2015年5月6日水曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(6)追記

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(5)
の追記です。
連休中に書き上げとこうと思いましたとさ(笑)

1. 勘注系図と阿波との関係
海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。

と言うことで、どうして丹後、海部氏の系図と阿波が関係あるんじゃい、と仰るでしょうが、この系図、第14世までは『旧事本紀』の「尾張氏系図」と共通する神・人名が見られることはよく知られております。
そして、松浦長年による「阿波國続風土記起稿」において「凡直(おおしのあたい)」「粟凡直(あわのおおしのあたい)」や「海部氏」は海神にゆかりがあり、「尾張連(おわりのむらじ)」「凡海連(おおしあまのむらじ)」「安曇連(あずみのむらじ)」と同祖であると断定しております。
無論、「阿波國続風土記」を脱稿した際、籠神社の「勘注系図」の存在を知らなかったであろうことは想像に難くありません。
にもかかわらず、この記載。

継体天皇御巻は、まだ確認しておりませんが、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」「海部氏」、「尾張連(おわりのむらじ)」「凡海連(おおしあまのむらじ)」「安曇連(あずみのむらじ)」が同祖ならば
「仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)」
の内容にも多少なりと信憑性が増そうというものでしょう(笑)

2. 「開化天皇」について
まあ、これはこじつけですけど(笑)和風諡号の「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、「若倭根子日子大毘毘命」はともかく「開化」天皇って「開いて」「化した」ってことですよね。
卑弥呼=天照大御神ならば天岩戸が開いて、男王が天皇と化し.....いや、うまく当てはまりすぎでしょう(笑)

3. 崇神天皇について
開化天皇の御子「崇神天皇」が「神武天皇」と同一人物であるとか、初代天皇ではないかとの説がありますが、ワタクシはそう思いません。
欠史八代の天皇もなんらかの形で実在したと思っております。

日本書紀 崇神天皇条
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」
即位4年冬10月23日。天皇は言いました。 

「わたしの皇祖や諸天皇たちが宸極(アマツヒツギ=皇位のこと)についたのは、自身のためであろうわけがない。人神が増えるように整え、天下を治めるためです。奥の深い仕事をして、徳を広めよう。今、私は大運(アマツヒツギ=皇位)を受け、黎元(オオミタカラ)を愛で育もう。こうしてついに皇祖の跡に従って、長く終わりの無い祚(アマツヒツギ=天から正統な支配権)を保とう。群卿百僚(マヘツキミタチモモノツカサ=多くの氏族と多くの役人)、彼らの忠貞をつくし、共に天下を安らかにしていこう」

初代天皇が「皇祖」とか「諸天皇」とかは言わないと思います(笑)。

以上、追記でしたが、まだ何かあったら追記いたします(笑)。

2015年5月5日火曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(5)

前回までの記事をご覧でない方は

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)

を読んでいただいてないと、今回の説明が何が何だかわからないと思いますので、できれば読んで帰ってきてくださいませ(無理にとは言いませんがwww)。

まとめに入る前に一言だけ書いておきます。
歴史というものは、記録した人、それを見る人の主観で全く変わってくるものです。
いかに客観的に見ているつもりでも記録した人の立場によって記載方法は変わってくるし、現代の我々が見る歴史と、江戸時代、それ以前の人の見る歴史感は似ても似つかぬものであることは異議を挟む余地もないでしょう。
そういう前提に立ち、史書を解釈することは、仮定の連続でありますが、一つの仮定の破綻がすべての説の破綻につながるものではないことを理解しておいて欲しいと思います。



仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)
での系図を簡略化したものが上図です。
そして下のリンクは多分台湾の方が作られた「三国人物」というサイトですが、このサイトの「壹與」の部分を見てみますと

