2011年12月30日金曜日

一宮町 國中神社

あ〜、やっと仕事終わったぁ。これでナンもなけりゃいいんですがねぇ。
いろいろあったりするんですヨ。
で、今年最後の更新となるかもしれないんですが、その割にな〜んも調べずに書いてる
わけで、ま、いいかげんという事でしょう。(意味不明、疲れてるのよ(笑))
でご紹介するのが(ご紹介だけね(笑)疲れてるのよ)(←なら、書くなよって)

徳島市一宮町東丁に鎮座いたします「國中神社」
場所はここ

より大きな地図で 国中神社 を表示

名方郡十二社の中でも多分一番知られてないんじゃないでしょうか。
ち・な・み・に名方郡十二社といふのは。

御七社と呼ばれる
 徳島市上八万町    宅宮神社
 徳島市一宮町     國中神社
 徳島市一宮町     一宮神社
 徳島市国府町西矢野  天石門別八倉比売神社
 名西郡石井町白鳥   白鳥神社(白鳥宮)
 徳島市国府町府中   大御和神社
 徳島市国府町井戸   八幡神社
あと市中五社として
 徳島市南佐古     諏訪神社
 徳島市眉山町大滝山  春日神社
 徳島市福島      四所神社
 徳島市伊賀町     八幡神社
 徳島市勢見町     金刀比羅神社
足して十二社。
で「國中神社」はこんなところです。
暗いって?だってこの時期の夕方5時前なんだもの。
暗いと言うか、寒いし、怖いのよ。(←そんな時間に行くなよって)
ところで、この「國中神社」地図にある通り「國中寺」の真裏というかほとんど境内に
引っ付いてあるのです。
どうも「ぼけ封じ」で有名なようで、ワタクシゃ封じられて帰れないかと思いましたとさ。
で、御本尊が「波切不動尊」で弘法大師空海が唐に渡る時、嵐の中、先達となったのが
 「波切不動尊」だそうです。この「國中寺」の「波切不動尊」の由緒は知りませんよ(笑)
はい、余談でした。
Wikipediaによれば
平安時代より以前に創立。名方郡十二社のひとつ。那賀郡・美馬郡等に分社があり
当社はその根本社である。境内にはヒノキの一木造といわれる男神座像・如来形立像が
ある。また旧四カ村の産土神として栄えた。
とあります。
徳島県神社誌を見ると、これがなんと目次にはあるのに、本文には記載が無いという
離れ業をやっております。
ウソだと思ったら、図書館に行って見て下さい。
で、これが由緒書きなんですが、かすれてて「読めない」。
読めそ〜なとこだけ読んでみれば

◯◯◯◯神は阿波国造の祖神で
また四ヶ村の産土神である当社には
◯◯◯十二神が祀られておる
平安時代から鎌倉時代に作られたもので
千年の長い年月あらゆる人々を守り
続けておられる中にも主神像は松の
一木彫衣冠姿(?)の坐像でお顔お姿とも
美々しく神々しく県内では殆ど
他社に(?)例のない古い貴重なものである
ほかに一体の佛像があるこれも神の
お裏として祀られた珍しい遺品(?)で
主神像とともに徳島県の重要文化財に
指定されている

間違ってたらごめんなさい。だって読めないんだもん。
あ、書き忘れてたけど、Wikipediaには主祭神は
唯一真神
阿波国造祖神
他十二柱
とありました。
「唯一真神」ってよく分んないし。(誰か教えてくれ〜)
阿波国造祖神って単純に考えたら「天太玉命」とかなんでしょうけど、ねえ。
こんな書き方されたら、いろいろ考えちゃうじゃないですか。
ナカナカにそそられる神社ではございませんか?



