2024年11月2日土曜日

考察:阿波三国説(下)

考察:阿波三国説(上)
考察:阿波三国説(中)

えと、最終回は妄想全開なのでご注意ください(笑)。


で、みまは独自の古墳文化圏とともに「段ノ塚穴型古墳」の集中する地域に「郡衙(ぐんが)」を構え
(郡衙)律令制の行政単位である郡の行政を行う役所。 郡は「こおり」とも読み、古くは「評」と表記され、現代の県に相当する国の下にいくつかの郡が置かれ、さらに郡の下にはいくつかの里(郷)が置かれています。
旧道沿いには「駅」を設けていたわけです。
古代、律令制で中央政府と地方との連絡・通信のために設けられた交通制度。諸道の30里(約16キロ)ごとに一駅が置かれ、官吏や使者に馬・食糧を提供した。

そしてワタクシめが、この美馬国(?)で最重要と「現在」考えておりますのが、ここでございますです。

天都賀佐比古神社(あまつかさひこじんじゃ)

式内社 阿波國美馬郡 天都賀佐毘古神社
旧村社
御祭神 級長津彦命 級長津姫命

当社の創建は不詳。
轟の地にあるためか、轟大明神、轟宮とも呼ばれる神社。
もとは、当地の西方200mほどの高畑にあったという。
近くには「段の塚穴」と呼ばれる古墳や
白鳳期の建立という立光廃寺の遺跡などがあり、
古代から、美馬郡の中心として開けていた場所。
祭神は、風神である級長津彦命と級長津姫命。
轟という鎮座地に相応しい神だといえるが、
一説には、天都賀佐比古の「賀佐比古」が、
「風彦」の意味であるとする後世の付会であるといい、
建貝児王命を祭神とする資料もある。
風の神なので、風神としての神威を伝える伝承も残っている。
一つは、この社の前を乗馬のまま横切ると吹き飛ばされるといい、
また、吉野川を西へ遡る船は、帆をかけたまま通ると転覆するとも。
そのため、境内・社殿は南の吉野川を向いているが、
御神体は、北向きに安置されているという。
玄松子の記憶
由緒 当社は西暦6世紀以前に創建されたものと思われ、古墳時代後期 美馬郡院のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が崇敬していた神を祭り 風災を鎮め五穀豊穣を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である

あ〜、美馬にはも一つ西荒川に天都賀佐比古神社がございまして

まあ、こんなトコになるんですが、一旦スルーしておきます。
ちなみに御祭神は「天太玉命」でございます。

で、天都賀佐比古神社について「郡里町史」では

「この社はもと現在地の西、約二丁の字高畠にあり・・・」
とありますように現在地より西に約200メートルの位置にありました。
地図で見れば、現在は「高畑」と記載される「この辺り」になりまして。
なんと「段の塚穴」こと「太鼓塚古墳」をほぼ見上げる位置にあったことがわかります。

さらに大正四年発行の「美馬郡郷土誌」によれば「轟大明神」として記載され。


「祠前の田間に墳墓の跡あり、天(あめ)ノ塚又は天乃加佐都加(あめのかさつか)と言ひ、級津彦命を祀りし處なりと、又西方約一町ばかりの畑中にも墳墓の跡あり、地(つち)ノ塚と呼び級津姫命を祀りし所なりと・・・」
要は「級津彦命」と「級津姫命」の塚(墳墓)があったと書いてあるのですね。

社伝によればこの社の創起は6世紀以前。この傳を信ずるなら「太鼓塚古墳」以前となります。ならば「太鼓塚古墳」の主はこの社の系譜に連なるものと考えるのが順当でしょう。

ならばこの主は、級長津彦命 級長津姫命に繋がる系統であるか、級長津彦命 級長津姫命を崇敬する一族ということになりましょう。

シナツヒコ
シナツヒコは、日本神話に登場する神である。 『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれる。
概要
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれる。 wikipedia

追加
 『日本書紀』一書六では、伊弉諾尊の吹き払った息が風神、級長戸辺(しなとべ)命となり、その別名を級長津彦(しなつひこ)命としている。「級長津彦」の方はヒコとあるので、『古事記』と同じく男神であるが、「級長戸辺」のベは女性を意味する語と解されるので、女神と考えられる。
なので
賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。(と言う説もある)

