞宮南門外 即悠紀左
廻 主基右廻 共到北門 神祇官引神服宿祢 入奠
繒服案於悠紀殿神座上 次忌部官一人入奠麁
服案於同座上 訖共引出 乃両国献物各収盛殿 訖
衛門府閇門 神祇官侍於北門内門左掖 造酒児
先舂御飯稲 次酒波等共不易手舂畢 伴造燧火
兼炊御飯 安曇宿祢吹火 内膳司率諸氏伴造 各
供其職 料理御膳 宮内省官人左右分引大膳職
造酒司 各陳其所備供神物 高橋朝臣一人 安曇
宿祢一人 各擎多賀須伎 其膳部酒部亦依次立


並入大甞宮 共升殿就案頭 立定前頭先奠案上
自余以次手傳奉奠 訖相顧退出 明日撤亦如之 酉時主殿
寮以寮火設燈燎於悠紀主基二院 院別二燈 二
燎 伴宿祢一人 佐伯宿祢一人 各率門部八人 着青 揩衫
於南門外通夜庭燎 悠紀主基二国進御殿油二
斗 夜別五升 燈盞 盤各八口 燈心布八尺 夜別二尺 炭八石 日別二石 続松三百二
十炬 長各八尺夜別八十炬 薪一千二百斤 日別二百斤 戌時 天蹕始警臨廻立殿
主殿寮供奉御湯 即御祭服入大甞宮 其道者大蔵省
預鋪二幅布単 掃部寮設葉薦 且随御歩 敷布単上前
敷後巻  宮内輔以上二人敷之  掃部允以上二人巻之 人不敢■ 還亦如之 宮中道并
庭者 以八幅布単八条敷 大臣若大中納言一人 率中臣 忌部
中臣立左 忌部立右 御巫猿女 左右前行  大臣立中央 中臣 忌部列門外路左右 宸儀始出
主殿官人二人執燭奉迎 車持朝臣一人執菅蓋 子部宿

祢一人 笠取直一人 並執蓋綱膝行各供其職  還亦 如之 御悠紀甞


なお、「阿波国(続)風土記」については、ちょっと面白い資料等が出てきたんで、近いうちにまた書きます。
けど年内はキツいかもしれません。

13 件のコメント:

  1. これ、一字一字入力したのですか?凄いですね。
    昔の文章の中には表示できない文字もありますよね。
    ブラウザにもよりますが・・・・。
    ところで、「阿波國式社略考」はどこへ行けば読めるのでしょうか?徳島図書館でしょうか。

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    1. 今回は延喜式のテキストが手元にあったんで、そうでもなかったですね。
      阿波國一之宮 大麻比古神社(2)
      http://goutara.blogspot.jp/2011/09/blog-post_7033.html
      とか
      舎心山太龍寺縁起
      http://goutara.blogspot.jp/2011/01/blog-post_06.html
      の時の方がめんどくさかったです(笑)
      あ、これもちょっと苦労しました
      天石門別八倉比賣大神御本記
      http://goutara.blogspot.jp/2010/05/blog-post_21.html

      ところで、「阿波國式社略考」ですが徳島県立図書館にあります。
      ただ「書庫」にあるので、受付の方に申し込んで下さい。

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  2. お疲れ様ですo(^▽^)o
    参考にさせていただきます♪
    疲れて・・・寝込まないように・・・(^O^)♪

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    1. 大丈夫ですよ。
      数日前に寝込んでましたから(笑)

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  3. ありがとうございます。
    受付に言えば、見せてくれるのですね。
    暇をみつけて、読んでみようと思います。
    しかし・・・・読めるかな?はなはだ疑問。

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    1. それで、書庫の本は装丁とか保存状態によってコピーが認められない場合があるんです。
      その場合、写真撮影なら可能な場合があるので、デジカメをお持ちになっててもいいかと思います。
      無論その場合、写真撮影許可申請所(だったかな)が必要です。
      住所、氏名と使用目的を書くだけですが。
      「国幣中社大麻比古神社御祭神考證」
      http://goutara.blogspot.jp/2011/09/blog-post_17.html
      は自分が撮影してきたモノです。

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  4. やっぱりすごい一級資料ですね。
    ありがとうございます。

    僭越ながら、私自身が最近まで知らなかったので読者のためにひとこと。
    木綿はいわゆるコットンではなく、楮(こうぞ)なんですよね。
    楮からとった「ゆう」(ゆふ)が「木綿」で、これを織って作った布が太布(たふ)、栲(たえ/たく)、栲布(たくぬの)など。太布は藤の蔓からも作ったようですが。
    このゆふも神事に用いられたと、Wikipedia にあります。

    続きを楽しみにしています。
    ご自愛専一に!