別にどこのサイトに書かれているから正しいとか、正しくないとかの話ではなく、ごく普通に「壹與」についてこのように書かれています。

魏末晉初時代的倭女王,也曾受封「親魏倭王」。年僅十三歲時,因其出身被推舉為女王,帶領動亂中的日本北九州「邪馬台(日向)國」走向穩定,與魏、晉先後建立起外交關係。她是邪馬台國第五位,同時也是末位國王,更是繼第一任女王「卑彌呼」之後的第二位女王。
壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo),原名為「豐受」(ToyoUke),公元234年出生於邪馬台國首府西都原(今日本宮崎縣西都市)。壹與是北九州「邪馬台國」日向族王位繼承人神倭「伊波禮彥」與南九州狗奴國球磨族(隼人族)貴族之女「阿比良」公主所生的獨生女。依輩份來算,壹與是邪馬台國第一位女王「卑彌呼」(HiMiKo)的曾孫。

壹與(Iyo,日本方面也寫成「臺與」Toyo)を日本方面で写して壹與(Iyo)と成し、「壹與」の原名を「豐受」(ToyoUke)と為す。

卑弥呼を受け継ぐ「壹與」は「豐受」なのですね。
建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」は「豊受姫 荒魂命」なのですね。
では仮に「大倭姫命」こと「豊受姫」が「壹與」であり「豐受」であれば王位を引き継いだ「大倭姫」こと「竹野姫」また「日女命」と呼ばれる方は、先代「卑弥呼」そのものであるのではないでしょうか。
そして「竹野姫」は「開化天皇」の妃であり「日女命」であるのです。
この「日女命」、似たような名をどこかで見ませんでしたか?
「皇室より大明神の号を頂 日ノ命大明神と称しました」
考えてみてください「伊加賀色許賣命 」の呼び名は人名じゃないでしょう「伊加々志」一族の女性を現す呼称にしか見えず「伊加賀色許雄命 」は「伊加々志」一族の男性を現す呼称にしか見えません。
魏志倭人伝には「卑弥呼」には夫がいず弟がいたとの記載もあり、一致しないのではとの意見もあるでしょうが、屁理屈をこねれば、この「卑弥呼」は「大倭姫」こと「竹野姫」とする「卑弥呼」ではないのでは、あるいはさらに先代の、三国史記に現れる「卑弥呼」あるいは、史書に現れていない「卑弥呼」である可能性もあるのです。
そして、さらに「竹野姫」である先代「卑弥呼」の夫が「開化天皇」であることを仮定として認めるならば
で書いたように
「 開化天皇」は「卑弥呼」の跡を継いだ男王であり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)であるのです。
ならば
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』に言う
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
時に男王は臺與と共に海を渡り、朝見を果たします。
で書いたように日本海ルート

拠点となる丹後半島には「宮中八神殿」で書いた阿波の天石門別八倉比売神社と同神であると言われる大宮売神を祀る「大宮売神社(おおみやめじんじゃ) 」が存在し、

「仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)」で書いた、長野工学博士が提唱する、日本海ルートから若狭に至り、船を曳き、「船越」を越え琵琶湖経由で大阪湾に出るコースで帰還が可能となるのです。

 誰が帰るのか?
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、其の子(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)と卑彌呼宗女「臺與」が帰るのです。
拠点には「五十猛神」も祀られています。
 新羅からも晋からも、このコースで帰ることが可能なのです。
何処へ帰るのか?
少なくとも五十猛神(いそたけるのかみ)は『「木国の大屋毘古神」まとめ』で書いた自分の本拠地に帰ったであろうことです。

一応、纏めたつもりですが、追記があるかもしれません。すぐではないでしょうが...




2015年5月4日月曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(4)

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)
それでは 海部氏勘注系図を見ていこうと思いますが、ちょっとだけレクチャーを。

海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。
ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた。

「本系図」は、現存する日本の古系図としては、同じく国宝である『円珍俗姓系図』(「智証大師関係文書典籍」の1つで、「和気氏系図」とも呼ばれる)に次ぐもので[2]、竪系図の形式を採っていることから、系図の古態を最もよく伝える稀有の遺品とされている。 wikipediaより