あとねぇ、鳥居のすぐ脇に「神泉」がございました。
泉は枯れてましたけど。

はい、そうです。
これ以上何の考察もしないまま、年を越すのです。
中途半端で終わってしまうのはいつもの事とは言え。
ああ、こんなことで大年神様をお迎えすることができるのでしょうか。
宅宮神社で懺悔しなくてはならないのでしょうか。

それでは皆様良きお年を。(オチが無い)

2011年12月25日日曜日

もうひとつの土御門上皇伝説(追記)

めりーくりすます、でございます。
実家は真宗大谷派でございますが、偉い方のお生まれになった日らしいので
(ホントは全然違う日らしいですけどね)
お祝いして、取引先から買わざるを得なかった買わせていただいたケーキをむさぼ
り喰っております。
もうひとつの土御門上皇伝説」で書きました「土御門上皇のお骨」が納められた
場所に板碑があるということだったのですが、御瀧神社の裏に板碑をみつけたので
そのことだけ書いておきます。

西へ向いて少々階段を上ると左側に地神社がある、その横を南に行き自然石の石段を
西に一間位上がると東向きに板碑や刻まれた石塔がある。
という説明だったのですが、「それ」は神社の裏(西側)で、少し南側に上がった
場所で説明とは違います。
何か別の板碑かもしれませんが。
こんな板碑です。
自然石の石段は分らず、石組みは近くにはありました。 
 表面も裏面も風化して、刻まれた文字等を確認することはできませんでした。
石塔も見当たらなかったし、違うのかもしれませんが。
無論、木の切り株が残ってるとは期待すらしませんでしたので。
ただ、普通には人が入って行くような場所ではなく、尋常でない雰囲気であった
ことは記しておきます。

では、もう一度「Merry Christmas

2011年12月23日金曜日

仏王山 大山寺

寒い一日となりました。
天長節の本日、徳島県板野郡上板野大山 四国別格二十霊場第一番札所「仏王山大山寺」
へ行って参りました。
「大山寺」読み方は一応「たいさんじ」、でも「おおやまでら」でもいいそうです。
上板の人は「たいさんじ」って言ってます。
場所はここ。


より大きな地図で 大山寺 を表示

寺伝によれば6世紀前後、武烈天皇・継体天皇の時代に西範僧都(せいはんぞうず)が開基した阿波国最初の仏法道場であると伝えられている。 wikipedia

開基( かいき )
西暦500年頃、西範僧都(せいはんそうず)によって開基されたと伝わる。 大山寺HP


大山寺崎縁起
当山は西暦五二五年頃、武烈継体天皇の御宇西範僧都の開基にして、
阿波仏法最初の道場で、弘法大師が阿波入国の砌、堂塔を整えられ
仏王の山号を奉り、恵果和尚より授かりし、千手千眼観自在菩薩の尊像
を奉安し、四国霊場開創の根拠地とされる。    山門記載の縁起



通説による仏教伝来が宣化天皇3年(538年)とされておりますので、もうこれだけで
だーれも信用してくれないような由来となっております。(笑)
ねえ、そろそろ宣化天皇3年(538年)の仏教伝来ってのを改めませんか?

前にも書きましたけど、西国三十三所の一番「那智山青岸渡寺」の寺伝にだって
仁徳帝(313~399)の御代に印度より裸形上人が(釈尊入滅後882年頃)一行六人と共に熊野浦に漂着し、熊野の各地を巡歴し那智大滝に於て観世音を感得し今の堂の地に庵りを造り
とあるじゃないですか。

納められております千手千眼観自在菩薩は恵果和尚(もちろん唐の青竜寺の恵果大阿の
ことですね)より授かったもの。
いかに仏法伝来の要諦であるかが伺えます。
でも凄いでしょ「仏王山」ですよ。

さて能書きは置いといて、行ってみますか。
うちからなら、六条大橋を渡ってまっすぐ、地蔵寺の手前の交差点を西へ、しばらく
進むと「大山寺」の看板があちこちにあるので、その通りに進むと着きます。
(すいません、石を投げないで下さい!)
下の仁王門まで一時間もかからなかったかな?
仁王門は修復中でございました。 
この仁王様(吽形)も悲惨な御姿になっておりました。
 一日も早い修復をお願いいたします。
えらい石段を延々と登り
鐘楼門へ辿り着きます。
ちなみに石段が嫌な人は手前の分かれ道のところで「納経所」の道を進めば
この鐘楼門のすぐ脇まで車で乗り込めます。

ワタクシめは石段を上ってる途中で散歩のオジサンにそのことを聞き、思わず11段ほど
転がり落ちてしまいました(ウソ)。
え〜、本堂でございます。
寿永4年(1185)源義経が屋島合戦の戦勝祈願を行なったという噂でもちきりです。
(おいおい)
 ちなみに土御門上皇も護摩堂を建立、不動明王像を奉納し、病気平癒の祈祷会を厳修され
たそうです。

