2012年12月9日日曜日

八人塚古墳見学会報告の追記というか、若杉山遺跡について

煮え切らないタイトルですが前回の八人塚古墳見学会報告の資料を繰っているうちに見つけてしまいました(笑)


若杉山遺跡
若杉山遺跡:弥生時代終末~古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡


那賀川をさかのぼり、鷲敷町との境には四国霊場二十一番札所の太竜寺がある。この太竜寺の北側の「若杉山」の標高140~170mの山腹斜面に遺跡が広がる。1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。

 石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられる。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。

徳島県立埋蔵文化財総合センター オフィシャルサイトより




加茂谷村誌によると、戦後にその土地の所有者が開墾したとき、多数の石臼・石杵・辰砂・土器の破片などが発見されたそうです。
その後、地元の常松卓三氏と早稲田大学の市毛勲氏により、ここが全国でもきわめて稀な古墳時代の辰砂採掘遺跡であることが分り、その後昭和59年から徳島県立博物館による調査・発掘が数度に渡って行われ、多数の石臼などが見つかっている。

で、この早稲田大学の市毛勲氏の著書「朱の考古学」を見てみますれば。

若杉山遺跡
四国のほぼ中央、中央構造線にそって阿波水銀鉱床群が走り、第二次世界大戦中の軍事物資増産に際しては水井水銀鉱山が経済性を無視して稼業していた。丹生谷や丹生神社も分布し、松田博士の丹生の異字と称される入田、入野などもあって、古くから辰砂産出地域である事が知られていた。若杉山遺跡は阿波水銀鉱床の真只中に位置し、はじめて確認のできた古墳時代辰砂採掘砕石遺跡である。



卑弥呼と辰砂
これまでも度々ふれてきたが「魏志」東夷伝倭人の条には、丹、朱、辰砂、真朱に関する記述を見ることができ、日本列島三世紀代の朱に関する様子を文献の上で知ることができる。記述は四箇所に分かれる。
①以朱丹塗其身体如中国用粉也
②出真珠青玉其山有丹
③特賜...(略)...銅鏡百枚真珠(金へんに公)丹各五十斤
④上献...(略)...帛布丹木柎短弓矢



日本列島における「丹」の産地は中央構造線に沿って分布する水銀鉱床群であり、採石・採掘など三世紀の開発と言う観点からすれば、「其山」とは大和水銀鉱床群・阿波水銀鉱床群の山岳地帯があてられよう。実際、阿波水銀鉱床群の山岳地帯に徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡は位置しており、「其山有丹」の一つに数えることができる。

引用終了

要は「丹」の生産の観点から見れば「魏志倭人伝」に言うところの「邪馬台国」の特徴である其山有丹」の候補地は阿波か大和に絞られると仰っておられるのです。
この時点で九州説は却下されますね、いいですか。

そして③と④を見れば、まず「魏」より「丹」を賜り、今度は倭国より「丹」を献上したということが分ります。
3世紀前半「丹」を献上できたのは、大和か阿波。
そして「魏」かどうかは分らないけど、中国からの「丹」が確認できたのは「萩原二号墓」。
大和の古墳、墳墓から中国産の「丹」が発見されたとはワタクシめは寡聞にして確認できておりません。

ならば。

水行何日だとか、陸行何日だとかは、ワタクシ不学にして確認できておりません、そこの所は言い訳しときますが(笑)

「朱」「丹」または「辰砂」の生産と流通の経路から類推する限り「魏志倭人伝」に言う「倭国」の候補地として、現段階で一番可能性が高いのは徳島ということにはならないでしょうか。



これ、貼ってあるのはナイショね(笑)

まだ資料としては「弥生時代の水銀朱の生産と流通」って論文も出したかったんですが、コピーし忘れてきたんで、また機会があれば紹介します。

すんません、今回は画像が無くてつまんなかったでしょ。

12 件のコメント:

  1. 楽しかったですヨ!!
    (^O^)♪

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    1. ありがとうございます。
      今度はどこでやりましょうか(笑)

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  2. サクラサク48692012年12月10日 13:17

    凄いです!!!
    揚子江=吉野川=蛇。
    黄河=那賀川=龍。
    と思っている私です。

    これは、鼻血が出そう・・・(笑)
    あっ・・・お下品ね(汗)