以下に記載する項目は他のサイトにも同様の記載が見受けられます。

邪馬台国と卑弥呼の謎を解く!海部氏系図に隠された謎
日本建国史 第三章 倭人伝と日本書紀の接点『勘注系図』が明かす卑弥呼と台与

この辺、先に書かれている方がいらっしゃるのを承知の上ですので。

さて、この「勘注系図」には二人の「大倭姫(おおやまとひめ)」が記載されています。

一人は始祖である天火明命の六世孫の「宇那比姫(うなびひめ)」別名として「天造日女命(あまつくるひめみこと)」「大倭姫(おおやまとひめ)」「竹野姫(たかのひめ)」「大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)」「日女命(ひめみこと)」。

もう一人は七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」
桂川光和氏の説によれば

『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。
この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
大倭とは古い時代「大和朝廷」が支配した国の名である。「大倭」が「大和」となり、後に「日本」となる。大倭姫は大和朝廷の女王の名である。

確かに「大倭」の名を関する女性を見かけたことが無いような気もしますが、そのあたりの検証はできておりませんので、参考程度としたいと思います。
以下「勘注系図」図面は「神道大系」より「海部氏系図翻刻図」より
確かに
「宇那比姫(うなびひめ)命」亦名天造日女命 六世孫大倭姫 一伝、竹野姫 亦伝、大海靈姫命 亦伝、日女命 云々と記載されております。
ここに出てくる「竹野姫」の名、これが本当ならば


父は第8代孝元天皇。母は皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)[4]。
第二子であり、同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
妻子は次の通り。
皇后:伊香色謎命 (いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。
第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊 (みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) - 第10代崇神天皇。
皇女:御真津比売命 (みまつひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。
妃:丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。
第一皇子:彦湯産隅命 (ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
妃:姥津媛 (ははつひめ、意祁都比売命) - 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
第三皇子:彦坐王 (ひこいますのみこ、日子坐王)
妃:鸇比売 (わしひめ) - 葛城垂見宿禰の娘。
皇子:建豊波豆羅和気王 (たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。
wikipediaより
上の記載は「開化天皇」の系譜について書かれた部分です。

なんと「開化天皇」の妃であった「丹波竹野媛 (たにわのたかのひめ、竹野比売)」のこととなるのです。
そして、この「宇那比姫(うなびひめ)命」亦名天造日女命 六世孫大倭姫 一伝、竹野姫 亦伝、大海靈姫命 亦伝、日女命と呼ばれる方が「卑弥呼」ではないかというのです。
確かに「卑弥呼」は「日女命」と通じます。
では、仮に「大倭姫 一伝、竹野姫」が卑弥呼であったといたしましょう。
そして、七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、「大倭姫命」の部分を参照いたしましょう、すると
拡大しましょう
説明が要りますか?
  一云 豊受姫 荒魂命
  一云 大宜都日女命
伊勢神宮外宮に奉祀される豊受大神の荒魂であり、大宜都比売神のことであるとの記載です。
卑弥呼の次代を受けた「臺輿(トヨ)」が「豊受姫」として当てはまってしまうのです。

ちょっと短いですけど、これで材料は出揃いました。
次回でまとめてみますが、大体言いたいことは分かっていただけたのではないでしょうか。


続く

2015年5月3日日曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(3)

前回までの
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
を読んでからの方がいいような気もしますが、気が向いたらでも結構です(笑)。
さて、今回も脈絡なく「魏志倭人伝」の引用から始めます。

言わずと知れた「卑弥呼」大夫難升米等を遣わし、朝献させた部分です。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。
その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。

この部分で始めて「卑弥呼」の名前が中国の国史に出てくるのですが、これが景初二年六月ということで西暦ならば238年のこと。

この「卑弥呼」の正体(笑)についてはご存知の通りいくつもの説があり、いくつかを列挙すれば
1. 天照大御神説
2. 神功皇后説
3. 倭迹迹日百襲姫命説
4. 倭姫説
5. 甕依姫説
6. 卑弥呼機関説
7. 九州の巫女王説
8. 出雲族説
9. 外国人説
「ここまでわかった! 卑弥呼の正体」(新人物文庫)より。
などがあるようです。
詳しい説明を書く余裕もありませんが「神功皇后説」などは年代の操作がない限り時代が合いません。