納経所のところにあった地図、 ここまで来てるんですけど。

ところで、ここ「大山寺」では毎年1月第3日曜日に「力餅」と呼ばれる、大鏡餅
(86キログラム)を載せた三方(合計169キログラム)を抱えて歩く距離を競う行事が
行われておりまして。
その像が..............
こ、こ、怖い。
で、帰って来たんですが、しまった!奥の院「波切り不動」を拝めなかったぁ!
帰り道で南を眺めれば「気延山」がこんな風に。
以上ですが、もうちょっと書くことがあるだろうって?
それを調べに行ったんだろうって?
どうゆーことですか、まさか大山津見神のことを書けとかおっしゃるのでしょうか。
ここ「大山」に住んでいた「大山住神(大山積神、大山津見神、大山祇神)」のこと
でしょうか?
同じ板野郡上板町神宅にある鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は日本唯一の
鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)を祀る式内社であることでしょうか?
で、その夫神である「大山津見神」のおわします山が、ここ「大山」であるということ
でしょうか?
今治の大山祇神社が総本山ではないなどという、とんでもない話を書けというので
しょうか?
それとも、大山津見神の娘であり、国府町の桜間神社の御祭神「木花之開耶姫」との
関わりを書けというのでしょうか。
そして、桜間神社のすぐ北側に野槌(椎)神社(野椎神は鹿屋野比売神のこと)が再建されている事などを書けばいいのでしょうか?
もういい?
でも、まだ書けないんですよ。
もう一回図書館に行って「◯◯◯◯誌」を確認するまでは。

2011年12月18日日曜日

お亀磯の伝説(追記)

なんという以前の記事の追記を書いとるんでしょうか。
今年の一月に書いた「お亀磯の伝説」の事です。
絶対に忘れてるでしょう、書いた本人が忘れてるんですから。
また県外の土地勘の無い人には理解しにくいでしょうが、ま、ごめんなさい。

前のは上のリンクからもう一回見てもらうにして、めんどくさい人は、あらすじを
書いておきます。


お亀千軒(かめせんげん)の狛犬(こまいぬ)
徳島市の津田川河口から4キロメートルほどの沖に、お亀千軒という大きな島があったといわれている。1000軒もの漁師が住み、よく働いて平和に暮らしていた。島の鎮守の森に「ししこま」と呼ばれた狛犬があり、その顔が赤くなると一大事が起こるという古くからの言い伝えを誰もが信じていた。
ある日、ひとりの怠け者がいたずらをしようと、ししこまの顔を赤く塗りつぶした。赤くなった顔を見つけた島の人たちは大慌てで島から逃げ出して、残ったのは怠け者ひとりだけになった。すると、空が曇り、雷が鳴り、大きな音をたてて、あっという間に島は海の底に沈んでしまった。
お亀千軒があったという海上には、引き潮の頃になると、山の頂上だったところが亀の甲羅のような形をして波間に見え隠れするといわれている。
「探そう!とくしまのたからもの」から引用


で、この時島にあった神社の御神体が流れ着いたのが、福島の四所神社の起源だとも
言われております。これも以前の
「徳島市「四所神社」秋祭」


「四所神社」
主祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)
斎主(いわいぬし)神 比売(ひめ)神
由緒
旧阿波藩主崇敬社にして、もと大亀島に鎮座していたが、大同年間(九世紀はじめ)に
当所に遷座、明治三年郷社に列格。
「寛保改神社帳」に「福島四所大明神 神主福島榊本頼母」とある。
又「阿波名勝案内」に「四所明神福島町にあり、元津田沖合一里の海中にあり、文禄
中沈没したるお甕(かめ)に在りしを、地変に先立ち船に載せて此に至り祀ると称す。
文禄三年か、しかし大地震の記録なし。いわゆる伝説か、口碑の伝うる所は、島中
神社あり、狛犬の面赤らめばこの島滅亡なりとの予言事実となりて現れ、正直なる
島守の家族は、予言を信じて危難を逃れしも、村民の多くは、之を信ぜずして溺死
したという」とある。
「福島の明神さん」として親しまれ、祭礼は大そうにぎわう。
徳島県神社誌より