イザナギとイザナミの間に生まれた神をおおざっぱな一覧としておきますと

大事忍男神(おほことおしをのかみ)
石土毘古神(いはつちびこのかみ)
石巣比売神(いはすひめのかみ)
大戸日別神(おほとひわけのかみ)
天之吹男神(あめのふきおのかみ)
大屋毘古神(おほやびこのかみ)
風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)
大綿津見神(おほわたつみのかみ)
速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
志那都比古神(しなつひこのかみ)
久久能智神(くくのちのかみ)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)

鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ)
大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)

金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる)
彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる)
和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる)
などがいわゆる兄弟姉妹神です。

阿波でよく見かける(笑)神様で言えば
 久久能智神(くくのちのかみ)
 大山津見神(おほやまつみのかみ)
 鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)
 大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
が挙げられますね。
他の神様が阿波で祀られていないわけじゃないんですよ。(マニア対策(笑))

無論、イザナミ命が近所に祀られていることは言うまでもありませんが、今回は省略させていただきます。

さて、もう一度「徳島県博物館紀要」よりですが



こうやってみる限り「美馬国(?)」の存在の信憑性は高いような気がします。

この一族についても考察(妄想)してみれば。
・「段の塚穴古墳」から「郡里廃寺跡」を作った氏族は「佐伯氏」であるとの説もある。
・「忌部山古墳」様式と「ほぼ」似ている、しかし全国に例はない。
・強大であるにもかかわらず「忌部山古墳」一族、つまり「天日鷲命」一族と争った形跡もない。
・西荒川の天都賀佐比古神社、御祭神は「天太玉命」。父親は「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」

「高御産巣日神」の子、「天太玉命」の兄弟で、「佐伯氏」の祖。この条件に合うのは

「天忍日命」

これを以って阿波三国説の考察終了とさせていただきます。

2024年10月27日日曜日

考察:阿波三国説(中)

 考察:阿波三国説(上)

の続きでございます。

改めて「郡里廃寺跡」の説明をwikipediaより。

郡里廃寺跡(こおさとはいじあと)は、徳島県美馬市美馬町銀杏木・願勝寺にある古代寺院跡。国の史跡に指定されている。

概要
徳島県西部、吉野川中流域北岸の扇状地に位置する。古くから「立光寺(りゅうこうじ)」という寺院の跡地として伝承されたが、国史跡指定時に「郡里廃寺」に改称された。1967-1968年度(昭和42-43年度)および2005年度(平成17年度)以降に発掘調査が実施されている。
伽藍は法起寺式伽藍配置で、金堂を西、塔を東に配する。徳島県内では最古級の寺院跡になるとして注目されるとともに、旧美馬郡域に限定的に分布する段の塚穴型石室の古墳の存在を考え合わせて、段の塚穴型石室の古墳を営造した有力豪族が美馬郡の郡司氏族になるとともに氏寺として郡里廃寺を営んだと考察可能である点で、重要視される遺跡である。
寺域跡は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定されている。

2024年10月現在この看板は立っておりません。

1967年から発掘調査は始まっておりまして、一応報告書など貼ってみます。

ぜんぶ貼ってたらそればっかりになるので第3次と9次あたりから。





蕨手文の鴟尾(しび)も出てきてるようです。


さて、この「郡里廃寺跡」こと「立光寺(りゅうこうじ)」出土瓦の分析より「白鳳時代」建立が確定視されておりますが。法隆寺並の規模であり、五重の塔であったことも判明しております。





白鳳時代が大化元年(645)から和銅三年(710)の平城京遷都までとされておりますので、法隆寺建立と言われている607年から40〜60年程遅れて建立されております。

で、思い出してほしいのが、前回の「段の塚穴古墳群」なんですが、築造が古墳時代後期、大半の石室が 6世紀後半の築造、つまりは西暦570年以降辺りで最新の古墳は7世紀築造のものもあるようです。

つーまーり、「段の塚穴古墳群」から「郡里廃寺跡」こと「立光寺」まで百年経ってないんです。
もし仮に、和銅6年(西暦713年)に出された勅令「諸国郡郷名著好字令」によって「粟国」と「長国」が「阿波国」の同一名称で呼ばれるようになったとすれば「美馬国?」もこの時統一されたの、かも。
まあ、妄想ですけど(笑)。
ただ、白鳳時代の阿波の古刹を見てみると