そこで、朝鮮半島の歴史を記した酷暑である「三国史記」の「新羅本記」を参照すれば、この景初二年六月(西暦239年)に遡ること65年「卑弥呼」の記載が現れているのです。
阿達羅尼師今二十年(173年)五月
「二十年五月倭女王卑弥呼遣使来聘」
これはどういうことなのでしょうか?
卑弥呼が65歳以上80歳とか90歳とかの高齢を保って、倭国王の地位を守っていたのでしょうか?
誰でもそうじゃないと思いますよね、真っ当に考えれば「卑弥呼」というのは一人の人間のことではなく倭国女王の地位であるとか、階位、あるいは尊称であった可能性が高いのではないでしょうか。
もう一点「魏志倭人伝」に下記の記載があります。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 

「名付けて卑弥呼という」、解説するまでもなく「卑弥呼」と「名付けられた」のです。
つまり卑弥呼は一人ではなく世襲によって受け継がれてきた地位であることが言いたいのです。
そして
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

とありますように、男王をはさんでおりますが、先代卑弥呼と次代卑弥呼(壱与:実は「トヨ」が正式なんですが一般的に書かれているケースが多い「壱与」をここでは使います)との間で王位の継承があった、少なくとも次代が女性であったとの記録が欲しいと思います。
その点で言えば「倭迹迹日百襲姫命」「倭姫」などはちょっと疑問に思えてくるのです。
「天照大御神説」について言えば、「天照大御神」というのが尊称であるという前提に立てば「あり」ではないでしょうか。王位の継承は誰にされたのかと問われれば
「宮中八神殿」で書かせてもらいました「大宮売神(おおみやのめのかみ)」と答えさせていただきましょう。
ただ「大宮売神」というだけでは全く具体性に欠けますので、もう少し具体的な名を出してみれば、例によって(何がwww)勘注系図(海部氏系図)を出してみたいと思います。

海部氏勘注系図は上図(一部)のように系図が縦長に延々と続いており、原本も一部しか公開されておりませんが、手書きの系図を見ること、甚だしく困難なので、翻刻図(神道体系より)を使用させていただきます。
が、前提としてもう一点(いや二点)を挙げておきますので、ここは注意しておいてください(テストには出ませんけどwww)

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
とする。
臺與が王位に立てられた後、男王が立ち、中国王朝の爵位を受けたという記述です。

また801年成立の『通典(つうてん)』でも
『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』
として同様な記述を残しております。
「晉武帝太始初」頃のことであるから泰始元年から二年(西暦265年から266年)頃に、男王が臺與と一緒に西晋の爵位を受けたと見えます。

ちょっと長くなりすぎたので、続く....



2015年5月2日土曜日

仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)

前回の
『仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)』
をご覧になってからお読みください。
まあ、読まなくても支障ないんですけどね(笑)
ついでに、内容がタイトルと「全然違う」じゃないかと仰る方がいるかもしれませんが、なぜか、そのうちにつながる予定となっておりますので、ご安心.......
できないっすよね〜www(自分が一番心配っす)

伊加加志神社(いかがしじんじゃ)
徳島県吉野川市川島町桑村1635
御祭神 伊加賀色許賣命  伊加賀色許雄命  天照大神



場所はここ


「阿府志」に
「桑村山ノ麓ニアリ、俗ニ日命大明神、今ハ伊加加志大明神、野老傳ヘテ曰ク、桑村ノ河邊ニ大竹藪アリ、ソノ地ヲイカカシト云フ、今ハ川トナリテ、田少シノコレリ、昔シ是地ヨリ山ノ麓エウツシタリト、ソノ時ヨリ日命ト號ス、近代、神官イカカシト改ムモノハ舊名ニヨルナリ」
とあり、 吉野川の川中島である善入寺島に「伊加々志」の地名が残る。