とか書いたりしてます。
写真は四所神社
じゃあ、何の追記があるんだよぉって事なんですが。
この「お亀千軒」どうも島ではなく地続きであったようなのです。

まずは宝暦七年「阿波記」
古老伝云、往古ハおかめ千軒とて、王御子より今海中のおかめと云岩迄、山相続、千軒の
浦也けると也

「王御子(おおみこ)」は現在の「大神子(おおみこ)」のこと、この記載だけでも別の
意味で唸ってしまいますね。

「阿州奇事雑話」
其昔足利公方御治世の末、勝浦郡小松島浦の沖手に今の御瓶と云碆の邊南手に地續にて
其比ハ御瓶千軒とて繁昌の浦邊にて蛭子か宮を氏神として祭りしに・・・
以下略

最後に「阿波志」(原漢文)
龜磯。津田港口の南岸を距ること一里許りに在り。俗に御甕と呼ぶ、昔は漁村たりき
文禄中に海嘯ありて淪で海と為る、民福島の築地に移れり
「龜」とありますね。
どうも現在の大原町大神子から地続きの岬(?)か磯があったようなのです。
すっげえ、へたくそな地図を書いてみましたが、てきとーですのでイメージ程度に
思って下さい。


より大きな地図で お龜磯 を表示

これが「海嘯」つまり津波によって壊滅したということです。
これがどうも「太平記」にある「大地震附夏雪事」の事件のようなのです、これが。


中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云浦ニハ俄ニ大山ノ如クナル潮漲来テ、在家一千七百餘宇悉引潮ニ
連テ海底ニ沈シカハ、家々ニ有所ノ◯俗男女牛馬鶏犬一モ殘ラス底ノミクズト成リニケリ

とあります。
一般的にはこの「雪ノ湊」現、徳島県海部郡美波町由岐地区とされておりますが
「平家物語」には「平 維盛(たいら の これもり)」が屋島を出て、阿波の国雪の浦より
鳴戸(原文まま)の沖をこぎ渡る旨の記載があり、鳴門より数十キロ離れた美波町由岐の
事とは考えられないとの考証が徳島市郷土史論にもあり、ワタクシめもこれに同調する
ものです。

これが「そう」ならば、往古、今の大神子付近から突き出た岬に沿って「雪の湊」が
存在し、千七百世帯の漁村があり、岬の先には「お龜磯」があり、蛭子神社があった
ということになります。
これが一瞬の津波により「男女牛馬鶏犬一モ殘ラス底ノ、ミクズ(御屑)」となり
蛭子神社の御神体は福島まで流れ着いたのです。

で「それ」が起こったのは日は、詳しい説明は省きますが、阿波志には文禄中(1592年
から1596年まで)とありますが、やはり正平十六年の南海地震と思われます。
ならば、正平十六年六月十八日、現在の暦に当てはめれば1361年7月20日となります。

この時の南海地震は正平16年6月18日〜25日頃まで続き6月22日には摂津国難波浦に大津波
が押し寄せ、死亡者数百人、7月22日には大地震が発生し難波浦から大津波が押し寄せ
四天王寺の伽藍を破壊しております。

「太平記」には
難波浦ノ澳ヨリ、大龍二浮出テ、天王寺ノ金堂ノ中ヘ入ルト見ケル
とあるようで、恐ろしい風景が眼に浮かぶようです。


ここらまでくれば余談の範囲になっちゃいますがね。
まあ、お亀磯の伝説の追記ということで記載しておきます。

今回は文字ばっかりだし、読みにくいし、地味だし、あんまし受けないかな(苦笑)

2011年12月14日水曜日

龍神の社(2)後編

一応、「龍神の社(2)前編」からの続きではございますが、別物として
見ていただいてもいいかなって感じです。
で、前編ではコケたことばっかし突っ込まれてしまいましたが、今回はコケてません。
コケそうになっただけです。

より大きな地図で 龍王山 を表示
で、「西龍王山」から「東龍王山」へ向かう訳なんですが
ふつ〜は、この「健康ウォークコース」の「くまコース」を行けば
西龍王山頂上「八大龍王神社」を越して東龍王山までの尾根道を進みます。
相当距離はあります。
で、ふつ〜でない人は、神山森林公園へ戻って車で東龍王山へ向かうという
ウォーカーの風上にもおけない行動を取ってしまうんですね。
でも、小さな声でちょっとだけ言い訳すれば

