2018年12月31日月曜日

倭の神坐す地(10)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)
倭の神坐す地(9)
前回よりだいぶ間が空いてしまいまして申し訳ございません。
いろんなところから「はよ書け」などの脅し激励をいただいておりましたが、諸般の事情で全く書くことができませんでした


さて、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」をもう少し見ていきたいと思います。
愛媛大学の川岡教授らによれば、この「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」については他の多くの「河野系図」よりも史実を反映している可能性が高いとされており、この冒頭部は物部氏系の流れをくむ形で書かれており、現在では物部氏系に属するとする見方が有力視されているそうです。



天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖ト号ス

二代 天山命ヲ生ム

三代 宇摩志麻治命
と続き
四代 味饒田命(うましにぎたのみこと)
五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)  
六代 出石心命
七代 大綜麻杵命

八代 欝色雄命
九代 伊香色雄命
と続くわけですが、上の図、五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)の部分を見ていただきたいのですが

神八井耳命(かんやいみみのみこと、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
wikipedia
この「長狭国」については太田亮氏の 『姓氏家系大辞典』を確認してみれば

安房国の東部であり「奈加佐」と同じとあります。
「長狭」は「長」であり、「奈加佐」は「奈佐」であると容易に想像できるではありませんか。無論、安房国の東部といえば忌部氏の進出した地であることは論を挟まないでしょう。
さらに「多氏の祖」であるという部分を調べてみれば
多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。
日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」意富「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。
皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。

この部分「意富」(おお、おほ)は阿波国「宅宮神社(えのみやじんじゃ)」の比定社である「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」を連想することも容易でしょう。
ちなみに
宅宮神社(えのみやじんじゃ)は徳島県徳島市上八万町に鎮座する神社である。
創祀年代不詳である。『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。
と式内社の中でも異彩を示す神社でもあります。

写真は「宅宮神社」


七代「大綜麻杵命」については、度々、幾度も記載してきました。
『先代旧事本紀』では、大綜杵命は伊香色謎命の父とされています。

先代旧事本記の記載では
五世孫 鬱色雄命
此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 拜為大臣 奉齋大神
活馬長沙彥妹 芹田真雅姬為妻 生一兒
妹 鬱色謎命 此命 輕境原宮御宇天皇 孝元 立為皇后 誕生三皇子
則 大彥命
次 春日宮御宇天皇 開化
次 倭姬命是也
春日宮御宇天皇尊皇后曰 皇大后 磯城瑞離宮御宇天皇 崇神 尊為 太皇大后
弟 大綜杵命 此命 輕境原宮御宇天皇御世 孝元 為大禰
春日率川宮御宇天皇御世 開化 為大臣 則皇后 大臣奉齋大神 高屋阿波良姬為妻 生二兒
弟 大峰大尼命 此命 春日宮御宇天皇御世 開化 為大尼供奉 其大尼之起,始發此時矣
六世孫 武建大尼命 鬱色雄大臣之子 此命 同天皇御世 開化 為大尼供奉
孫妹 香色謎命 大綜杵大臣之子伊 此命 經境原宮御宇天皇御世 孝元 立為皇妃

誕生 彥太忍信命也
天皇崩後 春日宮御宇天皇 開化 即以庶母立為皇后 誕生皇子
即是,磯城瑞籬宮御宇天皇也.崇神
崇神天皇御世 尊為 皇太后 纏向天皇御世 垂仁 追贈 太皇太后
弟 伊香色雄命 大綜杵大臣子 此命 春日宮御宇天皇御世
となっており

これも今まで何度も記載してきた『麻植郡郷土誌』によれば、
御所神社「祭神大麻綜杵命を祀る」
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」

写真は御所(五所神社)


といくつかの接点を確認し、さらには五代 神八井耳命(かんやいみみのみこと)との関係を窺える神社が存在するのです。

 「伊豫王子大権現」


この「号伊豫皇子」の部分ですね。
神八井耳命(かんやいみみのみこと)の名を冠した神社であります。
実際にこの場所地名、字名自体が
「徳島県徳島市渋野町伊予王子」となっております。
渋野丸山古墳、渋野天王の森古墳のすぐ近くです。

