2017年6月25日日曜日

麻植の系譜(追記)

あたりの追記になると思います。

「続日本紀」宝亀七年(776年)六月、藤原房前の七子である「藤原楓麻呂」が薨じたとの記事を見ることができます。




 「参議従三位大蔵卿兼摂津大夫藤原朝臣楓麻呂薨しぬ。平城朝の贈太政大臣房前の第七の子なり。」

藤原 楓麻呂(ふじわら の かえでまろ、養老7年(723年)?[1] - 宝亀7年6月13日(776年7月3日))は、奈良時代の貴族。名は楓麿または楓万呂とも表記される。藤原北家の祖である参議・藤原房前の七男。官位は従三位・参議。
wikipedia

この「藤原楓麻呂(あるいは楓麿)地位的には不遇だったようですが、あくまで藤原一党、階位を得るのが遅かっただけで、結局「従三位」まで上がってるんだから文句の言いようがないでしょうと思うのが庶民ですね(笑)。

で、この「藤原楓麻呂」を「公卿補任」で調べてみれば(下図)


なんと、「母阿波采女(うねめ)外従五位下粟直」とあるではないですか。



また、「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」
『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。
にも





下のように「楓麿」「母阿波采女(うねめ)」との記載があります。



さて、この「采女(うねめ)」と言いますのは「日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと」であり、
『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載されております(出典wikipedia)
なぜ「しかるべき美女を撰びて」の部分だけ文字が大きくなっているのかは、ともかくとして(笑)直接天皇に仕える存在である役職の女官を母としていたわけです。

が、前出の
「母阿波采女(うねめ)外従五位下粟直」
の「粟直」の部分。
「粟直(あわのあたい)」を出自としておるのですね。
歴史学者の「角田 文衞(つのだ ぶんえい)」博士は、これらの記載と「写経所請経文」の「板野采女国造粟直若子」の記載より、楓麻呂の母「阿波采女」は「板野命婦」であろうとの見解を出しております。(下記記載参照)

「板野命婦」
生年:生没年不詳
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。外従五位下。藤原房前の7男楓麻呂を出産。阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え,写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し,造東大寺司との連絡係などを務めた。出家し,尼となった。参考文献『正倉院文書』,「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)

つまり、麻植氏系図によれば、忌部の養子であった「房前」は「粟凡直」の一族である粟若子、後年の「板野命婦」を妃として迎え、「藤原楓麻呂」を設けたということなのです。

忌部の族長から養子となったと系図に残る「房前」にその宗家ともいわれる「粟直」一族を妻と迎えさせたのは、いったい何だったのでしょうか?

時代は下り、藤原 通憲(ふじわら の みちのり)嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))

ご覧の通り「南家」の裔。
妻は藤原朝子(紀伊局) - 藤原兼永の女、後白河天皇の乳母、従二位、典侍
となっておりまして
通憲と紀伊局との間に生まれたのが「阿波内侍(あわのないし)」。
寂光院パンフレットより

ですが、その「紀伊局」について「阿波名勝(阿波名勝案内じゃないよ)」の記載には


 

ほほぉ、「麻植忠光」の娘ですとな。
もちろん、忌部神社大宮司家の「麻植忠光」ですね。
「南家」の方も北家に負けじと忌部神社大宮司家より嫁を娶った、とも見えてしまうではありませんか(異論上等www)。

まあ、掘り返せば藤原と忌部、粟凡直との関係がもっと出てくるかもしれませんが、追記として、この辺りを書いときます。

いや、ホントに最近忙しくて、これ書くのに2週間もかかってるんだから(涙)




2017年6月12日月曜日

天日桂神社(下)

天日桂神社(上)からです。

さて、ここにスタンフォード大学のサイトがあります。
http://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41

明治時代の日本の五万分の一スケールの地図が見られる貴重なサイトです。
鴨島近辺を見れば、このように明治二十九年に初回の測量が行われたことが記載されております。

そして「向麻山」はご覧のように「鴻山(こうのやま)」とあります。
無論、呼称です。古伝をみても「俗に鴻山と書く」とありました。
漢字辞書を見ると
形声文字です(氵(水)+工+鳥)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と
「握る所のある、のみ または、さしがね」の象形(「物を作る」の意味
だが、ここでは、「洪(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「圜」と同じ意味を
持つようになって)、「大きい」の意味)と「鳥」の象形から水の上や水の
近くで生活する大きな鳥「おおとり」を意味する「鴻」という漢字が
成り立ちました。 
とあるので、意味としてはあてはまります。
でも、この地図には「向麻山」に神社のマークは二つしかありません。
龍眼神社と國中神社ですね。
ここに「天日桂神社」が加わり、下図の伝承に当てはまるのなら「天日鷲命」は実在したと言ってもいいのかもしれないのではないでしょうかと思う今日この頃を過ごしております。
(さあ、なんとでも言え。ワタクシは、ここらをはっきり言わないヒキョー者なんですよぉぉぉぉぉぉぉ(笑))