「腰が痛かったんです!!!」

それなら帰れよって?
いいじゃない、それでもいきたかったんだからぁ。

ちょっと見にくいですけど上の地図の一番右端に東龍王山の駐車場があって、その少し
手前の丘の上に東龍王神社があります。
だからそこまで車でいったんだよぉぉぉ。(開き直ってる)
で、神社の登り口にはこのような標識が、ちなみに駐車場よりの登り口からは
500mほどって書いてありました。
ということは、自動的にこの300mコースを選ぶんですね。
少し登ると、さらに標識が。あと100m片足でも着けますな。
と思いきや。
最後にかなりの急坂が待っておりました。
ここの下りがまた怖かったのよ。
2度目コケたら、もう帰れないかなって.......思わないよ。
あ〜、着いた着いた。
思ってたより小さな祠でありました。
以前の記事の「入田村史」には24ページに
東西竜王両社にて毎年旧六月拾弐日村民相集りて番塲の如き囃をなして
雨乞の祈祷をなせり。
とあります。空海の関係かなと思ってましたが、どちらかと言えば役行者に関わる
修験道の方みたいです。
ただ建治寺の御本尊が空海作の蔵王権現・・・
西龍王山の八大龍王神社は蔵王権現・・・
東西両山同日に祈祷・・・

いかん、今日は書かないの。

はい、おまけ。
途中の見晴しのいい場所から月の宮ゴルフクラブのクラブハウスが見えておりました。

で、腰を押さえて泣きながら、家路に向かいましたとさ。
めでたし、めでたし。

ホントはね、県内各地にある八大龍王神社で◯◯◯にある九頭竜を封じてるなんて
話を書きたかったんですが、虚心坦懐(笑)なんで、その話は別の機会に。

2011年12月12日月曜日

龍神の社(2)前編

最近、ロクなことが無いのは、やっぱ謙虚さが欠けているのではないかと思う今日
この頃でございます。
日頃溜まりに溜まった心の垢と腹の脂肪を落とす為に、ここは虚心坦懐にお詣り
しなくてはと、龍神の社(2)として書くつもりだったここへ行って参りました。
(なんか全然虚心坦懐じゃないような気が)
ですので、今回は変な講釈はナシ。虚心坦懐ですのでね(笑)
場所はこことここ。

より大きな地図で 龍王山 を表示
まずは西龍王山頂上の「八大龍王神社」へ。
建治寺から上る道もあるんだけど、まあ、そこはね。
神山森林公園へと向かいます(笑)
途中で南を眺めれば、大川原高原の風車の所に早くも積雪が。
駐車場に車を置いて「すだちくん」の脇をまっすぐに。「北の展望台」を目指します。
一応、案内図の写真を載せておきます。
ちなみに、展望台の少し下から公園を見下ろした所。
で、最初の階段で早くも息切れし、引き返そうかと思いながら、やっとのことで
着いたのが、「北の展望台」。
この展望台のすぐ手前から下ると「建治寺」への道が。
では、ここまで来てしまったので、仕方なく(おいおい)西龍王山へ。
写真がぶれてるのは、早くも疲れてるからです(おいおいおい)。
こっから、結構キツいのよ、急坂で。
で、苦行の一時が過ぎ去り........


ホントならここで、くどくどとつまんない講釈をするとこなんですが、今日は虚心坦懐
なんで(笑)書きません。
単にウィークデイで疲れてるから、なんてことは、ちょっとしかありません。
で、ここが「建治寺」の真上になります。
ああっ、いろいろ書きたいっ!
いや虚心坦懐、虚心坦懐(笑)
で、ここからの下りで、久々にコケちゃったんですよ。
落ち葉が表面は乾いてるんですが、下の方が濡れてて、ずるっと。
なんか悔しいんで、コケたまま空の写真を撮ってしまいました(笑笑笑)
あ〜、山でコケたのは久しぶり、なんかいい気分。
でも、腰とふくらはぎが痛い。

続いて「東龍王山」へ向かうんですが、ちょっと今晩は書ききれそうにないんで
「後編」へ続く。
おまけ
「北の展望台」から鮎喰川、加茂名山方面を眺めた所。

2011年12月9日金曜日

眉山山頂「剣山本宮」

寒いっす。
とにかく忙しすぎて、なーんも考える気が起こらないので、今回はちょっと内容が
ぶっ飛んでるかもしれませんが、話半分いや百分の一程度で見て下さい。
ご存知の方はご存知ですが、徳島県の県庁所在地の眉山山頂にはなぜか「剣山本宮」が
祀られております。
場所はここ。