とは言うものの、徳島県神社誌にも記載は無く、関係ありそうなのが
「阿波國勝浦郡村誌」渋野の項
越智通春墓 本村北方字 伊豫王子谷ノ田圃ノ内ニアリ
碍碑石高サ二尺茸苔石ヲ蝕ス傍ニ梅ノ一樹アリ
古老云 通春ハ伊豫人ニシテ河野四良太夫ト稱ス
民部太丈通久之子 元亀元年軍敗シ 本郡中角村ノ城主 中角河内双(?)ハ
母ノ実家ナルヲ以テ来リテ居ル 后本村ノ新開右京進ノ招ニ応シ来リ同居ス
元和七年正月七日没ス 其ノ末孫本村ニ存ス

ただし、越智通春、永享元年(1429)泉州堺で戦死というのが通説のようで、なぜ渋野に墓があるのかは全く解っていないことを追記しておきます。

それと、もう一つワタクシが伊豫王子(皇子)と関係があるのではないかと考えておりますのが神山町阿野字神木(じんぎ)の伊豫神社
下の「神山地名考」の記事にもありますように神社庁でも由緒等が分かっていない、曰く付きの神社です。



無論「徳島県神社誌」にも記載はありません。
ただ、愛媛県伊予郡松前町の「伊豫神社」の御祭神などから類推するに、あるいは
(以下略)。
ちなみに「伊豫神社」の御祭神は「彦狹嶋命」、配祀「愛比賣命」「 伊予津彦命」「 伊予津姫命」「 大日本根子彦太瓊尊」「細媛命」「 速後神命」「 伊予親王」「 藤原吉子」となっております。

つまりは「多氏」(凡直(おおしのあたい)に見られるように粟凡直の系譜)の流れの元に、物部の系譜と忌部の系譜が付いたり、離れたりを繰り返しているようにも見えるのです。
いわゆる「集合離散」(ドラマ)ってやつですね。
ただし完全にイコールじゃないところがミソなんでしょう。

さて、分かりにくさに輪をかけまくってきましたこのシリーズ、次回で一旦まとめようと思います。
力尽きなければ、書けると思いますので少々お待ちくださいませ。

あ、と、良いお年を🙏

写真は、美馬の山中で出会った子イノシシ

2018年11月3日土曜日

倭の神坐す地(9)

倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
倭の神坐す地(7)
倭の神坐す地(8)

言い訳なしで続けます。

前回ちょっと出てきました、太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963 を確認してみましたら、結構面白い内容がありましたので、ご紹介しておきます。




国造本記に「波多国造に瑞籬(みずかき)(崇神)朝の御世、天韓襲命・神教に依りて、国造に定め賜ふと云う」と載せたり。蓋し韓襲は長国造の祖韓背と同人にして、観松彦色止の裔と考へらる。したがって長、都佐(土佐)の両国造等と同族にして、賀茂、三島族の経営せし国なるべし。

賀茂はいいとして「三島族」とは?、と思っちゃいますよね。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)


大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。




溝咋神社(みぞくいじんじゃ)


創建は不詳。社伝では、第10代崇神天皇の頃に創建されたとしている。当社は祭神節にあるように三島溝咋耳一族を祀っており、『古事記』『日本書紀』の諸伝承との関係が指摘される。
『古事記』神武天皇段では、大物主神が勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。
『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘と記されている。
これらの文献を踏まえた上で、さらに当社の境内社には大物主神でなく事代主神が祀られていることから、事代主を奉祀する鴨氏と三島勢力との交流が指摘される。実際、周辺には三島鴨神社・鴨神社といった神社や、鴨村・鴨林といった地名が残り、鴨氏の勢力がうかがわれる。後世になってこの交流が記紀神話に再構成され、出雲系の神が上記の様に強調されたと考えられる。また、三島溝咋耳一族の実態については明らかでなく、三島県主との関係を指摘する説はあるが定かではない。溝は「水」を象徴し、耳は「長」を表すことから、安威川水系の用水に関わる氏族と考えられる。