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    1. で、思い当たったのが
      「伯家神道の予言」
      伯家神道(白川家)が行なっていた皇太子が天皇に即位する際行われる「 祝(はふり)神事 」が100年間、或いは4代行われないと天皇家は滅びる。と云う伯家神道の言い伝えで、今年の7月30日をもって100年目となる。

      って言う予言。今年の7月30日がそうだったらしいんですが(笑)
      じゃあ、それ以前の忌部の麁服(あらたえ)貢進が途絶えてたのはどうなんだ?って思いませんか。
      大正からは阿波忌部がちゃんと大嘗祭を執り行っておりますので、安心です(笑)
      伯家断絶の時のいいがかりみたいなもんなんでしょう。

      で、木綿が楮(こうぞ)だっていうのは知りませんでした。
      明治の頃まで木屋平の方では「今日は太布(たふ)◯枚分の寒さだ」なんて言ってた、というのはどこかで見ましたが。

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    2. たかだか、800年程度の伯家神道が、あるいは1800年を越して垂んと(なんなんと)する阿波忌部にとって替わろうとは......以下略(笑)

      削除
  5. このページがupされてから、何度も読んで読み返しています。
    この内容量、圧巻です。ぐーたら先生ありがとー!!!
    具体的で、なんだかリアリティもあってびっくりしています。

    ぐーたら先生の探究心や、ここに集われる皆さんの知識の確かさに圧倒され、
    早く追いつきたいなー、あーちっともわかんない!の一年でした。

    今年も残すところ僅かとなりましたが、一言。
    お仲間に勝手に入り込んでも(そうなのかっ?!笑)
    ヒントつきのお優しい対応、ありがとうございました。
    来る年も、また、よろしくお願いいたします。
    あ、時々、また、あの口調は復活しますか?
    「モモが書けって・・・」。

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    1. 面白いのがね(モモ白いじゃないよ)

      阿波国所献麁布一端 木綿六斤 年魚十五缶 蒜英根合漬十
      五缶 乾羊蹄 蹲鴟 橘子各十五篭 已上忌部所作 鰒四十五編 鰒鮨十五

      の所で「年魚十五缶」の年魚は「鮎(あゆ)」のこと、「木綿六斤」の木綿は「ALI 爺」さんに教えていただきました「楮(こうぞ)」で編んだ織物「太布(たふ)」のこと、「橘子各十五篭」の橘子は「スダチ」のことなんです。
      スダチは今のものとはちょっと種類が違ってたかもしれませんが。
      なんか今の徳島の名産ばっか集めた感じです(笑)

      けどね、ボクは結構モノ知らずなんで、案外重要な所が抜けてたりするんです。
      ホントに、ももクロのメンバーが4人までしか言えなかったり(笑)(←嘘つきだねえ)
      では、ちょっと早いですが来年もよろしくお願いいたします。
      「良いお年を!」



      あ、あの口調(笑)はね、気持ちが「ハイ」の時復活します。

      削除
  6. ぐーたら先輩、お久しぶりです。
    こんど淡路島で古事記のお勉強会をするので向こうのことを調べていたら、淡路島くにうみ協会さんのサイトで「御食国(みけつくに)とは、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国のことです。若狭、志摩と並び、多くの食材に恵まれた淡路島もまた、古くから朝廷に数々の食材を納めてきました」とあるでないで。あわわ…。
    で、こちらの資料を当日使わせていただいてもいいですか?
    モトはね~、と。

    サイトには続いて「古事記の仁徳天皇の項には『旦夕淡路島の寒水を酌みて、大御水献りき』とあり、毎日飲む水までもが、ここ淡路島から朝廷に運ばれていた事は注目に値します。 いわば朝廷からのお墨付きを頂いていた淡路島の食材。現在でも、淡路島ブランドは全国にその名を轟かしています」とおっしゃる、この自信。徳島県人もちょっと見習う必要があるかもしれませんね。

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    1. ボクの出してるのは、どれでも使って下さいませ。
      出した結果には責任とれませんけど(笑)
      で、上の資料は延喜式からですよね。
      >毎日飲む水までもが、ここ淡路島から朝廷に運ばれていた
      どこに運んでたのでしょうかね?
      難波宮ですか?
      難波宮は大阪だったんですかね、仁徳天皇御宇には(笑)

      削除