神社の由緒には
當神社は延喜の制国幣小社に列せられ祈年の幣帛を頂き平安朝以来皇室藩主よりの尊崇頗る厚く本郷の総社として皇室より大明神の号を頂日ノ命大明神と称しました昔より神地 神戸が有り明治庚午年十一月民生廳より現米五石並に幣帛を頂いておりました その為六国史所載の古社であり明治四年神社社格制定の際郷社に指定されました
御祭神の伊加賀色許賣命は第八代開花天皇の妃であられました 伊加賀色許男命は伊加賀色許賣命の弟君でございます
とあります。
主祭神の伊加賀色許賣命(いかがしこめのみこと)については
伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命(読み方同じ)とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。wikipediaより
で系図はこうなります。
で、この系図を見ていきますと、まず弟の「伊香色雄命(いかがしおのみこと)」は下の地図に見える「山崎八幡神社」の境内社



 下の写真は「山崎八幡神社」

その境内社の恵比寿神社の横に
 「伊加加志神社」跡があり「伊香色雄命(いかがしおのみこと)」が祀られております。
 その昔,忌部が矢を磨くのに使ったと伝えられている「忌部の矢磨石」が残っています。
 これは神社の鳥居の台石に使われている「杯状石」「丹摺石(にずりいし)」とも呼ばれ 水銀朱を精製するのに使われた石です。
 これは山崎八幡神社の裏手に残る「忌部の矢竹」と呼ばれる、忌部氏が矢を作るのに用いたと伝えられている竹藪です。
 竹藪内には「矢神さん」と呼ばれる小さい祠を祭ってあり、例祭日の10月23日には,御輿の渡御を始め,忌部神社の獅子舞、各部落の屋台が出て、にぎやかであったが、現在では神輿の渡御だけが行われているそうです。
 要はここに弟の「伊香色雄命(いかがしおのみこと)」が祀られているということです。
そしてもう一度系図を見ていただいて
伊加賀色許賣命と伊香色雄命の父親である、この系図では「大綜杵」と記されている「大綜麻杵命(おほへそきのみこと)」
この「大綜麻杵命(おほへそきのみこと)」が祀られているのが
徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921に鎮座する「五所神社」



「麻植郡郷土誌 」には
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
 母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
下の写真は五所(御所)神社


また
「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」
とあり、忌部であることは間違いございません。
お妃の名も「高屋阿波良姫」と、すっごく意味深ですしね(笑)
ただ由緒の碑に「崇神天皇第三皇子大麻綜杵命....」云々と意味不明なことを刻んであるのがちょっと残念。
(余談ですけど、ここまで書いてて寝落ちしてしまいました。23時ごろから書き始めて1時ごろ意識が飛んで、ハッと目が覚めたら3時(泣))

 はっきり言ってみれば、物部の系図の中、「大麻綜杵命」「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」は「忌部氏」なのです。
無論、その当時「忌部」と言っていたかどうかは別の話ですけどね。

念のため書いておきますけど、近畿の方は「伊香色雄命」は枚方の生まれであると主張されるでしょう。
サイトを散見いたしましても

伊香色謎は北河内茨田郡で生まれたと考えられる。その名は、かつての伊加賀村、現在の枚方市伊加賀の名を負うものである。和名抄は河内国茨田郡に「伊香郷」を記し、「以加古」と読むと注記をほどこしている。その名の古さを示すものである。地名語源辞典によると「イカ」とは「後ろに山を負う山麓の土地」を云うとあり、伊香保、五十谷(いかだに)などを例として挙げている。
 その背後にある香里丘陵の突端なる万年寺山の上、現在の意賀美神社の境内にあった万年寺山古墳は、四世紀中頃の前期古墳であって、彼女、または、その兄伊香色雄の墓であろうと推定されている。

などと書かれておりますが、別にこの説に異を唱えるつもりはございません。
ただ、阿波の地に「大麻綜杵命」「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」を祀る神社が現存し、「大麻綜杵命」から転じた「麻植津賀(おえづか)」「麻植塚」の地名、また「伊加々志」という、そのままの地名が残っているという事実を記すまでです。
ちなみに地元の人は「いかがっさん」といってるそうです(笑)。

追記
「伊加々志神社」には「崇神天皇」を祀る摂社も現存しております。

さて、冒頭にも書きましたがタイトルと、どう結びつくのか分からないこの内容。
次回で本当に結びつくのでしょうか?
書いてる本人が一番分からないという、最悪の状況でございます(笑)。
続く