より大きな地図で 剣山神社 を表示


さすがに眉山山頂だけあって、観光客やトレッカーたちが結構お参りしております。




もう内容を転記するのがつらいんで、拡大して読んで下さいませ。
要は剣山山頂の本宮を分霊(わけみたま)したとのことでございます。

別にその事自体はなんら気にかけることもございませんし、徳島県の象徴たる剣山の
遥拝所が県庁所在地にあることは喜ばしいことでございましょう。
ちなみに眉山「剣山本宮」と「剣山」の位置関係は下の地図をご覧下さい。

 
より大きな地図で 剣山神社 を表示

あああ
さて、それに対してあまり知られていないのが、もう一つ眉山山中にある「剣山神社」
場所はここですが。
西部公園から少々(大分?)上った場所の小高い丘(?)の上にございます。


より大きな地図で 剣山神社 を表示
例によって(笑)なんでこんなトコにって場所に鎮座ましましております。
 
上る時には眼に入らない場所ですが、なんか奇妙でしょ。(無理矢理思わせてるのかよ)
ま、そこらは一旦置いて。
さらに奇妙なのが、最初に紹介した「剣山本宮」。
下の拡大した地図を見て下さい。


より大きな地図で 剣山神社 を表示

どっちに向いてますか?そう北北西。「剣山」とは全く違う方向。
「剣山神社」もほぼ北へ向いてやはり「剣山」とは全く違う方向。
では、二つの「剣山神社」の向かう方向には何があるのか。


より大きな地図で 剣山神社2 を表示

おおお、これは(笑)
絶対線の引き間違いですよね。こんなことがある訳ないっすよね。
もしくは神社を建てる時、土地の都合とかでこうしたんでしょう。
深く考えちゃいけませんよね。

ちょっと物足りないですか?
じゃあ、冬の夜長のお供にちょっと世迷い言を(笑)

剣山には何かが隠されていると言う人が多々いらっしゃいます。
ユダヤの十二氏族が隠した聖櫃が隠されているという人がいらっしゃいます。
空海は「それ」を守る為に八十八箇所を定め巡礼の人が「それ」を監視する仕組みを
作ったと仰る方がいます。
ワタクシめにはなかなか信じがたいことでございます。
なんで、わざわざ日本くんだりまで聖櫃を持ってこにゃならんのかと思います。
多民族が入り込んで来たって言うのは特に反論する理由もございませんが。
(秦氏とか1万人規模で入って来てるみたいですので、別にユダヤ人が数百人規模で
来てても「あり」なんでしょうが)
ただ、隠した場所まで記している方がいらっしゃいます。
契約の櫃は剣山◯◯◯にある◯◯洞の入口から百数十m入った所などと、やたら詳しく
記載されたりしております。
櫃は岩の上に置かれていて金色に光っている。その形を記したものが高野山金剛峰寺の
◯◯◯◯の中にある◯◯◯◯であるそうです。
もう付いて行けませんよね。
でも、あえてちょっとだけ付いて行くなら(笑)そこまで場所が分かっているのなら
いつまでも秘宝を置いておく訳がないでしょう。
ばれた!と思ったどこかの時点で移すんじゃないですか。
もしくは(空海が)隠そうと思った時点ですでに移している。
それはどこか?「剣山本宮」がそれを指し示している。
また、なぜ八十八箇所としたのか。
徳島県に、特に穴吹町口山には七十五膳神事というのが残っている。
これはユダヤ十二支族の下部に属する七十五分家を表し、十二支族と七十五分家を合わせ
八十七、それに隠された支族◯◯◯族を足して八十八!
弘法大師空海、一番札所霊山寺を建立した時、なぜ涙を流したのか。
櫃は人が持って廻るもの、ならば一番から始まって八十八番、お礼参りで一番へ。
それはどこにあるのでしょう。

な〜んちゃって。

こんな感じで書いていけば「飛鳥昭雄」の後継者になれるかな(笑)
いかんなぁ、こんなはワタクシめのスタンスじゃないんですが。
面白いなら、もう一回くらい書きますよ(笑笑笑)