大野寺 (阿波市)
天智天皇の勅願により、同天皇2年(663)に現寺域の東方、大野島御所ノ原に創建された。その後、平安初期に嵯峨天皇の尊崇を得て、七堂伽藍が整えられた。

隆禅寺(阿南市)
天智天皇の勅願により、673年(白鳳2年)に創建。
白河上皇が霊夢を感じ、京都の東寺の名僧であった長範僧上に命じて、廃絶していた隆禅寺を再興させ、後の後鳥羽上皇の時代に源頼朝が先帝勅願の名跡を再興しようと尽力したと伝わる。

見事に「粟国」と「長国」を代表する場所にあるじゃないですか。
これを以ってして「阿波三国説」の傍証に・・・
ならないのは分かってますよー(笑)。
でも、こういう意見もあるんです。(徳島県立博物館紀要)



また

ともあり、阿波独自の氏族集団であろうかと。

で最後に・・・
と思いましたが、またまた長くなりすぎたようなので(下(最後))に続く。

あーやっぱ見えねーや




2024年10月20日日曜日

考察:阿波三国説(上)

最近、美馬近辺の説明をする機会があったんですが。
場所柄もあってそれはもう、しどろもどろ(笑)。
多分10%も説明できなかったかな・・・と反省して当記事を認めてみました。

これでもわかんないっっって言われそうですけど(泣)。

で「阿波三国説」なんですが、もしかしたらコレ言っちゃ行けない説かもしれないというところで、静かに潜航して参ります。

「阿波三国説」とは簡単に言えば上古阿波国は「粟」「長」国に別れていたのが「阿波」となったんですが、その二国以外に「もう一つの」国があったのではないかと言う説です。
その本拠地が「麻植」もしくは「美馬」と言うわけです。

それを古墳の分布等から見れば

 忌部部族と古墳
 美馬郡を中心とする阿波郡、麻植郡にかけて約20キロの吉野川沿岸に見られる、一つの型式を持つ石室の構造、それは天井石を前後に持ち送ったドーム式の天井であり、側壁を左右に持ち送った胴張りの平面であり、それらの天井、平面の横穴式石室古墳の築造方法が存在している。
 この型の古墳を築造した古代氏族の族名については諸説まちまちである。昭和57年1月12日に徳島県文化財研修会(徳島県教育研究センター)に於て秋山泰氏は、美馬郡美馬町の段の塚穴及び野村八幡古墳の築造部族は佐伯直(さへきのあたい)であろうと発表された。
 また故笠井新也氏は粟国造(くにのみやつこ)家の物としては、やや西偏しすぎるので、
阿波国は那賀川流域と海岸地方を合わせた長の国と、吉野川流域の粟の国の他に、美馬郡、三好郡を一国として、そこを支配した豪族が存在したと説き、阿波三国説を提唱された。
 しかし、その部族の名は挙げていない。
阿波学会研究紀要

まずはここからです。

ちょっと薄いかな。言わずと知れた「太鼓塚古墳」つまりは「段の塚穴」でございます。
典型的な忌部様式の古墳だと言われておりますが、いわゆる「忌部山型石室」とは異なっております。

段の塚穴古墳群
段の塚穴古墳群(だんのつかあなこふんぐん)は、徳島県美馬市美馬町坊僧・東宗重にある古墳群。国の史跡に指定されている(指定名称は「段の塚穴」)。
徳島県西部、吉野川中流域北岸の河岸段丘上に営造された古墳群である。円墳2基(太鼓塚古墳・棚塚古墳)から構成される。
古墳2基は東西に約27メートル離れて並ぶ。いずれも埋葬施設を両袖式の横穴式石室とし、胴張り平面形・ドーム状天井などを特徴とする形態の石室である。同様の形態の石室は美馬市域の古墳で知られており、本古墳群を標式古墳とする「段の塚穴型石室」と捉えられる。特に太鼓塚古墳の場合には、徳島県ひいては四国地方で最大級の石室である点で注目される。両古墳の築造時期は古墳時代後期頃と推定される。
2基の古墳域は1942年(昭和17年)に「段の塚穴」として国の史跡に指定されている(徳島県内では初の国の史跡)。なお、周辺では白鳳期寺院の郡里廃寺跡が残る。
WikiPedia