で、ワタクシもちょっと勘違いしてたんですが「麻植塚」といえば、ほぼ「JR麻植塚駅」近辺を想像してしまうんですが(下地図参照)
実際はこのように「向麻山」の一部を含む範囲なのです。
なんと麻植塚駅は「麻植塚」じゃなかったんですね。
つまり「天日桂神社」と「天日桂神社」が斎く「方向」は「御陵のある」「麻植塚」に属する訳ですね。
念を押せば、この方向(笑)

「ここに天日鷲命の御陵あるや無きや」
それは、まだワタクシには分かりません。(←ヲイヲイ)
ただ

このような会が、静かに動き始めたのは事実なのです。
また、なんらかの進展があればワタクシのできる範囲でご報告したいと思っております。

(一旦)終わり。


あ、忘れ物
抜き差しならなくなったのではないでしょうか


2017年6月5日月曜日

天日桂神社(上)

「在村国学者・儒学者の阿波古代史研究についての史学的研究」

明治二年に徳島藩のもとに小杉榲邨(すぎおみ)などが中心となって
「阿波国風土記編輯御用掛」が設置され、阿波の歴史と地誌の大規模
な編纂が企てられたが、同五年の廃藩とともに廃止された。
この編輯掛には多田をふくむ多くの国学者・儒学者が出仕していた。

このメンバーを風土記編輯御用掛」と呼びました。




今分かっているメンバーは下の一覧。

風土記編輯御用掛  長久館出仕          松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持
               常三島       渡辺 圓
               同         八木 正典
               御弓町       郡 一郎平
               佐古 椎宮下神職  生島 瑞穂
 南分右同惣而士族御用取扱  板野郡坂東村神職  永井 五十槻
 郷学所ヘ出ルニ付除ク    阿波郡尾開村士族  四宮 哲夫
               同郡香美村神職   浦上 美澤
               美馬郡上野村神職  二宮 香取
               三好郡盡間村神職  近藤 忠直
               麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
               名西郡諏訪村神職  多田 義高
 明治四年末七月二十三日   名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
               勝浦郡小松島浦   八木 佳七
               那賀郡吉井村    服部 友三郎
               同郡大京原村    高石 延吉
               海部郡郡奥浦    桂  弥平
               同郡牟岐浦神職   榊  枝直
 従事セヌウチニ転      同郡同浦神職    阿部 三豊
 ジタラシキニ付除ク
                     徳島  小杉 榲郎
                 名東 新居 正氏ヲ脱セルカ
「ふるさと阿波」より

小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。

また「阿波国書誌解説」より

松浦 宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」

渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿

生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。

永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四

浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四

近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。

久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七

多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。

後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六

八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇

服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)

高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)

桂  弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)

この名面により編纂されようとしていた「阿波国(続)風土記」。


その最終巻のさらに最後に近い中、下図の文書が記載されておりました。

「麻植郡麻植塚村舊跡傳」




麻植塚村ト称スルハ天ノ日鷲ノ命ノ御陵アルガ故ノ名ナリ
其ノ處ハ麻植郡麻植塚村ト云
麻植塚ノ御陵アルヲ以テ知ルベシ
古老ノ傳ニハ上古御塚 神(カウ)ノ山ノ麓ニアリシガ
川水ノ為ニ潰毀セシユエ今ノ所エ移奉ルト云
.
.
麻植塚
コノ御陵ノ南ニ當ツテ麻植塚前ノ同處ト地ノ字ニ残レリ
コノ御陵ノ後ロハ一面ノ大藪ナリシヲ中古、開墾シテ
民地トナレリシ天正十九年御検地ノ御帳ニモ麻植塚前
同地トアリ
神ノ山北面麻植ノ古宮ノ地字ヲ堂床ト云此神中北五社神
ト云神体五ツアリ此宮ノ後ニヲカダマノ木ト云テ萬葉集
ニ見エタル木アリ享和年間新宮ウツスト云

そして、私たちは、ここ「向麻山(神(カウ)ノ山)の麓に一つの小さな小さな祠があることを知ることになるのです。





その小さな祠の社名は「天日桂神社」。

そして、その御祭神は「天日鷲命」「黒高大明神」であることを知るのです。


(下)に 続く。