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    1. 考古学ってのは日進月歩でどこから何が発掘されるかが分らない所が怖いんですが、この場合「丹」の流通ルートが明らかになってくるにつれ、若杉山からの「丹」(朱)が近畿圏内に搬出されていたことが確実となってきたので「この説」が案外本命(笑)じゃないかなと思っております。
      とゆ〜ことは「其山有丹」の「其山」とは若杉山?
      いや、楽しいですね。

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  3. お久しぶりにお邪魔させていただきます香川のLEDです。いつもぐーたら先生の更新を楽しみに拝見させて頂いております。八人塚、非常に重要な場所なんですね。しかし古代の痕跡にはよくよく「八」という数字が出てきますね。私の家から見える山にある猫塚古墳には中心に1個の石室があり、その周りに八個の石室があったそうです。私の師匠曰く、この古墳は2つの勢力が合体したことを表す墳形をしているそうで、ものすごく重要なものであるはずなのですが、当時行われた計画的証拠隠滅により、調査不可能となってしまっています。残念です。ぐーたら先生がおっしゃったとおり、考古学はどこから何が出てくるかわからない為、過去を隠すために計画的に証拠隠滅させられています。採石場、ゴルフ場、宮内庁管理が代表例ですね。過去の歴史は隠さなければならないという強い意思は小説「三四郎」の中に非常にわかり易くはっきりと書かれており、我々の祖先を特定させないことがその理由です。私の師匠は皆様とは違うアプローチで過去(全てではありません)を語ってくれましたが、今皆様の研究結果を見る度に「こういうことだったのか」と理解がようやくできているところです。コメント文章だけでは旨くお伝えできませんが、これからも楽しみにしておりますので、がんばって下さい。応援してます!

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    1. コメント遅くなりました、すいません。
      確かに「八」という数字はいろいろ使われていて引っかかりますね。
      八幡、八栗、近所では八倉、八咫鏡、八尺瓊勾玉、大きな所では八洲とか大八島(笑)とかですね。
      他の数字にもいろいろありますが、「八」はなかなか象徴的だと思います。

      応援ありがとうございます。
      体力の無いオヤジですが、ぽつぽつ書いていきますのでよろしく。

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  4. いやあ、痛快です。
    其山有丹のひとことで九州説を一刀両断!
    ほんとうに丹が決め手になるかもしれませんね。成分分析ができるのは強い。
    どの古墳にも大量の朱が使われていたようですから、発掘が進めば古墳のDNA鑑定のように活用されることになるでしょう。

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    1. それにしても、阿波はいろいろ勉強させてくれます。
      歴史、地理、地学、文学、考古学。
      それで今度は化学ですか(笑)
      この歳になってこれだけ広範囲を調べニャならんなんて夢にも思ってませんでした(笑)

      それにしても、本当のことはシンプルな言葉でしか語れないというのは当たってると思います。
      三世紀前半の「丹」の産地。
      これだけで粗方分ってしまうんですからね。

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  5. ぐーたらさん初めまして?どっかの講演会であったかも? 私事で申し訳ありませんが、12月23日(日)午後二時~ 徳島市シビックセンター4階第4活動室で、雑学大学、邪馬台国は数字で証明できる~徳島説の完全勝利~を発表させていただきます。・・丹の話もしますが、徳島説にとって丹は証明の裏付けにしかすぎないので、一瞬で終わります。当日お時間がとれるようでしたら、ぜひ私の下手な講演を聞きに来てください。

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    1. どこかでお会いしましたかね?
      講演会は数える程しか行って無いんですが(笑)
      23日ですか。
      面白そうな演題ですね。
      極力時間は空けたいと思いますが、年末は何かとねぇ(笑)

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  6. Nomura.Schubertian@gmail.com

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  7. 3年前、60年ぶりに徳島へもんてきた(戻って来た)者です。この28日(一昨日)徳島県立博物館で『企画展関連行事 企画展 「朱を求めてー若杉山辰砂採掘遺跡からみる徳島の弥生時代ー」展示解説』を拝見・拝聴しました。その展示物冒頭に「常松卓三」先生のお名前を見、驚きました。常松先生は私のクラス担任でなかったので、特に親しくしていただいた訳でありませんが、このようなことに関わっていたとは、まったく知りませんでした。先生のご風貌は鮮明に憶えていますが、記憶の上に上書き致します。「常松卓三」で検索し、こちらのサイトを知りました。今後、いろいろ勉強させていただきます。ありがとうございました。

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