2011年12月3日土曜日

南井上村誌(追記)

前回書きました、南井上村誌の追記です。
井戸寺の写真などがありませんでしたので、今日インフルエンザの予防接種に行った
ついでに撮ってきました。
まともに行っても10分かからずに着きますので単にズボラしてただけですね。(笑)



井戸寺(いどじ)は、徳島県徳島市国府町井戸にある寺院。宗派は真言宗善通寺派。四国八十八箇所霊場の第十七番札所。瑠璃山(るりざん)、真福院(しんぷくいん)と号す。本尊は薬師仏を中心に1体、左右に3体ずつ安置した七仏薬師如来で、聖徳太子作と伝えられている。



寺伝によれば、天武天皇の勅願により673年に創建した妙照寺が前身とされる。伝承では弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩、十二神将、四天王、日光菩薩、月光菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も井戸寺と改めたという。
貞治元年(1362年)細川頼之の兵火に遭い、ついで天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火でも堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年)にようやく本堂が再建となる。また、昭和43年(1968年)には失火により本堂が焼失。幸い本尊は救い出され、3年後に再建された。
これがWikipediaよりの引用です。

ちなみに南井上村誌には
井戸寺は記述の如く天武天皇白鳳二年に御願によって建立されたもので、阿波国最古の寺である。建立当時の本尊は上宮太子(聖徳太子)の彫刻された十二上願如来で、其の御胸間に毘首羯磨(びしゅかつま)作の薬師如来が御坐された。又脇士の日光月光は行基菩薩が刻む所であった。四大天王、不動明王、十一面観世音は弘法大師の厳作を安置され、七堂伽藍、輪奐の美を誇ったが兵火の為に一部を焼かれ、嘉永年間桜間城にあった阿波国の豪族田口成良これを修理した。
これから百六十年余を経た天文十二年、僧芥誠は勧進となって井戸寺の復興に当たった。塙保己一が著した群書類従にはこの当時の勧進帳が収録されている。天保取調書には辨才天社に復興に当り先に埋め置いた多くの仏像を掘出したと記されている。

以下略

と記されております。白鳳二年は寺社縁起に照らせば673年頃。
この頃、田舎の(あえてこう書きますが)寺に聖徳太子御作の御本尊、行基菩薩作の日光月光、空海作の十一面観世音像が納められ、寺自体は御願、つまり勅願寺、天皇の勅により築かれた寺なのです。
さらには天武天皇勅願の井戸妙照寺の比定ではないかの説もあり、それならば時期的にも合いますが、天武天皇即位が673年頃なので即位して真っ先に行なったかのような感じすら受けてしまいます。
また、妙照寺は和田村、井戸村全てを含むほどの寺領を持った巨刹でありました。
現在の井戸寺は、そのほんの一部ということです。

でねぇ、「毘首羯磨(びしゅかつま)作の薬師如来」ってあるでしょ。
毘首羯磨はインドの伝説の名工で、空海が唐に渡った時に毘首羯磨作の仏像を何体か持って帰ったと言う代物なんです。
ここはさすがに疑っちゃうんですが。(笑)
これは井戸寺に立てられてました縁起。
あ、ここのも673年って書いてあるから、これでいいんですね。
ただし、南井上村誌には「おもかげ井戸」を空海が一夜で掘ったなんて事は「全く」
書いてございません。(笑)



では、その「おもかげの井戸」と言いますか「日限大師」を。
由来と一緒に出しておきますが。
前回から書いてますように、これは弘法大師空海が一夜で掘った井戸ではありません。
水をのぞいて姿が映れば無病息災であるが、映らない場合は3年以内に不幸があるという
伝説もいわれがありません。
ここは山幸彦と豊玉姫が出会った、桂の木の傍らに掘られていた井戸なのです。
空海が掘ってもいいですけど、勅願寺を立てる時に、水が悪い地元の人のために掘ったなんて理由をつけなくてもいいんじゃないですか?

村誌にもありましたように
「古事を追慕さるる大師が由緒深き霊井に御姿をうつされ
以て俗人共に神代ながらの神聖さ正しさを保てと訓えられた」
その井戸なのですよ。

だ〜から、お遍路のみなさーん、八十八箇所巡りはスタンプラリーじゃないんですよ〜。
由来とか由緒とか少しは調べてから来てね〜。
面白いんだから。