「溝咋(みぞくい)」については上記の説明にもあるように、一般的には「溝」は水を咋」は杭を顕し水利を司った氏族であるとの見方であるようですが、考えてみてください「用水に関わる氏族」ってなんなのでしょうか?
用水の工事ばっかりやってる氏族?
そんな氏族があったのでしょうか?
無論、あったとしてもおかしくはないでしょうが、それならばどこの治水工事を行ったとか、どこの洪水の時に活躍したとかの伝承がどこかにあってもおかしくないと思うのですが、それも見当たらない。
そこで、一つの考え方を提示いたします。
参考とするのは大阪市立大学講師、辻本 正教氏の「鳥から読み解く「日本書紀・神代巻」

要約はご勘弁願いたいのですが、要旨としては、日本書紀の神代巻に現れる神名は鳥のトーテムで説明がつくということなのです。
 イザナギ・イザナミはセキレイに交合を倣います。
「時に鶺鴒(にわくなぶり=セキレイ)あり、飛び来って其の首尾を揺す。二神見そなはして之に学ひて、即ち交の道を得つ」ですね。
例えば神代巻第1段冒頭の「葦牙(あしかび)の如」とされる神の「牙」は鴉の嘴(くちばし)を示している。
「迦毛大御神(かものおおみかみ)」とも呼ばれる「阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神」はアジガモをトーテムとする神である。
等々、
ある時期の一つの系統の氏族が「鳥」のトーテムを持って自らの出自を示したという考え方はある意味納得できる部分が多いように思われます。
その考え方を延長とするならば、「溝咋(みぞくい)」の「咋」は「クグイ」ではないでしょうか。

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ガンカモ科の鳥

鵠 読み方:クグイ(kugui)
ハクチョウの異称
鵠(くぐい)をコウノトリの古語とする説もありますが、これはどちらでも構わないでしょう。
この考え方に立って考えた時、鳥をトーテムとして持つ一族が日本建国に大きな役割を果たしてきたことと、そのルーツの一部が(敢えてこう書きますけどね)阿波に深く繋がっていることを認識していただきたいと思うのです

併せ、こちらもお読みください。


必ず全部ご覧ください。
ボクの書いてることと違うことが書いてあるのは当たり前、神代の事なんて「群盲象を撫でる」如きでありまして見解が全く同じなんてありえません。
ただ共通する部分が...ね(以下略)。

さて、話がずれてしまいました。
では「三島」とはなんぞや?
伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社、高槻の三島鴨神社が「三三島」と呼ばれた。
とのことであります。
まずは上で書いた、伊予の大山祇神社

大山祇神社
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。

祭神
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)
別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父。
元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている。
wikipedia

次に伊豆の三嶋大社
三嶋大社
御由緒
御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
御祭神
大山祇命[おおやまつみのみこと]、
積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、
御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。
三嶋大社ホームページより

そして摂津の三島鴨神社
三島鴨神社

延喜式神名帳にも記載されている、日本で最初の三島神社で、大山祇神と事代主神を奉る。仁徳天皇の頃、百済より大山祇神を迎えて淀川鎮守の社を造ったのが始まりとされ、伊予と伊豆の三島と並び「三三島」と呼ばれる。
高槻市ホームページより

これら「三三島」の関係を見るにwikipediaの大山祇神社より年表を転記いたします。
年表
・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)

・大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)

・霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
・養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)

・仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
については下図「釋日本紀」より

「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。
此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」
つまり、伊豫國風土記では、仁徳天皇の御宇に摂津の三島江に出現し、伊予へ移ったとされているわけです。

さらに
・推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
については下図『三島宮社記』を参照願います。



 つまりは、摂津から大三島に移りさらには今治に移ったと。
ならば摂津の前は本当に百済であったのか?
摂津の三島鴨神社の御祭神は「大山祇神」「事代主神」の二柱となっていることと、あるいは「津の國の御嶋」が「三島鴨神社」ではなく西宮神社(大国主西神社)であったとすれば、御祭神は「えびす神」つまり「大国主」であり「事代主」。
「大山祇神」と「事代主神」の混同が考えられるのではないでしょうか。
ちなみに伊豆の三嶋大社についての研究者はこの説を採っており