築造時期は古墳時代後期となっておりますが、大半の石室が 6世紀後半の築造と考えられているようです。つまりは西暦570年以降辺りですかね。

GoogleMAPで見るとこうでして。

で、ここがこうです(笑)。

一方, 考古学的には, ほぼ麻殖郡内全域にわたって忌部山型石室が分布する。とくに忌部山古墳群、鳶ケ巣古墳群を中心に分布する。それぞれは忌部郷、 川島郷を眼下に望む位置にある。この形態の石室は突然出現し、麻殖郡一円に急速に広まっていく。他の形態の石室はほとんど採用されない。
かなり強い規制がはたらいたとみられる。おそらく、この範囲を一単位でまとめえるだけの根強い基盤があったのであろう。注目すべきは、この忌部山型石室の分布領域が、律令期の麻殖郡にそのまま移行していることである。
徳島県博物館紀要



これもちょっと見にくいのですが「段の塚穴型石室」と「忌部山方石室」の分布が美馬と麻植とではっきりと分かれていることがわかります。
あ、こっちがいいかな。

なお、若干の説明を付け加えれば

美馬町周辺には,段ノ塚穴と同じ方式で築造された古墳が数多く分布している。これを段ノ塚穴型石室と呼ぶ(天羽1973)。つまり,太鼓張りまたは末広がりの平面プランに天井石を斜めに持ち送り,いわゆる穹窿式の天井を構成するという特徴を持つ。
これは,より高く,より広い空間を得るためにとられた構築技法である。この段ノ塚穴型石室は,
徳島県内はもちろん他に例をみない。類例としては,結晶片岩という同じ石材を使う和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)や九州の肥後型石室(柳沢1980・古城2007)などにみられる。より高い空間を得ようという発想は同じだが,天井石を持ち送るという構築技法はどこにもみられない。
阿波学会紀要 

和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)を類例としておりますが

和歌山県岩橋千塚との関連も注目されてきたが、決定的相違点もみられる。つまり、天井を前後から、側壁を左右から持ち送り、いわゆる弯薩式の天井を構築し、平面プランが胴張り又は末広がりを呈する横穴式石室である。

という話もあり、まあ「類例を見ない」としていいんじゃないでしょうか。

この辺りから「阿波三国説」が出てきたわけなんですが、段の塚穴古墳群の最終未と考えている江ノ脇古墳は、7世紀前半にまで下るそうでして、これが「郡里廃寺」につながっていくのですね。




吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果法起寺式伽藍配置をとるものであることが判明した。塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
 現段階では徳島県下最古の寺院の一つとして、また、遺構をよくとどめている寺院跡として、きわめて重要な寺院といえるであろう。
文化遺産オンライン

あ、10月何日やらにいったときは公園としての整備工事中でしたので、案内看板等はありませんでした。

最近目が見えなくて、長い記事が書けなくなってきたんで一旦ここまでで続きます。


次が(中)か(下)かは未定(笑)。

そんなにお待たせはしないと・・お・・・も・・・・う(かな)。


2024年8月17日土曜日

おいのこさん考

なんの脈絡もなくとーとつに記事の投稿などしてみますね(笑)。
 
いわゆる「おいのこさん」と呼ばれる行事がありますです。

毎年十月最初の亥の日に行われ、阿波においては里芋の茎(ずき)を藁束で包み、細い縄で巻いた藁ぼてを子供たちが搗いてまわります。昭和十年ごろまでは行われておりましたが、それ以降は廃れておりますです。

「わらぼて」

亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の上の(上旬の、すなわち、最初の)亥の日のこと、あるいは、その日に行われる年中行事である。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。

主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 徳島県内では2016年、貞光町で行われたYouTUBE動画が残っています。


