2018年6月24日日曜日

倭の神坐す地(6)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)

では、「大物主」とは何を表しているのかと考えた時「ワタクシ」めが思いつくのは「物部の主」であったのです。
「大国主」は「国の主のなかのトップの序列」でありましょう。
ならば「大物主」とは「物部の主の序列トップ」と考えると辻褄が合うように思いませんか。
仮に「そう」であったと仮定して論を進めてみますれば「物部氏」の系譜は下図の通り
饒速日命から「宇摩志麻治(遅)命」以降と続く系譜ですが、よく見てみれば、阿波に関わりのある名前が散見されます。

まずは鴨島町の五所神社
別名、「瑜伽(ゆうが)神社」。
鎮座地 徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921
御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 
合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命


「麻植郡郷土誌 」には
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

さらには「阿波国続風土記」麻植郡の項を参照いたしますれば

麻殖塚村神麻山俗に鴻の山と云う。昔は綜麻杵神社と云いしと云う 是も忌部神社と云うなれ共、此の神名は斯くはあらじ
憲明案じて日く、此の神は伊香色雄命の親神ならんかと、思いけらしもせめ 是は申し出甚だ正しきなり
その子細は天日鷲の神社と云わずして、正しく云めり。
 とあり、正しく「大麻綜杵命(あるいは「大綜杵命」)」を祀ってあることが確認できます。

続いて
 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地  徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神  伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと)
     伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
合祀   天照大神 事代主大神
「伊加加志」を社名・御祭神とする式内社は、全国でここ一箇所のみ。
「事代主大神」が合祀されていることにも注意してください。


主祭神の伊加賀色許賣命(いかがしこめのみこと)
伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。wikipedia

また、伊加々志神社より程近い「山崎八幡宮」
境内社「恵比須神社」の傍に

「伊加加志神社」が鎮座し「伊迦賀色許雄命」が祀られております。


このように物部の系譜に現れる「大綜杵」と「伊香色謎(伊加賀志許賣)」「伊香色雄(伊加賀色許雄) 」を祀る神社が存在し、方や、日本唯一の式内社であるという事実があるのです。
ただし、「大綜杵」と「伊香色謎」は阿波において「忌部」とされておりますが、これは「物部」=「忌部」ではなく二つの氏族の接点が何らかの形で阿波に存在したと個人的には考えております。
氏姓制度の成立以前からある程度は「◯◯部」と呼ばれていた氏族はあったものの、「甲子の宣」「八色の姓」制定後、はっきりとした氏姓が与えられたことにより「物部」「忌部」等の「部」が確定したものであって、それ以前の区別はもっと緩やかな者であったと思われます。

さて、大阪の枚方市に「意賀美神社」という神社が鎮座しておりますが。

意賀美神社 
鎮座地 枚方市枚方上之町1-12

祭神
高龗大神(たかおかみのおおかみ)
素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)

創建  創建年代は不詳。開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していたと伝えられている。




この「意賀美神社」の境内摂社に


なんと「琴平神社」があり
祭神は「大物主神」となっております。
「開化天皇の御代に当地の豪族伊香色男・伊香色女の邸内に鎭座していた」との由緒を見て、どちらが本家だとかいうのは置いといて(笑)「琴平」「大物主」であることが分かっていただけるのではないでしょうか。

さらには、阿波市市場町伊月字宮ノ本に鎮座する
「延喜式式内社 事代主神社」
御祭神 事代主命 大國主命
「阿波志」に「事代主祠、延喜式亦小祠と孚す伊月村に在り事代明神と称す」とあり、「増補古城記」の伊月城の項に「当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。 御子残って中川・郡・守等是その神孫なり」と記している。 徳島県神社誌より
「出雲国事代主命当国に移り給ふとき」を見て「やっぱ、事代主は出雲じゃねーか」とか考えないように。
何度も書いてますように「事代主は一人じゃない」のですよ。
(次回でもうちょっとだけ説明できるかな?)


これも「阿波国続風土記」を確認いたします。

ここにも「事代」を「琴代」と称されていたことが記載され「事代主」も「大物主」の系譜に連なることの一端が見えるように思われます。
穿った見方をすれば「琴平」は「事平」つまり「物事を平らげる」役割、「琴代」こと「事代」は「物事を代理する」役割だったと考えれば、その地位についても、言わず推測できるのではないでしょうか。
(上図、左半分の系譜が「ひじょーに」気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここでは突っ込まないように)
次回でまとめようかなーって、希望的観測。
続く

あー疲れた