この「事代主事跡考」を読むと、

伊豫國三嶋より伊豆へ大山祇神を祀った(御祭神は「大山祇神」と「事代主神」の2説ある)のは「いみじき謬りなり」だそうです。


逆に摂津の三島は伊豆の「事代主」が通ったため「三嶋」を冒称したのであると結論づけているのです。

仮に、「津の國の御嶋」は伊豆から移ったものであり、御祭神が「事代主」であるならば以前
まとめ:大宜都比売命の裔(12)
まとめ:大宜都比売命の裔(15)END
などでも、さんざん書いてきたように、大宜都比売命こと「阿波咩命」「阿波波神」「阿波神」が「事代主命」の本后として海を渡って赴いた地が 東京都神津島の「阿波命神社」であり、そこから安房神社、三嶋大社へ遷座されたことは明白です。
さらに言えば、この「事代主」は阿波から赴いた事代主であることも確実だと考えるのです。
話がくどくなりすぎたかもしれません。
要は「三島族」は阿波から伊豆の「御島」に渡った「事代主」と「大宜都比売命」の一族のことを示し、鳥の名をトーテムとして冠したことが言いたかったのです。
なので、「三島溝咋」は「御島」から渡ってきた「溝(水際)」の「咋(くぐい、白鳥)」を冠する一族であったと考えるのです。

さて、話は唐突に変わりますが「伊豫國」に「河野氏」の一族が現存しております。

河野氏(こうのし/かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる。第22代当主河野通清以降は「通」を通字とする。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書『予章記』と『予陽河野家譜』などではその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
wikipedia

いわゆる「越智氏」を祖とする一族でありますが

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる。5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その内一つ「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている(『国造本紀』)。
wikipedia

その系譜として『予章記』『予陽河野家譜』などが知られておりますが、ここに門外不出とされた「天徳寺所蔵 伊予国造家 越智姓河野氏系譜」なるものの存在を知ることができました。
いわゆる「越智系図」などでは
上図のように孝霊天皇から始まる系図として記されておりますが、「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」においては


「天御中主大山祇神之後 天照皇太神曾孫 初代 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖 ト号ス」
と「饒速日命」を祖とする系譜として記されております。

21時から3時まで6時間ぶっ通しで書いたら、すっごく疲れたので、このあたりで

続く


2018年9月17日月曜日

倭の神坐す地(8)

長らく間が空いてしまいました。
皆様方、こう言いたいのでしょうが押さえてくださいませ。



倭の神坐す地(1)
倭の神坐す地(2)
倭の神坐す地(3)
倭の神坐す地(4)
倭の神坐す地(5)
倭の神坐す地(6)
の続きです。
長らく間が空いてしまいましたので、少々前回の復習を



都佐国造
志賀ノ高穴穂ノ朝ノ御代。長ノ阿比古ノ同祖三島ノ溝杭ノ命ノ九世ノ孫小立ノ足尼定テ賜フ國造
粟國造
軽島豊明御世。高皇産霊尊九世ノ孫千波足尼定賜フ國造。
長國造
志賀ノ高穴穂朝ノ御世。観松彦色止命ノ九世孫韓背足尼ヲ定賜フ國造。

つまり

三島溝杭 ーーー  都佐国造 小立の足尼(九世孫)
          長の阿比古(同祖)
観松彦色止命 ーー 長國造 韓背足尼(九世孫)

このことより、三島溝杭耳の名は「観松彦色止」で、長ノ阿比古の名は「韓背足尼」との結論となっているわけです。
さらに、論を進めれば初代の波多國造は「天韓襲命(あめのからそのみこと)」であるのですが


※乙巳の変によって国郡制が定められる前には、現在の高知県西部に『波多国』が存在していた。しかし、律令制が布かれると、波多国は都佐国と合併されて土佐国とされた。

太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年によれば「天韓襲命(あめのからそのみこと)」は事代主の末裔(下画像はwikipediaより)であるので

これも含めて考えれば

長阿比古=三島溝杭の後裔=韓背足尼=長公=積羽八重事代主命の後裔
三島溝杭耳=観松彦色止
天韓襲命=観松彦色止の後裔=事代主の後裔

ムチャややこしいですけど、よーく見てください。
上記より三島溝杭と韓背足尼の祖神の事代主神(観松彦色止)とは同神ということになりませんか?
つまりは

三島溝杭=観松彦色止=事代主神

なのではないでしょうか。
何度も言ってたように「ある時期の」事代主神ですよ。
(注)これは一説であり確定した論ではありません。いわゆる「異論上等」であります(笑)

写真は、徳島県佐那河内村御間都比古色止命を祀る、御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)

ちなみに


上図、全国の「溝杭」姓の分布を調査したところ徳島県が最も多いという結果が出ておりますが、これは意味深でしょう。

では、「もし仮に」、三島溝杭が「観松彦色止」であり「事代主神」であったならば、どういうことになるのでしょうか?

