2018年8月12日日曜日

麻植の系譜:願勝寺編(追記:安徳天皇女帝伝説)

えー、本当ならば「倭の神坐す地(8)」を上梓させていただく順序ではございますが、ちょっと、いや頗る行き詰まっておりまして、苦し紛れの現実逃避で今回の記事をアップさせていただきます。😰😰😰


麻植の系譜:願勝寺編(7)
あたりの追記となります。

源平合戦図屏風より

さて、皆様方は安徳天皇が女性だったという説があるのをご存知でしょうか?
ますは「愚管抄」より
※『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。wikipedia

其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ厳嶋ノ明神ノ利生也。コノ厳嶋ト云フハ龍王ノムスメ也ト申伝ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ。我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ帰リヌル也トゾ。コノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覚ユ。
愚管抄 第五巻


天台座主慈円、愚管抄(上記)にて曰く「安徳天皇は平清盛の請願により厳島明神(厳島神社)が化生(けしょう)した存在だから竜王の娘であり、海の底へ帰っていったのだろう」
という記載で「竜王の娘」と明記されているところから、女性ではなかったかという説が出てきたわけです。

また、平家物語においても

平家物語 巻第三 四(三六)公卿揃
今度の御産に勝事数多あり  まづ法皇の御験者  次に后御産の時御殿の棟より甑を転ばかす事ありけり  皇子御誕生には南へ落し皇女誕生には北へ落すをこれは北へ落されたりければ人々  いかに  と騒がれて取り上げ落し直されたりけれども  なほ悪き事  にぞ人申しける

ここには安徳天皇誕生の際の模様が描かれていますが、平徳子が皇子(後の安徳天皇)を出産した記事に続いて、「今後の御産に勝事(驚くべきこと)あまたあり」として、異例の出来事を列挙しています。
その二番目に、宮廷では御産のとき、米を蒸すのに使う土器である甑(こしき)を御殿の棟から落とす習慣があり、皇子誕生のときは南側、皇女のときは北側に落とすのが例となっていたところ、北側へ落としたため、皇女出産であると人々が騒ぎ出したので、拾い上げて今度は南側に落としましたが、「悪しき御事に人々申しあへり」と記されています。
男女により落とす方角が決まっているのを、誤って逆の方角に落としてしまったとのことですが、天皇後継出産の儀式を「間違うはずなどありません」よね。

また
平家物語 巻第三 一(三三)許文
六月一日中宮御着帯ありけり  仁和寺御室守覚法親王急ぎ御参内あつて孔雀経の法を以て御加持あり  天台座主覚快法親王寺の長吏円慶法親王も同じく参らせ給ひて変成男子の法を修せられけり  かかりしほどに中宮は月の重なるに随つて御身を苦しうせさせ給ふ  一度笑めば百の媚ありけん漢の李夫人昭陽殿の病の床もかくやと覚え唐の楊貴妃梨花一枝春の雨を帯び芙蓉の風に萎れ女郎花の露重げなるよりもなほ労しき御様なり

この段において「変成男子の法」が執り行われております。
この「変成男子の法」、密教の秘法でありまして、胎内の女児を男子となす術なのだそうです。
正式には「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)変成男子法(へんじょうなんしのほう)」と言います。

烏蒭沙摩明王
いっさいの不浄や悪を焼きつくす霊験のある明王として,死体や婦人の出産所,動物の血の汚れを祓う尊としての信仰が主流で,真言宗や禅宗では東司(とうす)すなわち便所の守護神としてまつられている場合が多い。また密教では烏蒭沙摩変成男子(へんじようなんし)の法と称し,出産前に胎内の女児が変じて男子となる秘法として貴族社会に信仰された。
だそうです。
女人が成仏できる、できないの仏教説は置いて、天皇の後継は男子でなければならないとの当時の思いより、この秘法が執り行われたにもかかわらず、生まれたのが女人だったため上記の「甑を倒す方角」云々の段になったと思われます。

さて、拙ブログでは、安徳天皇が壇ノ浦で身代わりを立て、入水せず阿波に落ち延びたとの伝承について何度か書いてきました。

阿波の國、阿南市に「十八女町」という地名が残っています。
「さかりちょう」と読みます。

十八女町
十八女町(さかりちょう)は、徳島県阿南市の町名。2014年3月31日現在の人口は141人、世帯数は45世帯。郵便番号は〒771-5178。
阿南市の北西部、那賀川の左岸に位置し、北西は勝浦郡勝浦町、南は水井町、北は加茂町、北は深瀬町に接する。
石灰岩埋蔵量620万tの十八女鉱床があり、月産は500t。南境から南境を流れる那珂川沿いを徳島県道19号阿南鷲敷日和佐線が走り、加茂町を結ぶ十八女大橋は昭和55年12月に完成した。一帯は東山渓県立自然公園に属する。
寛保神社帳によれば、百姓新左衛門の先祖である日下但馬守が18歳の姫を守護して当地に落ち延びて開発を行ったとする伝承があることから、十八女という名が付いたという説がある。
wikipedia

この「18歳の姫を守護して当地に落ち延びて開発を行ったとする」姫が「安徳天皇」であったとの伝承があるのです。
それが、この「皇子神社」

伝承の記載は下図「加茂谷村誌」より


「安徳帝は姫宮でござった。」との記載を見ることができます。

伝説によると安徳帝を奉じて平家の一族がこの山の中に落ちて来、最初は南の方 水井に向うた山の麓であった。
今の地名を王屋というここを仮の住居とせられた。

中略

そして安徳帝は御齢十八歳でおかくれになられた。よってこの村を十八女村という。

中略

又王子を皇子と更めたのが明治二十七年四月十九日であった。

さあ、どうしましょう「麻植の系譜:願勝寺編(7)」に書かせていただきました。
「願勝寺文書」「麻植氏系譜」などから見れば、安徳天皇は

帝王御后ハ麻殖正高ノ末子也世ニハ流布シ又帝王ハ廿一歳ノ御時九州ニ下ラセ玉ヒ始メニハ豊前ノ国へ移ラセ玉ヒ後ニハ肥後国へ赴カセタマフ

とあり、「御齢十八歳でおかくれになられた」のとは少々相違が出てきています。
まあ、単純に「安徳天皇、阿波にて生存説」の延長として考えれば、18歳までこの地で隠棲していたと考えるのが妥当でしょう。
それにしても、阿波に安徳天皇伝承の多いこと。
「何もない」と考えることが困難ですよね(笑)。

さて、ここが「十八女」の地。





 さて、安徳天皇はこの地に居たや、否や。
社殿は黙して語らず、ですかね。

というわけで、番外編でございました。
次回は「倭の神坐す地(8)」に戻るつもりなんですが、書けなかったら逐電するかも(笑)。