上の動画は「わらぼて」で搗くのではなく「石づき」でおこなっています。美馬町脇町、古作の記録ではこれを「亥の子石」と呼び、祠の御神体として祀っていたそうです。

で、このときに歌われる「おいのこの歌」なんですが、全国ベースでいくつか紹介いたしますと。

【岡山県津山市西吉田地区】

亥の子 亥の子 亥の子の夜さ 
祝(いお)うた人は 四方の角(すみ)に 
蔵建て並べて 
福の神 どし込め どし込め 
上山様祝うぞ わい 

 上記は、家人が出てきて祝った場合の歌で、
 下記は、家人が不在等で祝わなかった場合の歌。

亥の子 亥の子 亥の子の夜さ 
祝わん者は 鬼生め蛇生め 
角が生えた子生め 
じじいとばばあ どし込め どし込め

【広島県福山市・新市町金名地区】

亥の子の宵(えー)に祝わんものは 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め (せんせんせんよ)
一つ 鵯は 栴檀の実を 祝え (せんせんせんよ)
二つ 鮒子は 水の底 祝え (せんせんせんよ)
三つ 蚯蚓は 土の底 祝え (せんせんせんよ)
四つ 嫁御は 姑の髪 祝え (せんせんせんよ)
五つ 医者殿は 薬箱 祝え (せんせんせんよ)
六つ 娘は 化粧箱 祝え (せんせんせんよ)
七つ 泣き子は 親の乳 祝え (せんせんせんよ)
八つ 山伏は 法螺の貝 祝え (せんせんせんよ)
九つ 紺屋は 藍瓶(やがめ) 祝え (せんせんせんよ)
十で 豆腐屋は 豆腐籠 祝え (せんせんせんよ)
亥の子の宵(えー)に祝うた者は 四方へ蔵建て 繁盛せ 繁盛せ


では、阿波国内ではいかがでしょうか。

【阿波町】

お亥の子はんの夜さ、餅くれん家は、味噌も醤油もみな腐れ

  女の子はこれに続いて

お亥の子はんにい祝うてつかはれ

  と言ってまわった。

【川島町】

お亥の子はんの晩に、餅くれん家は、箸で家建てて、牛ぐそで壁塗って、馬ぐそで屋根葺いて、風が吹いたらすぐこけた

また

 一に俵ふんまえて
 二はにっこり笑わせて
 三に酒を造って
 四つ世の中ええよう
   五ついつものごとくして
   六つ無病息災に
 七つ何事ないように
 八つ屋敷を買いひろめ
 九つ小倉を立てならべ
 十でとっくり納まった、納まった

 ヘイトーヘイ ヘイトーヘイ


また、この行事については宮中においても、玄猪(げんちょ)という呼び方で行われていたことが知られております。

『国史大辞典 1』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1979)

「亥子(いのこ)」 異称を列挙する中に「玄猪」という名前もある。「旧暦十月、上の亥日に餅を食べると万病をのぞくという。古代中国の俗信によるもので、平安時代(寛平以前)から行われた。朝廷では内蔵寮が猪の子型に作った餅を進める儀があり、一般にも行われた」とあり。


『古事類苑 1 天部 歳時部』(吉川弘文館 1969)

玄猪ハ、ヰノコト云フ、十月中ノ亥日ニ行フ、後世幕府ニテハ、上ノ亥日ヲ以テセリ、此日貴賤共ニ餅ヲ製シ、亥子餅ト稱シテ以テ之ヲ祝セリ、朝廷ニテハ始メ内藏寮ヨリ獻ゼシガ、後ニハ丹波國野瀬里ヨリ獻ズル事トナレリ


『旧儀式図画帖』より

「天皇がツクツクの作法をする準備が行われる」との説明です。
「御ツクツク議 云々」とあります。

非常に簡単に言えば、亥子(いのこ)餅を搗き、天皇自らが餅を配るという次第です。
(簡単すぎるかwww)

詳しい次第はこんな感じです(一部)。

おいのこさんの特徴をとしては
一 十月第一の亥の日を祝う
二 この日に炬燵を空ける
三 柚子と二股大根は必ず供える
四 亥の子の夜は畑もの、なり木物を盗んでも構わない

などが挙げられます。

さて、
ここで出せない(出してはいけない)資料をこっそり出してみますと

はい、失礼いたしました。
掲載の許可もなーんにも取ってませんので、ギリこんな形です。
これが何かといいますと「お亥の子神」なのです。
阿波の某家に伝わる掛け軸です。
分からないように加工させていただいておりますが、右手に剣を構え「イノシシ」に跨がった神像です。前には二股大根が供えられております。

ワタクシは想像もしてませんでしたたが、「おいのこさん」は人の形を持つ神様であったのです。他の地域(県外含む)でこのようなものが残っているのかは存じ上げません。
ただ、ワタクシはみたことがありませんでした。