まず「三島」はよく言われるように「三島」一族のこと。新撰姓氏集でも、三島氏は確認できます。
「溝杭」は、よく「溝 (池や川) をつくる者」といわれますが、個人的には違うと思います。

つまり「三島溝杭耳」を言い表すならば「三島」一族の「溝杭」
1.三島溝杭(三嶋溝咋)は「鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)」であり、「玉櫛媛」の父であります。
2.「玉櫛媛」は大物主神の妃であり、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母であります。

ただし、事代主神は三島溝杭命の娘の玉串姫を八尋鰐に化身して娶り、その子が神武天皇の妻である「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)であるので事代主神と三島溝杭が同神であってはおかしいはずなのです。

これについて考えられることとして、注意すべきは「三島溝杭耳」なのか「三島溝杭」なのか?
「耳」は族長の意味でありますので、この呼称が着くと付かないとでは意味が違うように思えます。
また、「三島溝杭」についても個人を表すのではなく、役職を表すように思えます。
そうでなければ「三島溝杭耳」と呼ばれる理由がないでしょう。
ちなみに「ミミ」のつく神名

古代史俯瞰 by tokyoblogより引用させていただきました。

つまりは、「三島溝杭」は一族、「三島溝杭耳」は首長であると言いたいのです。
これも一つの考え方としてね(笑)
では「三島」とは何なのでしょうか?

タイトルの「倭の神坐す地」から少々離れてしまった感がありますが、ここからが正念場、今が胸突き八丁だと自覚しております。
ちょっと短くて申し訳ありませんが、次回はそうお待たせしないつもりです。


続く


2018年8月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(追記:安徳天皇女帝伝説)

えー、本当ならば「倭の神坐す地(8)」を上梓させていただく順序ではございますが、ちょっと、いや頗る行き詰まっておりまして、苦し紛れの現実逃避で今回の記事をアップさせていただきます。😰😰😰


麻植の系譜:願勝寺編(7)
あたりの追記となります。

源平合戦図屏風より

さて、皆様方は安徳天皇が女性だったという説があるのをご存知でしょうか?
ますは「愚管抄」より
※『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。wikipedia

其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ厳嶋ノ明神ノ利生也。コノ厳嶋ト云フハ龍王ノムスメ也ト申伝ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ。我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ帰リヌル也トゾ。コノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覚ユ。
愚管抄 第五巻


天台座主慈円、愚管抄(上記)にて曰く「安徳天皇は平清盛の請願により厳島明神(厳島神社)が化生(けしょう)した存在だから竜王の娘であり、海の底へ帰っていったのだろう」
という記載で「竜王の娘」と明記されているところから、女性ではなかったかという説が出てきたわけです。

また、平家物語においても

平家物語 巻第三 四(三六)公卿揃
今度の御産に勝事数多あり  まづ法皇の御験者  次に后御産の時御殿の棟より甑を転ばかす事ありけり  皇子御誕生には南へ落し皇女誕生には北へ落すをこれは北へ落されたりければ人々  いかに  と騒がれて取り上げ落し直されたりけれども  なほ悪き事  にぞ人申しける

ここには安徳天皇誕生の際の模様が描かれていますが、平徳子が皇子(後の安徳天皇)を出産した記事に続いて、「今後の御産に勝事(驚くべきこと)あまたあり」として、異例の出来事を列挙しています。
その二番目に、宮廷では御産のとき、米を蒸すのに使う土器である甑(こしき)を御殿の棟から落とす習慣があり、皇子誕生のときは南側、皇女のときは北側に落とすのが例となっていたところ、北側へ落としたため、皇女出産であると人々が騒ぎ出したので、拾い上げて今度は南側に落としましたが、「悪しき御事に人々申しあへり」と記されています。
男女により落とす方角が決まっているのを、誤って逆の方角に落としてしまったとのことですが、天皇後継出産の儀式を「間違うはずなどありません」よね。