もし人の姿を持つイノシシの神様だったとしたら、ふつーは
こーゆー姿を想像するじゃないですか(あ、しない?)。

で、人の姿をしている事も含め気になるところとして、この神様は「タタリ神」ではないかということです。
前述の「おいのこさんの歌」を見直してください。

【阿波町】
  お亥の子はんの夜さ、餅くれん家は、味噌も醤油もみな腐れ

見ての通り餅をくれない家に対して祟ると脅している歌ですね。

また、これも前述の広島県福山市・新市町金名地区においては

亥の子の宵(えー)に祝わんものは 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め (せんせんせんよ)

と凄まじいばかりの呪詛を歌っております。
「玄猪」の行事において天皇が手づから亥の子餅を配るのは、あるいは配らなくては祟られるからではないかとも考えられるのではないでしょうか。
天皇自らが呪詛封じを行うほどの神様とは。

いやいや、人型をしてイノシシにまたがっている神様なのですが。

さて、ここからはワタクシの妄想レベル爆上がりといたしますが。
この「おいのこさん」は大黒天と同一とも言われており。

大黒さんという人は 一で俵を踏んばって 二でにっこり笑うて 三で盃差しおうて 四つで世の中良いように 五つで泉の湧くように 六つで無病であるように 七つで何事ないように 八(やあ)つで屋敷を廻り打ち 九つ米蔵おん建てて 十でめでたく祝(いお)うた(大分)

♪大黒さんと言う人は 一に俵ふんまえて 二ににっこり笑って 三に酒を造って 四つ世の中よいように 五ついつでもニコニコ 六つ無病息災に 七つ何事無いように 八つ屋敷を広めて 九つ紺屋をおっ建てて 十でとうとう福の神(静岡・手まり歌)

これらは「大黒舞」の歌ですが
川島町の
 一に俵ふんまえて
 二はにっこり笑わせて
 三に酒を造って
 四つ世の中ええよう
   五ついつものごとくして
   六つ無病息災に
 七つ何事ないように
 八つ屋敷を買いひろめ
 九つ小倉を立てならべ
 十でとっくり納まった、納まった
 ヘイトーヘイ ヘイトーヘイ

の歌と出自が同じであることが見られるのではないかと。
大黒天となれば
大黒天(だいこくてん、梵: Mahākāla、[マハーカーラ]、音写:摩訶迦羅など)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの。七福神の一柱。

さらには神仏習合により「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を大黒天と呼ぶ場合もありますです。

日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

で、オオクニヌシとイノシシ絡みの神話で思い出すのが。

大穴牟遅神(オオナムヂ、後の大国主)の兄神たちである八十神(ヤソガミ)は因幡国の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚するが、ヤガミヒメはオオナムヂと結婚するといったため、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことにした。オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、「赤い猪がこの山にいる。我々が一斉に追い下ろすから、お前は待ち受けてそれを捕えよ」と命令した。オオナムヂが待ち構えていると、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がし落とし、それを捕えようとしたオオナムヂは石の火に焼かれて死んでしまった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


という段ですね。
この逸話より大国主の祟りを収めるため毎年、十月第一の亥の日に亥の子餅を搗き配るという行事が行われるようになった…
という妄想です(笑)

ただ、書けないんですがこの神像が出てきた場所を考えると、あながち…
と言うのは、ワタクシの関係者なら分かっていただけるのではないかと独りごちております。

日本歳時記を繙けば
按ずるに、月令廣義に、五行書を引ていはく、十月亥日餅をくらへば、人をして病なからしむ、又錦繍萬花谷にもかくしるせり、されども其故をしらずいぶかし、右にいへるごとく、豕の多く子をうむによりて、かれをうらやみ、婦人女子のたはふれになし來りし事なるべし、猶ことはりしれらん人に問べし

などとあり、中国の五行から来たように思うけど誰も謂れを知らないよ。誰かよく知ってる人に聞いてね。
なんてことを言ってるほど謂れがわからない行事なのです。
ちなみに阿波國で大国主命(別名含む)を祭神とする神社は八鉾神社をはじめとして山のようにありますので略させていただきます。
ただ、神像の掛け軸が出てきたことで考察の余地が出てきたので、ちょっと書いてみました。
終わり


さらには今までワタクシの調べてきたことの内、どえらい一致があるのですが、書けば間違いなくあちこちで即時パクられるのが見えてますので、プライベート講座の時だけ限定で話そうかなと思ってます。