また
平家物語 巻第三 一(三三)許文
六月一日中宮御着帯ありけり  仁和寺御室守覚法親王急ぎ御参内あつて孔雀経の法を以て御加持あり  天台座主覚快法親王寺の長吏円慶法親王も同じく参らせ給ひて変成男子の法を修せられけり  かかりしほどに中宮は月の重なるに随つて御身を苦しうせさせ給ふ  一度笑めば百の媚ありけん漢の李夫人昭陽殿の病の床もかくやと覚え唐の楊貴妃梨花一枝春の雨を帯び芙蓉の風に萎れ女郎花の露重げなるよりもなほ労しき御様なり

この段において「変成男子の法」が執り行われております。
この「変成男子の法」、密教の秘法でありまして、胎内の女児を男子となす術なのだそうです。
正式には「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)変成男子法(へんじょうなんしのほう)」と言います。

烏蒭沙摩明王
いっさいの不浄や悪を焼きつくす霊験のある明王として,死体や婦人の出産所,動物の血の汚れを祓う尊としての信仰が主流で,真言宗や禅宗では東司(とうす)すなわち便所の守護神としてまつられている場合が多い。また密教では烏蒭沙摩変成男子(へんじようなんし)の法と称し,出産前に胎内の女児が変じて男子となる秘法として貴族社会に信仰された。
だそうです。
女人が成仏できる、できないの仏教説は置いて、天皇の後継は男子でなければならないとの当時の思いより、この秘法が執り行われたにもかかわらず、生まれたのが女人だったため上記の「甑を倒す方角」云々の段になったと思われます。

さて、拙ブログでは、安徳天皇が壇ノ浦で身代わりを立て、入水せず阿波に落ち延びたとの伝承について何度か書いてきました。

阿波の國、阿南市に「十八女町」という地名が残っています。
「さかりちょう」と読みます。

十八女町
十八女町(さかりちょう)は、徳島県阿南市の町名。2014年3月31日現在の人口は141人、世帯数は45世帯。郵便番号は〒771-5178。
阿南市の北西部、那賀川の左岸に位置し、北西は勝浦郡勝浦町、南は水井町、北は加茂町、北は深瀬町に接する。
石灰岩埋蔵量620万tの十八女鉱床があり、月産は500t。南境から南境を流れる那珂川沿いを徳島県道19号阿南鷲敷日和佐線が走り、加茂町を結ぶ十八女大橋は昭和55年12月に完成した。一帯は東山渓県立自然公園に属する。
寛保神社帳によれば、百姓新左衛門の先祖である日下但馬守が18歳の姫を守護して当地に落ち延びて開発を行ったとする伝承があることから、十八女という名が付いたという説がある。
wikipedia

この「18歳の姫を守護して当地に落ち延びて開発を行ったとする」姫が「安徳天皇」であったとの伝承があるのです。
それが、この「皇子神社」

伝承の記載は下図「加茂谷村誌」より


「安徳帝は姫宮でござった。」との記載を見ることができます。

伝説によると安徳帝を奉じて平家の一族がこの山の中に落ちて来、最初は南の方 水井に向うた山の麓であった。
今の地名を王屋というここを仮の住居とせられた。

中略

そして安徳帝は御齢十八歳でおかくれになられた。よってこの村を十八女村という。

中略

又王子を皇子と更めたのが明治二十七年四月十九日であった。

さあ、どうしましょう「麻植の系譜:願勝寺編(7)」に書かせていただきました。
「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などから見れば、安徳天皇は

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

とあり、「御齢十八歳でおかくれになられた」のとは少々相違が出てきています。
まあ、単純に「安徳天皇、阿波にて生存説」の延長として考えれば、18歳までこの地で隠棲していたと考えるのが妥当でしょう。
それにしても、阿波に安徳天皇伝承の多いこと。
「何もない」と考えることが困難ですよね(笑)。

さて、ここが「十八女」の地。





 さて、安徳天皇はこの地に居たや、否や。
社殿は黙して語らず、ですかね。

というわけで、番外編でございました。
次回は「倭の神坐す地(8)」に戻るつもりなんですが、書けなかったら逐電するかも(笑)。